第七話  見えない糸 =2=


「シェスカ!」
 つま先が床に触れた瞬間、ダリアは懐かしい女の名を呼んだ。澄んだ空気がゆらりと動き、すぐに世界が安定する。
 そこは魔界最上層――魔王が住むことから魔城≠ニ呼ばれ、原理は不明ながらも意志を持った建造物の内部である。ダリアはだだっ広い自室を見渡し、そこに少女の面影をとどめた下女の姿を捜す。
 しかし彼女の姿はどこにもない。それどころか、この広い部屋にはダリア以外動くものがない状態だ。
 普段は女官としての業務をこなしていることを思い出し、ダリアは慌ててドアに向かった。
 一刻を争う事態だ。焦りで顔色を失いながら、ダリアは廊下に飛び出し、そこで懐かしい女の姿を見つけた。
「シェスカ!」
 大声で呼び止めて駆け寄ると、書類を手にしたシェスカが驚いたように振り返った。
「ダリア様? いつお帰りに……」
「今だ! ご無沙汰だな!」
「はい、お元気そうで」
 シェスカは妙な言葉を覚えてきているダリアに以前と変わらぬ笑顔を向けた。それから、ふっとあたりを見渡してダリアの瞳を覗き込む。
「ヴェルモンダール様がいらっしゃらないようですが」
「ああ、人間界に残っている」
「……何かありましたか?」
「え?」
「伴侶とごいっしょに帰城するとばかり思ってました。それがヴェルモンダール様さえ残してお一人だなんて」
「私はそんなことを言ったか?」
 確かシェスカには伴侶の話などほとんどしていない。本気で惚れ込んだとか、連れ帰る予定だとか、その手の話題は一切口にしていないはずだった。
 さてはヴェルモンダールだな、と見当をつけると、シェスカはコロコロと鈴を転がすような笑い声をあげた。
「聞かずともわかりますよ。人間界に降りてただ一度もご連絡がないんですもの。よほど愛おしい方にお会いになったに違いないと、その話題で持ちきりです」
「今度紹介する! いい男だぞッ」
「楽しみにしてます」
 くすりと笑ってシェスカが頷く。その姿をじっと見つめてから、ダリアは一呼吸あけて問いかけた。
「傀儡子というのを知っているか?」
 と。
 魔界はいまだに種族や生態すらわからない未知の生き物が跋扈ばっこする不安定な世界だ。だが、傀儡子――通称女郎蜘蛛といわれる者たちは、他者を操る特殊な戦術でなにかと一目置かれており、実際にダリアでもその存在を認知している。
 しかし、詳細ともなると話が違う。
 傀儡子たちは狡猾で周到だ。奸計かんけいを好み、あらゆる事態にそなえて万全の体勢でのぞむ。その大賢さで魔界の史実すら狂わせることもあるという、正真正銘の異端児たちだ。
「名くらいは聞いた事がありますが……ヴェルモンダール様は?」
「少し、知っていた」
 まさか彼らが出てくるなど、とヴェルモンダールは苦くつぶやいた。正体はわかるが詳細はわからないというのだから始末が悪い。
 そして、中途半端な情報はダリアをひどく狼狽させた。
「傀儡子は糸を使うと聞きます。目に見えない糸で、他者を操ると」
「ああ……ああ、その通りだ。糸を送られた者はどうなると?」
「そこまでは存じません。ただ、糸は脳まで到達するから、傀儡子が飽きれば操られた者は死ぬのだろうと」
「……そうか」
 同じか、とダリアは心の中で続けた。
 傀儡子はあえてダリアにだけ接触してヴェルモンダールからは姿を消していたのだ。伏兵である淫魔の接触にばかり気をやっていて、本陣である傀儡子を見逃してしまったのだとようやく気付く。その代償はあまりにも大きかった。
 糸はおそらく、大久保とイナキの全身に根付いている。
「糸を抜く方法は?」
「存じません」
 あっさりとシェスカが返す。無理に抜けば命は無いという噂です、と躊躇いがちに続けた。これも、ヴェルモンダールの意見と一致した。
「何かあったんですか?」
 さすがに不安を覚えたのかシェスカが真剣になる。硬くなる表情を崩してダリアは彼女に笑顔を向けた。
