第六話  変調 =1=


 昨日の倦怠感がまるで嘘のように体が軽い。軽く床を蹴って手を伸ばせば、それは簡単にボールを掴んだ。
 床に着地した次の瞬間には再び空中にいた。唖然とするクラスメイトの視線を感じながら、イナキはそれをゴールポストに向かって投げた。久しぶりにコートに立つにもかかわらず、距離も高さも手に取るようにわかり、ボールは綺麗な弧を描きながら吸い込まれるようにリングに落ちた。
「スッゲ」
「ナイッシュー!」
 わっとコートが沸くと、それを横目で眺めていた女子も歓声をあげた。見事なスリーポイントを目の当たりにして試合がさらに白熱する。残り時間を確認し、敵の一人が軽く弾むボールを慌てて手にする。
「イナキ」
 盛り上がるチームとは裏腹に、一人だけひどく深刻な顔をした男がイナキに近づいてきた。
「お前、むちゃくちゃ調子悪いな」
「え?」
「完全に根が張ってる。ズタズタにされるぞ」
 なぜか沈痛な表情で耳打ちされて、イナキはとても中学生には見えないクラスメイトを見上げた。
 体調はよすぎると言ってもいいくらいだ。普段と比べても雲泥の差だった。それなのに、彼は――海斗は、大げさなほど暗い顔をしている。
「あれだけじゃ補えなかったか。本体、切り損ねたんだな」
「なにが?」
「……クモ、見かけなかった?」
 独り言のような呟きが質問に変わる。それを向けられて、肩に貼り付くような赤い蜘蛛の形の痣を思い出して動揺した。
 夕方に目にしたあの痣は深夜には跡形もなく消えていた。それと同時に、だるくて仕方がなかった体が楽になっていた。その一連の出来事から、熱が下がったお蔭で体調がもとに戻って痣も消えたのだと今の今まで安易に考えていた。
 しかし、それだけとは言えないほど奇妙なことが多い。何かの気配を感じて顔をあげ、イナキは空中で静止しているようなボールに手を伸ばした。自分の足が床を蹴っているという自覚すらなく、彼は自分よりも背の高いクラスメイトたち以上に飛翔してボールをキャッチし、それをそのまま味方にパスして着地した。
 何もかもが驚くほどに簡単な動作だった。次に誰がどう動くか、自分はどう動くべきかがはっきりとイメージできる。
 ボールを受け取った少年はそのままゴールポストに向かってドリブルしていった。
「イナキ」
 ボールを追いかける一群をやり過ごして海斗が駆け寄ってくる。その姿を見ている途中で視界が一瞬だけ白濁し、すぐに鮮明になった。
「見なかったよ、クモ」
 真剣な表情の海斗に笑顔で返す。怪訝な表情をした彼が手を伸ばしてきたが、イナキはそれを軽くかわして審判を務めるクラスメイトを見た。
「時間だ」
 まるでその声が聞こえたかのように審判はちらりと時計を見ると笛をくわえた。鳴り響く笛の音に不満を訴える声がいくつも上がるが、息を切らせながらもしぶしぶ整列する。挨拶とともに今まで応援にまわっていた生徒たちがコートに入った。
 コートを出ると何か物言いたげな海斗が視界をかすめた。
「イナキ!」
 その姿を不思議に思うよりも先に、少年を呼ぶ声に視線が引き寄せられる。
「大活躍だったね」
 小さく手を振るのは今まで避けてきたはずの少女だった。見慣れないジャージ姿に目を瞬いてから、イナキは奇妙な感覚に囚われながら彼女のもとに歩み寄る。
「小雪」
「調子よさそうだね」
「……ああ」
 海斗とはまるで正反対のことを言われたが、確かにどこも悪いことがないと思ってイナキは素直に頷いた。それからふと口をつぐみ、彼は小首を傾げる。
「いつから名前、呼んでたっけ?」
「ずっと前からでしょ。なに急に言い出すの? 変なのぉ」
「そうだっけ」
「うん」
 クスクスと笑う見慣れない笑顔に小さな疑問だけが生まれた。小学校に通っていた時、イナキは特定の誰かと親しく付き合ったりしなかった。とくに小雪にはダリアとの関係が知られていて、気まずさもあって言葉すらまともに交わしていなかったはずだ。名前を呼び捨てにするほど親しかった覚えはない。
 その事を言おうとしたが、再び視界が白く濁り、その直後にたった今抱いていた疑問が跡形もなく消えた。
 ただ違和感だけがそこに残り、落ち着かない気分にさせた。
「イナキ、部活決めたの?」
「まだ」
「じゃあバスケにしたら? 私、マネージャーやろうかな」
 弾む声には返答できずに口ごもると違和感が強くなっていく。好調だったはずの体が突然だるくなり、立ちくらみすら覚えた。
「イナキ?」
 心配そうな声。肩に熱い手が触れると、焼けるような痛みがそこから全身に広がって思わず身をひねった。
 バランスを崩して体がよろめくと倒れそうになった体がふっと後ろから支えられ、イナキは驚いて顔をあげた。
「先手打たれた。お前も傀儡かよ」
 苛立つような声が脳裏に響く。見上げた先にあった海斗の顔がこわばっているのがわかった。彼の視線はまっすぐ小雪に向けられ、それを受け止める彼女は奇妙な笑顔を浮かべていた。
 状況がよく飲み込めない。
 白熱する試合を背景に、その場所だけが不釣合いな空気を孕み続けている。
「厄介なことしやがって」
 低く唸る海斗に小雪は平然と口を開いた。
「糸は三種類。お前のような小物がしゃしゃり出てきても無駄だってわかった?」
「その小物に話し持ちかけたのは誰だよ」
「気の迷いよ。まさかわざわざ乗り込んでくるほど馬鹿だとは思わなかった」
「同族のよしみなんでね」
 冷めた瞳を細めながら小雪は海斗を凝視する。それから茫然とするイナキに視線をやって、今度は無邪気な微笑を浮かべて手を振った。どこかにスイッチがあるような切り替えの早さだった。
 彼女は友人に呼ばれてその場を離れ、残されたイナキはやはり状況を理解できずに海斗を見る。
「何が……どうなってるんだ?」
「あー、ひとまずイナキ、オレの言ってることわかるよな?」
「わかる」
 頷くと、どこか安堵したように笑顔を見せた。
「まだ大丈夫か。オレ、クモ系って性格悪くて苦手なんだよなぁ。だから断ったのに」
「……何の話?」
「こっちの話。とにかくさ、逆らうなよ。クモが使う神経毒って最終的には相手を廃人にするのが目的だけど、あいつら屈折してるから、ゆっくり流し込んで経過を楽しむんだよ」
「だから、それって何の話?」
 話の流れが読めずに問いかけると、海斗は深々と溜め息をついた。
「黙ってるつもりだったのに予定狂った。……じゃあ、率直にな? お前の中にある糸は魔王様でも取り出し不可。廃人になって生き人形にされたくなきゃ、毒を流し込まれないように注意しろ」
 真剣な表情の海斗の口から繰り出される言葉をイナキは茫然と聞く。魔王という単語、生き人形という言葉の意味――それらはイナキの記憶をすり抜けて、じわりと沁み込んできた。
 毒と言われ、肩にとまった真紅のクモを思い出す。もう遅いと、どこか冷静に結論を出す自分がいた。
「逆らうなよ。お前を傀儡にするわけにはいかないんだ。ダリアは過去に存在したすべての魔王の力を完全な形で受け継いだ唯一の継承者だ。過去にそんな悪魔は存在しない。彼女は諸刃の剣なんだよ」

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