第四話 奇妙な隣人 =1=


 廊下を歩いていると、人影が見えた。
 巨漢と言っても差し支えない体躯の男が誰であるか気付いた瞬間、イナキの歩調がほんの少しだけ乱れる。
「……大久保先生」
 ダリアやヴェルモンダールが教師として中学校にいるのも怪しいが、彼女に執心していた彼がここにいるのも納得がいかない。
 なにか特殊なコネでもあるのかと勘ぐってしまう。だが、たかがコネくらいで調子よく職場が変わるとは思えない。
 ダリアが中学校に来るのをあらかじめ知っていた可能性を考え、イナキは眉をしかめた。
 もしかしたら、小雪ばかりかこの男も事情を把握しているのではないか。
 笑えない。
 嫌な思考に辿り着いた直後、大久保の影から少女が姿を現した。
 思わず声をあげそうになったが何とかそれを飲み込んだ。
 あまり顔を合わせたくない少女が近づいてきた。その顔がどこか虚ろに見え、イナキは完全に足を止める。
 いつもはまっすぐ視線を向けてくる彼女は、苦手ではあるが決して嫌いというわけではないクラスメイトの一人だった。
 イナキはどこか不自然な動きをする彼女――小雪を凝視したが、本人はその視線には気付かないように、少しよろめきながらもイナキとすれ違った。
 思わず振り返ってその背を見詰める。
 体調が悪いのかもしれない。日々、感心するほど元気な印象がある彼女の変貌に疑問を抱いてその後を追おうと身を翻す。
「武蔵」
 不意に間近で太い声が聞こえ、肩に焼けるような痛みが走ってイナキは息をのんだ。
 肩を見ると大きな手がのっている。掴んでいるのではなく、ただ添えられただけのようだった。
「ちょうどいい所に来た」
 手が引くと熱も去った。イナキは無意識に肩をさすりながら顔をあげた。
 肩の痛みはすでにない。大久保は邪気なくいつも通りの暑苦しい笑顔を見せていた。
 イナキはちらりと小雪に視線をやる。彼女はすでに廊下を折れ、階段に向かっていた。
 大久保と小雪――珍しい組み合わせだ。珍しいどころが、意外と言わざるを得ない。だが、出身校は同じだし小雪は目立つうえに優秀な生徒でもあったから、多少は教師との交流があるかもしれない。
 ダリア以外の教師とは、必要最低限の会話しかした記憶のないイナキには判断の難しい状況ではあるが、なんとなく、対峙していた二人があまりいい雰囲気ではなかったように思う。
 イナキは再び大久保を見上げた。
 腹が立つくらい大きな男は、イナキをじっと見おろしていた。
「なんですか?」
 問うと、大久保は不躾な視線を誤魔化すことなく瞳を細める。
「……ひとつ質問なんだが」
 そこでいったん言葉を切る。まるで試すかのような空気に気付き、こんな嫌なタイプではなかったはずだとイナキは不快感に表情を硬くした。
「ダリア先生はどうして武蔵の家にいるんだ?」
 あまりの質問に虚を突かれ、イナキは返答することすら忘れて体をこわばらせた。今までこの手の質問がなかったことが奇跡だが、ダリアのことだから、学校に提出する書類に何らかの手を加えて好き勝手に違いない。ある事ないこと捏造して吹聴し、表面上は平穏な暮らしを送れるようにしてくれたのだと勝手に考えていた。
 そして、ヴェルモンダールも色々協力してくれることから、自分たちさえしっかりしていれば公にならないだろうと迂闊にも心のどこかでそう信じ込んでいた。
 目立った行動はとっていないはずだ。しかし、そう断言できない自分がいる。
 もしかしたら小雪が言ったのだろうか。そう疑いはしたものの、そんな性格には到底思えずにイナキはすぐにその疑問を捨てた。
「武蔵」
 名を呼ばれ、一呼吸あけてから、イナキはひるむどころかまっすぐに大久保の瞳を見詰め返す。彼が一瞬動揺したのがわかったが気にすることなく口を開いた。
「ダリア先生は姉の友人で、入居していた団地が老朽化したので一時的に我が家にいます」
「……友人?」
「ヴェルモンダール先生は父の知り合いです。同じ団地に入居予定で、先生も家に」
 嘘八百並び立てて微笑すると、面食らったように大久保が言葉を失った。この調子ならそこまで調べているかと思ったが、大変だなと返したその表情からは真意が読み取れなかった。
「なにか?」
「……いや、いい」
 ゴホンとひとつ咳払いをして、彼は再び大きな手でイナキの肩に触れた。刺すような熱に思わず体をひねると、大久保は浮いた手を引っ込めて苦笑した。
「スキンシップは苦手か」
 そういう問題ではないのだが、イナキはこの奇妙な痛みの意味がわからず口をつぐんだ。
 愛想の悪い生徒にさらに苦笑を深めて大久保は腕時計に視線を落とし、
「ああ、もうすぐ予鈴が鳴る。早く教室に帰れ」
 そう言葉を残して歩き出した。いつもはキリキリと行動している男は、今日に限って妙にぎこちない動きになっている。
 ヴェルモンダールも何かを隠しているし、ダリアの様子もおかしいし――
「……キス」
 そういえば、朝そんな事を言っていた。恋人がいるにもかかわらず、誰かに誘惑されていたらしい。
 いつ、とか、どこで、と聞きたいことは山ほどあるが、どうもダリアのことになると激昂するか冷淡になるか、反応が二つに別れてしまいがちになる。
 授業中、ダリアとまともに目も合わせないでいたら、生徒たちが心配するほど落ち込んでいた。
 子供っぽいことをしてしまったと、廊下でたたずんだままイナキは人知れず反省する。
「大人になろう」