「なんでもない。ただ、ちょっと気になることがあって……シェスカ」
「はい」
「魔界で一番物知りなのは誰だろう」
「……物知り、ですか。知識が豊富というなら死海の魔女が一番です。次は不夜城の吸血鬼。でも、魔女がわからないなら、それ以上は存在しません」
「そうか、ありがとう」
 礼もそこそこに床を蹴った。止めようとするシェスカの顔が大きくぶれて跡形もなく消えた。
 泣きたくなった。
 心も体も、命すら絡め取る死の糸が全身に根付いているのだ。生かすも殺すも傀儡子次第ならば、いまさらどう足掻いても二人の命を救うことなどできない。
 せめて傀儡子さえ見付かればと思うのだが、新しい環境の中、誰が犯人なのかを見極めるのはひどく難しかった。片っ端からつるし上げたかったのだが、ヴェルモンダールはそれに強く反発して人間界に残ることを選んだ。
「頼むぞ、ヴェル」
 不安だけを募らせながらも言葉にする。足が地面に触れると同時に上体を低くし、ダリアは瞳を細めた。濃密な瘴気が空気に溶けてうねるのがわかり、呼吸が知らずに浅くなった。肌を撫でる空気は乾いているが、別の何かがねっとりとまとわりついてくる。
「上等だ」
 ダリアは低くささやく。
 座標固定と呼ばれる移動術は、文字通り座標を固定させ、空間同士を繋げてその場所に移動する離れ業だ。ミスをすれば命がない。固定場所を誤れば細胞が手当たり次第に同化して、命を落としたほうがマシだと思えるほどの惨状になる事もある。
 ゆえに慎重になるのだが、今のダリアにはそんな心のゆとりがなかった。目の前には大きく傾いた館が一軒あった。あと数歩違えば、彼女の体は無機物を取り込んで人としての原形を失っていたに違いない。
 ダリアは背後を確認して、そこに広がる湖面に薄く笑った。
 死海とは、四海――その館は、海と見紛うばかりの巨大な湖のどこかに位置し、どこにも存在しない建造物。陸に繋がる通路はなく、湖にはつねに外界と館を寸断するように深く濃い霧が立ち込めている。昼夜を問わず晴れることのない濃霧は視界を奪って魔力を捻じ曲げ、来客を拒み続けてきた。
 死海の魔女は霧の館に住んでいる。
 訪れる客の多くは屍であると、風の噂で耳にしたことがある。
「ようこそ、客人。さて、何年……何百年ぶりだったかねぇ」
 地の底から響くような声に、ダリアは湖に向けていた視線を慌てて正面の館に移す。音もなく扉が開き、その奥には白い手袋が二本、もみ手をしながら宙に浮いていた。
 ダリアは唖然として手袋を凝視する。
「ああ、それは執事のチャールズ。……お前、どこに体を忘れてきたんだい? 困った子だね」
 声は呆れたようにそう告げる。白い手袋は問題ないとでも言いたげに手を振ってからダリアに手招きをした。
 魔城にも変わったものは多々あるが、しかし、肉体を失った悪魔というのは珍しい。亡者の類かとも考えたが、亡者はもともと意識もなければ理性もない輩だ。他者の言葉を解することはなく、生き物を見れば本能で襲ってくる事も多い。根本的に白い手袋とは違う存在である。
 ではアレはなんだ。
 ダリアは眉をひそめて考え込んだが皆目見当もつかず、不気味に思いながらも館に足を踏み入れた。
 館は外観よりはるかに大きな建造物だった。長い廊下はロビーをはさんで左右に長く続いており、その先は確認できなかった。魔城と同じで空間自体を歪めているに違いない。白い手袋はまっすぐ進み、質素なドアを静かにノックした。
「チャールズ、その部屋じゃないよ」
 呆れた声に白手袋はわざとらしく手を打つ。くるりと手の甲を返すとそこにはドアノブが握られていて、白手袋はそのドアノブを隣にある壁に刺して軽くひねった。
 壁に亀裂が走る。バラバラと土壁が崩れると、それは床に触れる前に視界から消えた。
 軽い音とともに壁の一部がずれて扉になり、手袋はくるくる手を返して入室を促すような仕草をした。
