第五話
居間で図書館から借りた蔵書を開く。時がたつのも忘れてイナキは文字の一つ一つを目で追った。
日のある時と夕暮れ時では町にあふれる活気が違う。普通なら明るいうちのほうが騒がしいのだが、イナキの家があるのは住宅街で、物悲しくなりそうな夕刻には住人が増えて元気な声がどこからともなく聞こえてくる。
それに耳を傾けながら、ぱらりとページをめくる。
「イナキ? いるのか?」
もう一枚めくったところでダリアの声が聞こえた。不意に明るくなった室内に驚いて、イナキは眩しげに瞳を細めた。
「真っ暗じゃないか。……読書か?」
分厚い本を手にしたイナキを見て、暇さえあれば本を開くことを知っているはずのダリアが驚いたように問いかけてきた。
イナキはテーブルの上の栞に手を伸ばす。本を閉じて脇に置いてから、まじまじと見詰めてくるダリアに不審を抱いて近づいてくる彼女を待った。
「集中できなくて頭に入らない」
なんとなく熱っぽい気がする。ソファーに沈みながらつぶやいて双眸を閉じると、暖かい手が額に触れた。
「熱はないようだ。いや……冷たいくらいか」
自分の額とイナキの額をその手で比べながら、彼女は天井を睨んでそう答えた。そして、イナキの隣に腰掛けて彼がさっきまで読んでいた本を開く。
ぎっしりと活字が並ぶ持ち重みする本だ。普段から読み慣れているイナキならいざ知らず、日本語すら怪しいダリアが楽しんで読めるような代物ではない。
だが、あえて口を出さずにイナキは次の行動を待つ。
彼女はページをめくり、しばらくしてから本を閉じてテーブルの上に置いた。そしてイナキに視線を戻す。
「イナキ、怒ってないのか?」
常にマイペースな彼女には似合わず、珍しく言葉を選ぶような口調だ。何のことかわからずに眉をしかめると、彼女は言いにくそうに再び口を開いた。
「今朝のこと」
「ああ……」
キスかと気付くと、やはりいい気はしない。だが、昼間のような複雑な怒りはなく、不思議なくらいすんなりとその言葉をやり過ごした。
イナキは生返事をして窓の外を見る。レースカーテンの向こうには夕焼けどころか闇が広がっていた。それを知ってようやく、明かりもなしに本が読める状態でないことに気付く。
「怒ってないのか?」
わずかな動揺とともに外を見ていると、再度問いかけられた。
「怒ってない」
ぶっきら棒な口調だが、他にどう言っていいのかわからない。顔を窓に向けたまま短く返すと、釈然としない面持ちながらもダリアは安堵の息を吐き出した。それからようやく、イナキの視線を辿って窓の外を見る。
「少し日が長くなったな」
のんびりとした意見だ。四季のあるこの国の自然は、時節によって様々な
楽しみな季節だと思ってイナキは頷いた。
「……イナキ」
「ん?」
「本は、読めなかったと思うんだが」
外の様子からして、室内の視界は限りなく悪い。本どころか物がどこにあるのかすら手探りで確認しなければならない状態だ。
イナキはテーブルの上にある本を見た。
「でも、読めてたんだ」
これといって興味をそそるような文章がなかったことは覚えている。だから流し読みをしたのだとも考えたのだが、確かに言われたとおりに読める状態でもなかった。
何かが引っかかっている気がしてイナキは眉をしかめたまま考え込む。
だがすぐに体のだるさが思考を奪った。考えることすら面倒臭くなって、イナキは傍らにある女の体によりかかるように上半身をあずけた。
「い……イナキ……ッ」
あ。
と、思う。過去の経験から、うわずった声が自分勝手な解釈を始める前触れであることを少年は知っている。
しかし目を開けるのも苦痛だった。
「ベッドに行くか!?」
頬を薔薇色に染めている姿が目に浮かぶ。やや鼻息荒く問いかける声に色々ツッコミを入れたくて、イナキは重い瞼を上げた。
次に際限なく暴走しそうな恋人を止めるべく口を開くと、彼が言葉を発するよりも先に玄関のドアが開く音が聞こえた。
いつもなら瞬時に彼女から離れて平静を装うのだが、今日に限っては体すら起こせない。やっぱり熱があるんだなとぼんやり考えていると、慌しい足音とともに二人の少女がひょこりと顔を出した。
「あ、ダリアちゃん!!」
「ただいま!」
三女の弥生と、四女の蛍が居間に飛び込んできた。そして、イナキの様子に小首を傾げる。
「寝てる?」
「膝枕してあげなきゃ!」
「膝枕ー!!」
何でそこでお前らも興奮してるんだ。体は重いのに冴え冴えとした意識を抱えるイナキは心の中だけで文句を言う。
「膝枕か!!」
お前も同意するなと、イナキはさらにうわずったダリアの声に心の中で注意した。
「恋人同士みたいだね」
「恋人同士か!」
駄目だ。さりげない意見に過剰に反応するダリアにぐったりする。弾む声音からして、喜ぶ表情が手に取るようにわかった。
「結婚したらダリアちゃん、本当のお姉ちゃんだ!」
「挙式には呼ぶぞ!」
「いつ?」
「明日にでも!!」
きゃーっと、妙なテンションで叫ぶ。女三人寄るとかしましいと聞いたことがあるが、本当にそのとおりでうるさくて仕方ない。
けだるげに目を開けて、ようやくイナキは体を起こした。
「結婚は、……六年後だろ」
いろいろ面倒くさくなって素直に返すと室内の悲鳴は一段と高くなった。まずいことを言ったような気もしたが訂正する気力もなく、イナキはよろけながら立ち上がる。
ダリアがとっさに体を支えるように腕を持った。
大丈夫か、と問いかけてくる瞳に頷いて歩き出す。心配してついてこようとする彼女を軽く制し、イナキはひとり、廊下に出て歩き出した。
足が地に着いている感覚がない。歩くことすら億劫になったが、部屋まで行けばゆっくりと体を休めることができる。
真っ暗な廊下を歩く途中、イナキは階段の手前で足を止めた。
「どうされました?」
闇の中から落ち着いた声が響いてきた。瞬時にヴェルモンダールであると判断して彼の顔をまっすぐ見上げると、ぼんやりと視界が霞んでいるが、不思議なことにその彼が表情を硬くしたことがわかった。
警戒するようにヴェルモンダールが見詰めてくる。
肉眼では確認できないはずの彼の表情を、しかしイナキはその網膜に刻み付けて力なく笑った。
「ちょっとだるい。上で寝てるから」
彼の表情に疑問を抱いたが、すでに立っていることすら辛くなり、返答が来る前に電灯をつけることなく階段をあがる。何度もその場に座り込みそうになりながらも自室まで辿り着き、彼はそのままベッドに倒れこんだ。
肩がひどく痛んでいる。熱があるのはそこかと思い至り、彼はボタンをはずして腕に視線をやった。
肩の一部が赤くなっている。痣のように浮かび上がったそれは、一見すれば何かの模様のような――そこまで考えて、そして気付いた。
「ああ、蜘蛛だ」
イナキは小さくうめく。
白いシャツの下、決して動くことのない真紅の蜘蛛が、まるで少年を見張るかのようにその肩にとまっていた。