第三話 キスまでの距離  =2=


 目を開けると空気がよどんでいるのがわかった。
 吐き出す息がとろりと大気に溶ける。小さくあえいで体を起こそうと身じろぎ、ダリアは何者かに肩を押されて深くベッドに沈んだ。
 視界が大きく揺れた。天井の一部に黒い影が映っている。
 ダリアは柳眉を寄せてから、ようやく問いかけた。
「イナキ?」
 外はまだ暗い。時間を確認するゆとりもなかったが、寝室に彼が来る時間帯でないことだけはわかる。
 いつも過剰なほどダリアを避ける恋人の顔をふと思い描くと、ピントがずれたようにぼやけていた黒い影が鮮明になった。
 それとは反し、頭の中にかすみがかかる。
 頬に触れても彼は逃げるそぶりをみせなかった。ダリアは手の平でそっと彼の頬を包み込む。
「イナキ」
 ダリアの呼び声に答えるように彼が微笑した。
 見た事もない顔だった。それは少年の笑顔ではなく、少し見慣れない――けれど未来に必ず巡り会うであろう男のもの。
「寂しかった?」
 低く囁く声が心地よい。少年らしい高い声も好きだが、落ち着いた声音はそれだけで心が揺れる。
 もっとその声が聞きたいのだが、どうすればいいのかわからない。鈍くなった思考に疑問を抱く寸前、ベッドがきしんでイナキが近づいてきた。
 熱が降りてくる。
 茫洋としたままそれを感じて双眸を閉じ、頬を包んでいた手を首に回して引き寄せる。
 唇にいつもとは違う感触があった。
 ダリアがうっすらと瞳を開けると微かにイナキが微笑んだ。それは、彼が時折見せてくれる優しい笑みだった。
 だが、どこかが違う。
 ダリアはそれを探ろうとして失敗する。
 再び降りてきた唇は包むように何度も触れて、やがて深い口づけに変わる。
 口腔をまさぐられるたびにざわりと背筋を何かが駆け抜け、肌が粟立った。角度を変え、さらに深くなる口づけに溺れるように応えながら、ダリアは違和感の原因を考える。
 しかし、うまく考えがまとまらない。
 繰り返される口づけに息があがってくる。熱を探るようにイナキの指先が頬を辿り喉元を過ぎ、パジャマにかかる。
 大きな手が布越しに胸を包んだ。じわりと沁みてくる熱と容赦ないほど深くなった口づけに思考が混迷した。
 強弱をつけて探るように動く手が快楽を呼び寄せる。布一枚をへだてて熱が重なり、指先が敏感な場所を確認するようにそっとまさぐってきた。
「ん」
 戸惑うあえかな声が空気を震わせると、イナキの手がパジャマのボタンにかかった。
「イナキ……?」
 ようやく唇を解放され、ダリアは濡れる瞳で恋人を見上げた。
 返されたのは優しい笑み。愛しいはずのそれを目にした瞬間、彼からの愛撫で熱くなった体が急速に冷えていった。
 思考が鮮明になる。
 違う、とようやくそう確信した。
 雰囲気も声音も、きっと未来の彼にぴったりと重なるだろう。
 だが違うのだ。
「貴様、何者だ」
 問う声にイナキは優しい表情を瞬時に消して冷ややかに微笑む。部屋を満たした魔力にも動じず、彼はするりとダリアの上からどいて後退した。
 外見はおそらく数年後のイナキ――水晶が見せた彼自身。なのに、中身はそうではない。
 彼はクスリと笑ってから手を振った。
「ふざけるな」
 怒声を発した瞬間、青年は部屋ごと消えた。
 闇をまとう部屋は光で満たされ、夜の静寂は小鳥と動き始めた人々が生み出す音で打ち破られる。
 ダリアは息を詰めて目を見開く。
「……どうなってるんだ」
 濃密な空気はない。ベッドに仰向けに寝転んだままうめいて、ダリアは重い体を起こした。だるさの原因は間違いなくあの夢だ。
「欲求不満というヤツか」
 適切に己の状態を判断して項垂れると、中途半場にボタンの外されたパジャマが視界に入ってきた。
 無言でボタンをかけなおしてベッドから降りた。
 いくら欲求不満だからと言っても、まさか自分からボタンをはずしていたそう≠ニするとは思えない。