 まるでマジックだ。
 ダリアは半ば感心しながら手の動きを眺めていた。きびきびとした動作は男性を連想させ、やることがいちいちキザなのが笑える。
 焦る気持ちにほんの少しゆとりができた。
「名乗ならくてもいいよ。あたしはうるさいのが嫌いでね。ああ、でもあたしの名は言っておこうか。死海の魔女だ」
 単刀直入な自己紹介に呆気に取られた。それ以上に、椅子に腰掛ける魔女の姿に唖然とした。
「なんだ、あたしに用事なんだろ?」
 建物同様、斜に構えた魔女≠ヘ大きな扇子のような物で口元を隠して楽しげに瞳を細めた。なりはダリアの想像以上に若かった。若いどころか、人間で言えば二十代でも十分に通る。長い手足も予想外だ。
 しかしそれ以上に予想外だったのは、魔女本人である。
「オカマか!」
 きらきらと光り輝く闇色のドレスは銀糸で見事な刺繍をほどこされていた。短い髪をツンツンに立たせたスタイルは、過去に見たロックバンドのボーカルに似ていた。所々に赤や青の毛の房が混じっているところはる奇抜きばつを通り越している。手足は細く、はだけた胸元からは女とは思えない肋骨が浮き出ていた。
「オカマだな!」
「な、なんて子かしら! 死海の魔女をつかまえてオカマだなんてッ」
「オカマだろう!」
「ちょっと女っぽいからってなによ! 女は体じゃないのよ!」
 不躾にダリアの体を見て、さも腹立たしげにワキワキ手を動かしながら魔女が叫ぶ。
「女はテクよ!」
 イナキがいれば間違いなくダリアともども黙らせるタイプだ。鼻息荒く言い切って、死海の魔女は長い足を組んでダリアをめつけた。
「まったく、久々の客人がこれなんだから……」
 切なげな表情で溜め息をつくのだが、痩せたパンクの兄ちゃんがシナを作って哀愁ただよわせる姿は奇妙でしかない。一瞬帰ろうかとは思ったが、ダリアは思いとどまって魔女を見た。
「聞きたいことがあるんだが」
 ふっと魔女の表情が動く。思案げにダリアを見て、再び小さく溜め息をついた。
「傀儡子の件?」
「……どうして、それを」
「魔女を馬鹿にしちゃいけないわ。ありとあらゆる世界に通じ、その真理を探求するのが魔女本来の姿。……結論をご希望?」
 返答のできないダリアをしばらく見つめ、魔女は近くにあるテーブルを引き寄せ紅い布を取り払って水晶の球を出す。世界を反転させて映し出す水晶は、魔女が手をかざすと取り込んだ風景をぐにゃりと曲げた。
 それを覗き込み、魔女は瞳を細めた。
「糸は取れない。くぐり糸は生きた武器で、神経へ到達すると驚異的な速度で増殖を始める。最終的には糸を送った傀儡子本人でさえ抜くことができなくなる」
「……本人も?」
「そう。交感神経もやられるから、人形たちは傀儡子がいなければ生命維持さえできなくなる。人形は傀儡子なくしては生きていけない、個体としての識別さえ失う最悪の循環」
「何か方法があるだろう?」
「ないね。糸を抜く方法を考えるより、新しい玩具を手に入れたほうが賢いよ。次善策がなくはないが」
「次善策?」
「影人を身代わりにするのさ。影に奴らを流し込んでくぐり糸を混乱させるんだよ。でもこれは、糸が張ったあとじゃ効果がない」
 影人、と言われてダリアはここ数日間の奇怪な現状を思い出していた。イナキが中学に入学してからちょかいを出すようになった淫魔は、彼に影人を送っていた。
 もともと無害な種族であるという認識しかなかったから、この謎の行動自体は気になったものの危険視することはなかった。
 あれがくぐり糸を警戒してのものであるなら、傀儡子と淫魔は反する位置にいる解釈になる。
 傀儡子はイナキを狙い、淫魔は彼を守ろうとした。
 ――釈然としない。
 だいたい、淫魔にそれほど知識があるとは思えない。同種族だからよくわかるし、過去にともに行動したから断言できるが、淫魔は本能だけで動く生き物だ。筋道をたてて物を考えることも、危険に備えて事前に対策を練ることも、まず普通では考えられない。
