第五話  傀儡糸くぐりいと =2=


 部屋の前で立ち止まって片手をあげたまま考え込む。
 イナキの様子がおかしいことは確かだ。食事の時も入浴後も、異様なほど疲れきった顔をしていた。
 基本的に体は丈夫らしいが、たとえどんなに体調が悪くても、彼はそれをあまり外に出したりはしない。その彼が、元気のない――むしろ、生気のない顔をしていた。
 口数はいつも以上に少ないし、普段見せてくれる笑顔もすっかり影を潜めていた。大丈夫かと問えば、大丈夫だと返答が来るのだが、それを鵜呑みにするほどダリアも彼のことを知らないわけではない。
「隠し事か?」
 体調不良を隠すメリットなど思い浮かぶはずもない。ダリアは仁王立ちで低く唸り声をあげた。
「ノックしないんですか?」
 淡々と問われて階段を見ると、そこにはヴェルモンダールの姿がある。最後の一段をあがり、彼はダリアの隣に並んだ。
「かれこれ十分以上は悩んでいたようですが」
「……見ていたのか?」
「いえ、とんでもない」
 満面に笑みを浮かべて即答された。が、まず間違いなく見られていたのだろう。痺れを切らしたらしい彼もドアを見詰めた。
「様子がおかしかったようですが」
「病気か?」
「人間のかかる病など知識としてしか知りませんよ。妙な感じはしたんですが」
 難しい顔で頼りないことを言う。しかしダリアも、知識として最低限の病気を覚えているだけで、そこから彼の病名を言い当てるのは難しい。
 なぎさにもそれとなく聞いてみたのだが、きっと環境が変わったから体調を崩したのだという回答が来るだけだった。
「……妙、とは?」
「魔力の類がかすかに」
「イナキから?」
「契約を交わしていてもイナキ殿は人間です。魔力があるはずはない」
 ダリアは柳眉を寄せて、ようやく意を決してドアをノックした。
 耳をすまして返答を待つが、恋人からの入室の許可が来ない。まだイナキが寝る時間には少し早いから、床についているはずはない。
 もう一度ダリアがノックする。
 しかしやはり物音一つしない。ちらりと隣を見ると、ヴェルモンダールは静かに頷いた。
「入るぞ」
 一応断りを入れてドアノブをひねると指先から奇妙な感触が伝わってきて、次に何かが砕けるような高い音が耳の奥で木霊した。
 小首を傾げてドアを押し開くと、いつもなら明かりがあるはずなのに、その部屋は不気味なほど暗かった。
 足を踏み入れた瞬間、ベッドから何かが離れた。
「あ、さすがは魔王様。オレの結界じゃあダメか」
 低く笑いを含む声が響く。ずるりと音をたてて窓辺に移動した黒い物体は人型にも見えたが、周りと同化して判別がつかないほど崩れていた。
 崩れた一端がベッドに向かう。
「餞別」
 床の上を滑るように移動したそれは、声をあげる間もなくベッドに這い登ってそこに眠るイナキに覆いかぶさった。
「イナキ……!」
 悲鳴をあげて駆け寄ると黒い影の中心に亀裂が走り、液状になって流れ落ちた。
「何をした!?」
 空気が震えるほどの威圧感に、くすりと笑い声が響く。闇夜に落ちていくように、その黒い物体は窓から乗り出した。
「待て!」
「またね」
 言葉ひとつを残してそれの気配が唐突に途絶える。窓から身を乗り出すようにして確認したが、そこには黒い物体のかわりになぎさが丹精こめて作った野菜畑が広がっていた。
「昨日の……ヤツか」
 忌々しげにうめく。夢の中に現れてイナキのふりをした夢魔がいる。それが、今度はイナキを――
「誘惑しに来たのか!?」
 ぴっと思い至る。夢魔ならばやることは一つだ。男が相手なら、サキュバスとなって誘惑するのが仕事なのだ。
「もちろん私が現れたんだろうな!」
「ダリア様、解説する気は?」
「何のことだ」
「……いえ」
 ズカズカとベッドに近づくと、ヴェルモンダールが電気をつける。さすがにこの騒ぎで起きたらしいイナキはのろのろと上半身を起こしてぼんやりと部屋を見渡した。
 まだ状況が理解できていないらしい。
「夢は見たか?」
 鼻息荒く問いかけると、イナキは怪訝な顔をした。
「見てないけど。……なんでオレの部屋にいるんだ?」
「見てないか! そうか! ……そうなのか」
 ガックリと項垂れて、ダリアはドアに向かう。呆れたようなヴェルモンダールを見て悲壮な溜め息をついた。
「見てないと、それはそれで辛いな」
「恋愛対象ではあると思いますが。他の者が出てくるよりはマシでしょう」
 察してくれたらしいヴェルモンダールは、ダリアに向かって肩をすくめてみせた。訳がわからないイナキはベッドの上でなおも怪訝そうな顔をしている。
「前向きな発想のお前が羨ましいぞ」
「それはどうも。それで、ダリア様」
「……ああ。十中八九、影人だな。害はない。だが、それをイナキの影に送る意味がわからない」
「警戒したほうがよさそうですね」
「頼む」
「さっきから何の話?」
 ベッドから降りてイナキが小首を傾げながら近づいてきた。なんとなく違和感があり、ダリアは彼の行動を見詰める。
 部屋に入る前の彼は、どこか辛そうにしていたはずだ。
「体はもういいのか?」
 家に帰ってからずっと冴えない顔色をしていたが、今はそれがさほど気にならない。
「ん? あれ、楽になってる」
「……楽ならそれでいい」
 胸を撫で下ろして笑むと、イナキも少しだけ笑顔を見せてくれた。きっと何かを聞きたかったに違いないが、ダリアはそのまま部屋を出てヴェルモンダールと少し会話をして部屋の中に戻った。
「普通の影人じゃなかった」
 影人は単体だ。一つ一つが本能で動き、寄生する影を見つけて個々の判断でそこに住み着く。生きるために必要なものは魔力で、彼らは悪魔から魔力を得て生きているのだ。
 イナキには魔力はないから、住処として彼を選ぶとは思えない。
 しかし、影人たちの塊は彼の影に溶け込んだ。
「頼む、奪わないでくれ」
 悲痛な言葉を吐き出して両手で顔面を覆った。ほんの一枚の壁を隔てた向こう側には愛しい人がいる。
 これから先、ずっと一緒に歩いていくはずの男だ。
 ダリアは全神経を集中させた。

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