 もとは淫魔属性であるダリアは汗で湿った服に不快感を覚え、着替えを手にして廊下に出た。
 釈然としない。
 そこまで欲求不満ならイナキに土下座くらいしてみせる。そうして全開の笑顔でお断りされ、欲求不満を忘れて一人寂しくたそがれるだろう。
 シャワーで軽く汗を流して着衣し、ダリアは深く息を吐き出した。
 夢にしてはリアルすぎる。
 キスの感触をまざまざと思い出して複雑な心境になる。与えられる熱、触れた唇。あの状況が普通ではないと心のどこかで理解しつつも、応えずにはいられなかった。
 唇をきゅっと噛んでからもう一度溜め息をつくと、
「どうしたの?」
 少年の声がかかった。
 ダリアは背筋を伸ばす。朝っぱらから不埒なことを考え、視線が不自然にあたりを彷徨った。
「お――おはよう? よく眠れたか?」
「おはよう……なんかあった?」
 再度問われるが、夢の中でディープな世界に浸っていましたとは口が裂けても言えない。条件反射で唇を乱暴にこするとイナキが小首を傾げた。
「なんでもない。ちょっと寝苦しくて」
「涼しかったと思うけど」
「……夢見が悪くて」
 さらに視線が泳ぐ。どうしていいのかわからずオロオロしていると、持っていたタオルが床に落ちた。
 洗濯機はすぐそこだ。水道代と電気代がもったいないからと二槽式の可愛いものが置いてあり、武蔵家では脱いだ服は簡単に分類して一部を洗濯槽に、残りを洗濯篭に入れる決まりになっている。
 使用済みのタオルは洗濯槽行きになるものだ。
 ダリアが慌ててタオルを拾うためにかがむと目の前にイナキが歩いてきた。
「――ダリア」
 静かな呼び声にダリアが顔をあげる。極力「先生」と呼ぶようにしているらしい彼の口から自分の名が出たことが素直に嬉しかったダリアは、近づいてきた少年の顔に混乱した。
 小さく笑って柔らかく唇が触れる。
 夢の中とは違う優しい感触に、じんわりと胸の奥が温かくなる。
 もっととねだりたい気持ちは多々あるが、この温もりが崩れてしまうのが惜しくてダリアは軽いキスだけで離れていく彼を素直に見送った。
「珍しい」
 イナキは囁き、もう一度柔らかく唇をついばんでから今度は本当に離れていった。
 イチャイチャは禁止じゃなかったのかと聞きたかったが、藪をつついて巨大な蛇を出す気にはならない。
「何か相談にのれる?」
 少しだけ距離を置きながら何事もなかったように言われ、ダリアは首を振った。
 どこか冷徹とも思える鋭さを内在させるその瞳は、今は慈愛さえ感じられるほど優しい光を宿している。
 自分だけに向けられると知っているその眼差しにダリアは笑顔を返す。
 そんな彼に化けて誘惑するなど笑止千万。
「あぶりだすか」
 指先でゆっくりと色づく唇を辿り、夢が夢に留まってはいないことを確認したダリアはニヤリと笑った。
 淫夢とは、それを見せられた相手が反応しやすいように、常に都合のいいように変化する特殊なものだ。
 ダリアが持つ魔力に気付かず仕掛けてくるとはどうしても思えない。これは、ダリアが魔王であることを知った上での狼藉だ。
「私を惑わそうなど片腹痛いわ。あれ以上してたら八つ裂きだったが……」
「あれ以上?」
「キス以上」
「……キス」
 はたと、ダリアは顔をあげた。ものすごく難しい顔をして恋人が立っている。心の中でつぶやいていた言葉が声に出てしまったらしいことを自覚した瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「違うぞ!? 誘惑なんてされてないぞ! ちょっと流されたが私はイナキひと筋だ!」
「ふーん」
「誤解だ! 本当にちょっとだけなんだ!」
 何かを納得したように頷いて踵を返す恋人の背に、ダリアは馬鹿正直に念押しのダメ押しになる言葉をかける。
 ぴたりと動きをとめた彼は、微妙な反応をしてからすたすたと立ち去ってしまった。

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