第六話  変調 =2=


 イナキの交友関係は狭いようで広い。それは、社交的というわけではないが協調性があり、周りをよく観察して気遣うという彼の気質によるところが大きい。
 小学校の頃はもろもろの事情により一人でいることを望んでいた少年は、休み時間は必ずと言っていいほど読書にあてていた。中学校に進学してもその基本スタイルは変わらないのだが、過去を知らないクラスメイトたちも増え、読書をしようと本を開く彼に平然と話しかけることが多い。イナキは楽しみの時間を奪われてもこれといって怒る事もなく、それどころか楽しそうに談笑に加わっていた。
 自分から派手な発言をすることはないが、要所要所はきちんと押さえている。そのため会話もスムーズに流れやすく、自然と助け舟を出すために彼の周りには人が集まりやすい。
 意外だ、とダリアは内心ひどく驚いた。
 意外だが当然の結果だろう、とも思う。
 体こそ小さいが、彼には包容力がある。誰にでも等しく発揮されるのが残念でならないが、独り寂しくたたずむ姿を見るよりはましだ。
 それに、特定の感情は自分だけが独占しているというわずかばかりの自負があった。
 職員室で与えられた机に向かい、ダリアは書類に目を通すふりをしながら思考と視界を切り替える。
 先見の水晶を支える鳥の足は、なぜか妙にダリアになついていた。
 意識して呼びかければ水晶が見せる光景をダリアの脳裏へと送り込んでくれる。あの水晶にもまだ色々謎が秘められているのかもしれないなと、彼女はそんな事を思いながら瞳を細めた。
 目の前にある書類の束がかすむ。すぐに、教室内の光景が浮かんだ。ゆらりと視界が大きく揺れ、低いざわめきに甲高い子供のものが混じった。
 いくつも重なる言葉の多くは雑談だ。ドラマの話や漫画の話、ゲーム、ファッション、異性の話題――ネタが尽きることを知らないようだった。
 その中でひときわよく通る声があった。
 集まる人の数もやや多いその場所の中心には里見小雪の姿がある。イナキとは違いよく目立つ少女だが、過去に突出しているという感は受けなかった。けれど今日は、いつもと違う雰囲気がある。
 ダリアは柳眉を寄せた。
 少女の笑顔がどこかに向かう。どこに、と考えた直後、少女の手はすぐ近くにある少年の肩に伸びていた。触れられた瞬間、少年はわずかに眉をひそめた。とっさに反応したのは、彼の近くにいるもう一人の少年だった。
 少女の手を振り払うと、彼は何も言わずに少女を睨みつけた。それをなだめたのは眉をひそめていた少年――イナキである。
 彼は驚いて手を引っ込めた小雪に謝罪して、それから不機嫌な顔をする少年に言葉をかける。平気、と小雪が笑うと、緊迫した空気がすぐに溶けた。
 それからは楽しげな談笑が始まった。まるで長く付き合ってきた友達同士のように、イナキと小雪が言葉を交わす姿が映る。
 それは奇妙な光景だった。
 もともと接点のない二人は小学校の頃からさして親しくもなく、教師であるダリアと付き合っていることが知られてからは小雪を警戒し続け、彼からは決して話しかけたことはないはずだ。
 それなのに、少女に笑顔を向けている。熱心に話しかけるその姿は、事情を把握しているダリアにとっては異様としか言いようがなかった。
「なにがあったんだ?」
 小さくうめくと眼裏が一瞬赤く染まり、視界が再び書類の束を映し出す。
「……どうかしましたか?」
 隣に腰掛けるヴェルモンダールが小さく問いかけてきたが、口を開く気にもならなかった。もう一度今の光景を見ようと思ったが、今度は上手く先見の水晶が反応しない。イナキのいる教室まで行けばすぐに状況が把握できるのだが、しかし恋人と他の女が仲良くしている姿というのはあまり見たいものではない。
 駄々をこねたいのは山々だが、ダリアはぐっとこらえてヴェルモンダールを見た。