 十分に子供である少年は、しかし、ひどく生真面目にそうつぶやいて歩き出した。
 大久保の事も気になる。どこからあの情報を入手したのか調べる必要がある。そう思って廊下の角を曲がると、不意に何かが目の前に現れて、イナキはとっさに立ち止まった。
「ああ、あれ? きみは……」
「武蔵です」
 それがクラス担任であることを確認し、イナキはそう返す。相田は血色の悪い顔をゆがめ、ぼりぼりと頭をかいてしきりと首を傾げた。
「まだ覚え切れなくてね。……大久保先生、見なかった?」
「さっき向こうに歩いていきました。急げば追いつくと思います」
「ありがとう」
 親しげに肩をたたき、相田は大久保が去った方角へと歩き始めた。イナキは小さく溜め息をつき、そしてあたりを見渡す。もうすぐ予鈴が鳴るなら学校探索は切り上げたほうがいいだろう。
 腕時計がいるなとつぶやいて、いつの間にか肩に手を回していた自分に驚く。
 いろいろ釈然としない。
 大久保がどこまで知っていて質問したのかもわからず、その情報源を考えると嫌な気分になった。
 暗い顔のまま教室に帰ると、逆に明るい顔の海斗がイナキを出迎えてくれた。
「たけちゃん、勉強できるんだろ!?」
 興奮気味に言われ、ちらりとその顔を見る。
「たけちゃん?」
「たけくら、だから、たけちゃん。な、勉強!!」
「……イナキって呼べよ。どれ?」
「頼もしいぜ、イナキ!」
 迷いなく呼ばれて指示したイナキのほうが困惑した。予鈴が鳴り響き、二人はあわてて席について、イナキは机からノートを取り出す。該当ページを開けて海斗に差し出すと、奇妙な声を上げてひったくり、ノートを写し始めた。
 授業初日、一教科だけ事前に宿題が出されていた。
 他の科目は先生の自己紹介で授業前半をつぶし、後半は簡単に勉強の進行予定、そして教科書の朗読から授業に入る。
 珍しいなと思いながらもイナキは必死にノートを写すクラスメイトの背中を見詰めた。
 視線を感じたのか海斗が顔を上げて振り返り、小さな声を発しながら手を伸ばす。
「何だよ?」
 露骨に逃げないように気をつけながらも、イナキは怪訝そうに肩に触れてくる海斗に問いた。彼は苦笑しながらも丁寧にイナキの肩を払ってから、再びノートに視線を落とした。
「んー、なんかゴミがついてたみたいだったから」
「ゴミ?」
 自分の肩をまじまじと見て、イナキは口を閉ざす。
 廊下でも大久保と相田に肩を触られた。あの時もついていたのだろうかと考えながら肩から腕にかけて眺めていると、そこに細い糸のようなものを発見する。
 日の光に反射してようやく確認できるようなごく細いそれは、色や匂いなど一切しない極細のものだった。
 該当するのはひとつしかない。
「クモの糸?」
 指でつまんで凝視するイナキに、海斗は低く笑い声をあげた。
「それ、掴める奴いるとは思わなかった」
「なんだよ、これ」
「さあ? マジもののクモの糸かもよ。それよりさ、ダリア先生元気なかったよな」
「普通だろ」
「恋人と喧嘩でもしたのかなぁ。気になるなぁ」
「……なんでそうなるんだ?」
「普通だって、普通。あんだけ美人でスタイルよかったら、いるに決まってるだろ」
 ずいぶん露骨にささやくクラスメイトにイナキは不機嫌な顔を向ける。確かに、ただ立っているだけでも目立つし、町を歩けば必ず声をかけられるのは本当だ。
 今朝のあれは喧嘩ではなく一方的なものだった。
 言い訳をすればするほど墓穴を掘っていくダリアは、放っておけば丁寧に詳細まで告げてくれるに違いない。
「聞きたくない……」
 他人とのキスの詳細なんて何があっても聞きたくない。
 過去に起こってしまったことは仕方がないが、進行形の浮気はどうあっても許せない。だからといって問い詰めれば余計に大人気ないことを言ってしまいそうで対処に困る。
「なんだイナキ、嫉妬か」
 ノートを写しながら海斗が楽しげに言葉を弾ませた。
「嫉妬って何だよ」
「まんまだろ。女の浮気は許すなよー。甘い顔せずスッパリ切り捨てろ」
「……」
「仕方なく許すときは自分が優位になる条件出しとけ。二度目はマジでダメ」
 どこか慣れたような口調にイナキの動きが止まる。子供らしくないと散々言われるイナキだが、海斗よりはよほど幼い発想をしている。
 少なくとも、色恋沙汰を駆け引きのように扱い、さらりと流すほどの神経は持っていない。
 いったいお前いくつなんだという言葉が出かかり、イナキはそれを呑み込んでから眉をしかめた。
 どこかで会話が食い違い、流れが変わっている。だいたい、初めはダリアの話しだったのがどうやったら浮気話に進展するのか。
「オレ、変なこと言った?」
 間抜けな質問に海斗がにやりと笑った。
「読心術を会得してるんだ、実は」
「……へぇ」
「なんだよー、もっと驚けよ」
「変人の知り合いなら間に合ってる」
「つまんねー奴。あ、これならどう?」
 背中越しの奇妙な会話の途中、ペンを止めて海斗が声を潜めた。
「ダリア先生の恋人、この学校にいるらしいぜ」
 首だけひねり、どこか狡猾な光を宿した鋭い瞳を細めてにやりと笑う。心臓が大きく跳ねた。予期せぬ一言にまともに返答することすらできなかった。
 教室のドアが開く。
 号令とともに立ち上がった生徒から一呼吸あけ、海斗が顔を正面に戻してゆっくりと立った。

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