 しかし、接触してきた相手の気配はどう考えても淫魔でしかないのだから混乱する。
 ダリアはしばらく考えをめぐらせて、今はそれどことではないと慌てて魔女に告げた。 
「糸を仕掛けられた人間が二人いる。一人は……三種類、別の糸を入れられた」
「それは」
 息をのんで魔女は動きを止めた。
「悪いけど、あきらめろとしか言えない。体の中でまともに動いている器官がどれだけ存在するか」
「死なせるわけにはいかない。操られる事も、私から離れることも――許さない」
「無理よ。糸は抜けない。くぐり糸に毒があることを知っているでしょう。妙な行動を取れば、本当に手の打ちようがなくなるよ」
「放っておけというのか?」
「もっと手っ取り早い方法がある」
 魔女は両手で水晶を包む。やや間をあけて口を開いた。
「生き人形となった者を殺せばいい。人ならお前が生きている間に転生する事もあるし、それが一番確実よ」
 抑揚なく告げる言葉に怒りが湧いた。自らの手で、愛しい者を殺せと言うのだ。
 転生という確証もない奇跡にすがって、半身である者の命を絶てと進言する魔女に、ダリアは怒りをあらわにする。
 ピンと、空気が張り詰めた。
 あふれる魔力が室内を侵食して館を包むとかつてないほど空気がざわめいた。悲鳴をあげる大気に気付いて魔女が細い眉を持ち上げる。
「ほかに手立てはないわ」
 真摯な眼差しはわずかに揺れながらもまっすぐにダリアを捉えていた。
「この界の平定のためにそれが一番の道よ、魔王ダリア」
「――私の身分を知って、それを口にするか」
「ええ」
 魔界は弱肉強食だ。弱い者が吼えたところで命を落とすだけ、意に従えたいのなら、武力や智謀によって相手をねじ伏せるしかない。そんな世界において、ダリアは頂点ともいえる地位にいた。意見するなら命懸けになることくらい想像はつくだろう。
 そして死海の魔女と呼ばれる者はひるむことなく己の想いを口にした。
「……わかった。邪魔したな」
 本当にどうしようもないのだと全身で切に語られてダリアは瞳を伏せて踵を返した。動揺する気配を振り切るように床を蹴る。
「殺せというのか。次に出会うために」
 滑稽な、あまりに滑稽な選択だ。あの出会いが運命だとは思っていないが、仮に見失えば手を尽くして彼を再び探し出すだろう。
 そのための努力など惜しまない。どんな困難な道でも歩いていく自信はあった。
 イナキのためなら何でもするだろう。
 けれど、その命を絶つことだけはできない。
 たとえ姿形が同じだけの生き人形になったとしても、そこに彼の意思がないとわかっていても彼女自身が手にかけることはできない。
 同じように、どんなに危険と知っていても誰かが彼を殺すことは許せない。
「どうすればいい? みすみすお前を利用させるわけにはいかないのはわかっている。わかっているんだ――……」
 死を招くその糸は絶望さえ呼び寄せる。どことも知れない大気にただよいながら、ダリアは己の両手を凝視した。
 ゆらりと視界が揺れて、手の輪郭が崩れた。水滴が手の平を滑り落ちると、もう嗚咽をこらえる事などできなかった。
「イナキ」
 平穏を乱し続けた自覚は十分にある。
 それでもいいと彼は言ってくれた。手放すくらいならいっしょに堕ちほうがいいのだと優しい笑顔を浮かべながらはっきりと言葉にしてくれた。
 その言葉が――嬉しかったはずのその思い出が、あまりに昔の記憶のようだった。
 嗚咽がもれる。
 彼女の心を映すように空は厚い雲に覆われて、やがて小さな雨粒を大地へと落とした。
 ダリアは降りしきる雨の中、子供のように泣きじゃくっていた。

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