 何か起こったときはすぐに対処できるよう、神経を張り巡らせている。しかし、それにはまったく手ごたえらしいものはなく、かわりに恋人と他の女が親密になったという変化のみが伝えられる。
 なかなかどうしてこたえる状況だ。
 それならいっそ本当に何もなければいいのだが、直感と言うものが危険を知らせ続けているせいで、監視の手が緩められない。
「……これがかの有名な夫婦存亡の危機というやつか……!」
「結婚はまだ先ですよ」
「浮気はどこまで許せばいい」
「度量の問題です。……縛る女は愛情の差異で煙たがられますがね。ところで、イナキ殿の話ですか?」
「だ、誰もイナキの話だなんて言ってないぞ」
 ここまで会話をしておきながらも拳を握って否定し、ダリアは視線を書類束に戻す。別段イナキと上手くいっていないわけではないが、ひどく不安になる。すぐ近くにいるはずの恋人が手の届かない場所にいるように思えてどうしてもその嫌な感覚が消えない。
 その不安を打破するために神経を尖らせれば、恋人が他の女と仲良く話し合う姿が見えてしまうのだから、本当にいたたまれなかった。
「拷問だなぁ」
 些細なことなのに妙に傷ついてしまう。イナキ自身が、他者との関わりを避けてきたお蔭で今まで彼を独占できる状態だったのだと改めて痛感した。
 これから見聞を広めていくのだと思うと、喜ばしい反面、切なくなってしまう。
「捨てられたりしないだろうか」
「……イナキ殿の話ですか?」
「そうは言ってない」
 独り言を聞き留められて、ダリアはバツが悪く言葉を濁す。
 もともとイナキに接触することをとめていたヴェルモンダールには泣き言が言いにくい。もっとそばにいたければ、先走らずにあと数年をおとなしく待っていればよかったのだ。イナキが大人になってから接触すれば、こんなにややこしい事をしなくてもよかったに違いない。
 それを自覚してダリアは口を引き結んだ。
 もの言いたげなヴェルモンダールの視線は無視することにし、彼女は机に広げた書類を手早く片付けはじめた。
「ダリア先生」
 ふっと、汗ばんだ手が肩に乗る。鋭い痛みに驚いてとっさに手を払うと、驚いたような大久保の顔が視界に入ってきた。
「あ、驚かせちゃいました?」
 同僚の笑顔を茫然と見上げながらダリアは己の肩に手をのせる。激しい痛みがそこから広がり、一瞬息がつまった。
 喉の奥から締め付けられるような呻き声がもれる。まずい、と心の中で舌打ちをしたと同時に、大きく暖かい手が覆いかぶさるようにダリアの手に触れてきた。
「くぐり糸」
 低い声が耳朶を打った。振り仰ぐとそこには真剣な顔の側仕えの姿がある。
「失礼」
 短く断ったあと、脳髄に響くような痛みが襲った。あまりの激痛に悲鳴さえなく、ダリアは息を詰めて体を丸める。
 体に入っていたのはわずか数秒――その間にこれほど根が張るのであれば、魔界屈指といても過言ではないほどの手練てだれだ。
 完全に根が張れば、無傷で糸を抜くことは難しいだろう。
「どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」
 ヴェルモンダールが離れると慌てたように大久保が身をかがめた。真摯な言葉と行動に、玉のような汗をかきながらもダリアは微笑を向けた。
「大丈夫です。もう平気ですから」
 目を凝らしながら彼女は大久保にそう返す。
 ほんの少し、奇妙な気の流れがある。注視してようやく知れるその異変は、細い糸によって長く繋がっていた。
「傀儡子か」
 喉の奥で低く唸る。魔界には他者の体に糸を送り、体を支配し意のままに操る一族がいた。狡猾な彼らは悪魔とは思えないほど慎重に罠を張ることがある。
 不思議そうに小首を傾げる男のどこまでが本当の「彼」なのか――
「ダリア先生?」
 絶句する女に、糸に操られた男はどこかぎこちない笑顔を見せた。

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