第七話  見えない糸 =1=


 奇妙な浮遊感を覚えて立ち止まる。
 妙に体が軽い。不快ではないが、いつもと明らかに違う自分の体に疑問を抱かずにはいられなかった。
 しかし、原因を探る前にそれらの思考は瞬く間に四散して、彼の中には何一つ残らなかった。
「イナキちゃん、どうしたの?」
 姉からの問い掛けにイナキは顔を上げた。
「顔色悪いよ?」
 心配そうに問われて首を傾げた。どうしてなぎさが中学校にいるのだろう――そう考えて、そこで初めて、いま自分がいるのは学校ではなく自宅であるのだと知った。
 慌てて時計を見ると、すでに短針は下を向いている。家に帰ってからずいぶん時間がたっていた。
「イナキちゃん?」
「あ、大丈夫」
「……なら、いいけど」
 なぎさはどこか不満そうな顔で近づいてきた。そして、持っていたお盆にテーブルの上にあったコーヒーカップや小皿を乗せはじめる。
 カップと皿は二つあった。残っているゴミから、ケーキを食べていたことがわかる。
「お客さん?」
 何気なく聞くと、なぎさは眉をしかめて手を止めた。
「里見ちゃんがさっきまでいたよ。イナキちゃん、楽しそうに話してたじゃない。……本当に大丈夫?」
「え?」
 なぎさの言っている意味がよくわからず、イナキは彼女の顔を凝視し、すぐにぎこちない笑顔を作った。
「そうだった。……疲れてるのかな」
 何も覚えていないとは言えなかった。
 ダリアに出会ってから非日常が日常になりつつある。また何か厄介ごとに巻き込まれたに違いないと、彼は冷静に現状を把握した。
 心配症のなぎさにそれを悟られるのはあまりよくないだろう。
 そう考えて手を伸ばす。
「ごめん、オレがやる。夕飯の支度してて」
「ん、じゃあよろしく」
「うん」
 お盆を受け取って食器を乗せ、テーブルの上を拭いてから立ち上がる。
 それにしても、海斗ならまだしも、なぜ今まで避けてきた彼女なのだろう。
 イナキはひとしきり首をひねる。そういえば学校でも珍しく小雪と他愛無い話をしていた。内容はまったくと言ってもいいほど覚えていないが、感覚だけは鮮明に記憶している。
 それも何だかおかしな話だ。だが、どんなに考えても納得する答えに辿りつかない。
 色々考えながら食器を洗って一息つくとダリアの気配を感じた。何となく玄関に向かうと、予想どおり彼女がドアを開けて入ってくるところだった。
「お帰り」
「あ、ああ、ただいま」
 驚いたように動きをとめ、それから息を殺すようにじっと見つめてきた。
 いつ見ても綺麗だと思う鮮やかな紫の瞳は、一瞬だけ痛々しげに歪んで静かに伏せられる。彼女は大きく息を吸い込んでからふわりと笑顔を浮かべた。
 ひどく儚げな笑み。
 ざわざわと嫌な予感が染み出すようで、イナキは次にかける言葉を失った。
「調子はどうだ?」
 靴を脱いでダリアが軽く口を開く。その様子をつぶさに観察≠オながら、イナキは何かに反発するように視線をそらした。
「いいよ」
「そうか」
 珍しく短いやり取りだった。いつも楽しそうにしている彼女は、今日に限ってどこか深刻な顔をしていた。
「先生こそ……どうかした? 辛そうだけど」
「……別に何もないよ。ちょっと今日はいろいろあってな」
 ダリアはイナキの隣に並び、そして手を伸ばしてきた。肩を優しく撫でて唇を噛み、そして瞳を伏せながら手をひく。その一連の動作が胸の奥に引っかかって彼は彼女を無言で見つめた。
 ダリアの触れた場所には、赤いクモの痣があった。それを思い出して落ち着かない気分になり、イナキは彼女の手が去った場所をきつく握った。
 なにか言わなければ、と妙に焦る。
「そういえば、海斗が」
 口をついた名に、ダリアが不思議そうな表情をした。
「クラスメイトなんだけど……先生のこと、知ってるみたいだった」
「私のことを?」
「……魔王だって」
「それは……問題だな」
「それで、同族だって……」
 そうだ、彼はそんな言葉を口にした。そして、その後なんと言ったか。
 そう、確か逆らうなと忠告された。傀儡にするわけにはいかない、だから逆らうなと。
 あれは一体どういった意味で言われた言葉だったのか。なんとなく聞きそびれて別れてしまったが、聞き流してはいけない内容だった気がしてならない。
 学校で何度かその件に関して聞こうと思った。
 しかし、自らの意志に反して質問の類は一切出てこなかった。
 今もダリアにそのことを聞きたいと思っているのにどうしても言葉が出ない。おかしな現象だ。まるで自分の体が自分の物ではないような――それを裏付けるように、ときどき意識さえプツリと途切れてしまっている。
 イナキは口ごもる。
 この状況は、おかしいという言葉だけで片付けてはならないものだ。早く何とかしなければ取り返しが付かないことになる。
 直感でそう判断したのに言葉がまったく出ない。体が意に反してリビングに向かって歩き始める。
 一瞬、視界が白く濁った。肩に痛みが広がり、すぐに消える。
「イナキ」
 小さくかけられた声にぎこちなく振り返る。恋人がかすんで見えて胸騒ぎを呼んだ。そんなイナキの姿を見てどう思ったのか、彼女は大きく息を吸い込んでから小さく笑んだ。
「私はしばらく、魔界へ帰ろうと思う」
 淡々と告げる彼女を見る。
 笑顔が崩れる。
 それは、泣き顔にも見えた。

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