第四話 奇妙な隣人 =2=


 授業中、思い切り無視された。
 キスくらいいいじゃないかと思うのだが、イナキが自分以外の女と仲良くしているのを想像したらそんな考えは吹き飛んだ。たとえ夢の中であろうとも、見ず知らずの相手とキスをしていたら冷静ではいられない。むしろ激昂する。
 ゆえに、イナキが不機嫌になっても文句は言えない。
 しかも嬉しくないことに、生々しい感触は、それが完全な夢ではないことをダリアに報せてきていた。
「……夢だ。夢という事にしておこう」
 実際にキスしていただなんて、実は危うく流されてしまいそうだったなんて、絶対にイナキには言えない。淫魔が淫夢に流されるなんて、あまりに間抜けすぎる。
 ダリアは盛大な溜め息をついた。
 授業中のあの態度が家まで続いたら拷問だ。どうにかこうにか機嫌をとらなければ、もともと触れあいの少ない生活から会話さえなくなってしまう。
 せっかく恋人同士になったというのに、これじゃぁ他人といっしょじゃないかと、ダリアは心の中で毒づいた。
 共有できる時間があるから、余計にタチが悪い。
「結婚できる年までキスだけで我慢なのも拷問だがな」
 ボソリと口にする。少しずつ、だが確実に成長し始めた恋人にときめかないはずもなく、忍耐という苦行に挑む日々なのだ。
 これでさらに距離をおかれたら蛇の生殺しどころの騒ぎではない。
 拳を見詰めながら、何とか恋人の機嫌をとる方法を考える。しかし、何をしたから機嫌がよくなるというものでもない気がする。
 はて困ったものだと顎に手をやり考える途中で、ダリアはようやく部屋の中を見渡すほどのゆとりを取り戻す。
 整然と並んだ机の上は、それぞれの持ち主の個性がよく現れていた。感心するくらい綺麗な机もあれば、いつ書類が雪崩を起こすのかとハラハラする机もある。通常なら、教師一同が向かっている場所だ。
 しかし、そこに人はいない。広い職員室には人の気配がまったくしない。
 ダリアはあたりを見渡す。たくさんのキャビネットが置かれた窓際や出入り口にも、やはり人影はなかった。
 教師の人数が多いため、暇をもてあます教師が職員室に残って雑務を片付けるのが日常なのだ。
 しかしそこには喧騒すらない。
 異常な空気だけがゆっくりと押し寄せてくる。
「ふん。動き出したか」
 負けるなどとは思っていない。戴冠で手に入れた魔力を持ってすれば、魔界に敵などいるはずがない。過去に討たれた魔王の失態を不思議に思うほど、彼女の体には魔力がみちている。
「さて、どうしたい?」
 何もない空間に問いかけた瞬間、唐突に目の前が白く染まった。
 ダリアは椅子を後方に押しやって身を低くする。ほとんど条件反射で手を払い、そして眉をしかめた。
 手に何かが絡みつく。空を掻くように大きく腕をまわし、彼女はそれを引き寄せた。
「……糸」
 おびただしい数の糸が手や腕に絡み付いている。日の光に透けて輝く極細の糸は、小さな空気の流れにすら影響を受け、ふわりと揺れた。
 人間界に降りれば当たり前に目にするものだ。
 ダリアは瞳を細める。
 そう、人間界のものならば、美観を損ねる程度の被害にとどまり危惧する必要はない。
 透明な糸が一本、風に流されてくるりと向きを変えた。観察するように見詰める視線の先で、まるで意志があるかのように、それが白い腕に伸びてきた。
 糸が肌に触れる。焼けるような痛みにわずかに眉をひそめて、ダリアは糸を掴んでいた手に力を込めた。
 青白い炎が生まれる。炎は手を包みこんで腕を走り、絡み付いていた糸を焼失させてから前触れもなく鎮火した。
 数本の糸が、苦痛を訴えて手の中で悶えている。
「くぐり糸」
 確かそんな名だったとダリアは記憶していた。皮膚をつらぬき神経を冒し、全身に根付く糸の名前。
 他者を操るために神経を冒す一族がいる。
傀儡子くぐつし――女郎蜘蛛とも言ったか」
 糸には神経系を麻痺させる毒が仕込まれている。そのまま流し込めば、人間など瞬時に廃人にできるほどの猛毒だ。
 断末魔の叫びを体現するかのようにのた打ち回っていた糸は、ダリアが魔力を流し込むことによって細い炎となって消えていた。
「妙なのが紛れ込んでいるな」
 悪魔には大きく分けて三種類ある。
 力を誇示し、己の欲望に忠実なもの。
 知識を蓄え、己の欲求のためにそれを活用するもの。
 他者に依存し、己の生を繋ぐもの。
 稀に智と武に通じる者もいるが、大半はこの三つの内のどれかに振り分けられる。そして、傀儡子はおおむね知識を蓄えて世を渡っていく。
 己は闇に潜み、他者を介して奸計かんけいする狡猾な悪魔だ。
 眉をひそめたまま手を払うと、不穏な空気も瞬時に掻き消えた。
「ダリア先生?」
 ドアを開ける音と同時に呼びかけられ、ダリアはハッとして視線を移動させた。血色の悪い男があたりを見渡しながら入ってきた。
「あれ、他の先生は?」
「わかりません」
 素直に答えると、男は綺麗に片付けられた机に向かった。
「おかしいなぁ、大久保先生、どこに行っちゃったんだろう」
「……相田先生」
 椅子に腰掛け、次の授業の準備をして早々に立ち上がった男にダリアは緊張した声を誤魔化しながら呼びかけた。
 相田は不思議そうにダリアを見詰める。
「職員室……いえ、何でもありません」
「はぁ……あ、もうそろそろ行かないと。本鈴が鳴りますよ」
 にこやかに告げられてダリアが頷く。とっさに飲み込んだ言葉は胸のうちだけで問われる。
 変質した空気は完全に外界と職員室内を切り離していたのだろうか。状況を把握しているなら異変について問い詰めたいが、何事もなかったかのように歩いているのではそうもいかない。
 質問したあと記憶を消せばいいのだが、なぎさのように消えない人間もいるのだ。リスクが高すぎる。
「ここにいないという事はヴェルモンダールは気付かなかったか。……やっかいな」
 相田が出て行ったドアを見詰め、ダリアは小さくつぶやく。すべてにおいてそつなくこなす男は誰よりも信頼できる忠実な家臣でもある。
 ダリアに何かあれば、何を差し置いてでも駆けつける男だ。
 その彼がここにはいない。
「……何が目的だ?」
 誰ともなく問いかける。確立していた自信がわずかに揺らいだ。

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