第三話 キスまでの距離  =1=


 家に帰るとすぐに着替えて机に向かう。
 これはすでに習慣のようなもので、開く本が教科書や図書館で借りた分厚い書籍であることも、ごく普通のことだった。
 以前は遊びにいこうとクラスメイトたちから誘われもしたが、イナキが応じない日々が続き、やがて声がかかる事もなくなった。
 平淡な毎日だった。
 ゆっくりと教科書の文字を読みながら、イナキは苦笑する。
 以前はそのペースを崩されるのが不快であったのに、今はそれが嫌ではないのが不思議だった。
 むしろ。
 イナキは立ち上がる。
 廊下から響く足音に確信を持ち、彼はドアを開けた。突然開いたドアに反応しきれず、驚いたように立ち尽くす男に少年は小さく笑顔を返す。
「イナキ殿」
 平静を装う彼の声が動揺を隠せずに裏返っている。緊張しているのが一目でわかった。
「どうして学校に?」
「ああ……少し、気になることが」
「なに?」
 きっちり結ばれたネクタイを緩め、彼は溜め息をつく。イナキが主の伴侶だからなのか、ヴェルモンダールは困ったような表情のまま素直に口を開いた。
「人ではない者が紛れているようで」
「問題なの?」
「少し、厄介かもしれません」
「……オレにできることは?」
 問うとヴェルモンダールは目を丸くしてからふっと息を吐き出した。
「お気遣い無用です。害を成す者ならこちらで処分を」
 さらりととんでもないことを口にする。見た目は温厚なのに、さすがに魔将軍と呼ばれるだけはある――魔界の乱世を治めた武人でもある男は、会釈をしてから部屋に向かった。
 ヴェルモンダールは陰で補佐するイメージがある。そんな彼がわざわざあんなに目立つことをしているのだから、本来なら軽く流す話題ではないのだろう。
「ヴェル」
 声をかけると立ち止まった。
「できれば穏便に」
「――相手の出方次第ですが、善処します」
 厄介と言うのがどのレベルなのかはわからないが、ヴェルモンダールはそう答えてから自室へ戻っていった。
「厄介、か」
 ポツリと繰り返してイナキは階段を下りる。標的となるなら、それは魔界の王であるダリアだろう。毎日生き生きと暮らしている美女を思い出し、魔界にいればヴェルモンダールもここまで苦労することはないのではないかと同情してしまう。
「ダリアが魔界に帰ればいいんだよな……」
 イナキが魔界に行くといえば一も二もなく身支度を済ませるだろうが、子どもが伴侶として魔界へ行ったとしてもなんの意味もない事は彼が一番よく理解している。
「もうちょっと大人ならな」
 隣にいて見劣りしないなら迷うことはなかったと思う。
 だが残念なことに、まだ成長段階の少年はどうにもこうにも自信が持てない。いい笑い物になることがわかっているから行動するだけの勇気もない。
「ダリアだけ魔界に帰らせるか」
「却下だ」
 彼女の身の安全を第一に考えてそう結論を出すと、澄んだ声が低く否定して壁から生えるように白い腕が伸びてきた。
 とっさに身を引いたが間に合わず、イナキの体は白い腕につかまれて壁にめり込む。目を閉じると何かが皮膚をすべるような不快な感覚のあと、柔らかなものに包まれた。
「座標固定を応用するとな、これがいろいろ便利なんだ」
「失敗したらどうするの」
「……あ」
 嫌なタイミングで中途半端な答えがきた。薄暗い部屋はリビングからそう遠くない床の間だ。柔らかな胸に顔をうずめる格好のまま、イナキは脱力した。
 座標固定という便利な移動術があるのはいいが、ダリアはそれを上手く使いこなせていない。壁抜けがそれの一種なら、むしろ命懸けの行為になりかねない。
「二度とやるな」
 ボソリと言うと、悲しげな呻き声が少し上から聞こえてきた。
 失敗したらどうなるかは知らないが、あまりまともな結果になりそうもないのでイナキはあっさり聞き流した。
「先生」
「ん?」
「学校ではこういうこと禁止」
「どうしてだ!?」
「ばれたら困る」
「ばれない!」
「ばれるよ。今日だってヤバかった」
「あ、あれは――」
 海斗が声をかけなければ、確実にまずい状況になっていた。そのことを指摘すると、ダリアは口ごもり、むうっとうなり声をあげる。
 何か言いたいことはあるが迷っているような、そんな感じの表情である。
 それを見上げ、イナキは彼女の頬に手をのばす。
「約束は?」
「したくない」
「……」
 どうも最近、会話が幼稚化している気がする。
 それは彼女の知識不足と素直さのせいなのだが、むくれるその姿がおかしくて思わず苦笑した。
 学校での続きをするように、頬に滑らせた手を首に回す。
 身長が足りないのが悔しいところだが、背伸びをするのも癪なので強引に引き寄せた。
「約束は? できない?」
 まっすぐに目を見詰めて問うと、ダリアがわずかに体をこわばらせる。
 ときどき、彼女がそんな行動をとるのが不思議だった。真剣なのだという意思を伝えようと少しだけ語尾を強くすると、彼女はいつも驚くほど従順になる。
「ダリア」
「……お前は、ずるい」
「ずるくないよ」
 静かに告げると悔しそうにダリアが瞳を伏せる。それが思いのほか可愛くて笑顔がこぼれた。
 学校ではおあずけだったことを思い出し、イナキは年上の恋人を引き寄せる。
 瞳を閉じようとして、イナキはぴたりと動きをとめた。
 視界のすみで何かが動いている。月明かりだけが差し込むその部屋には畳が敷いてあるのだが、その上を何かが滑っているのがわかった。
 立体感がない。
 イナキは思わず首をひねった。
「イナキ?」
 いつまでたっても訪れない唇に疑問を抱いてダリアが薄目を開ける。すぐにイナキが見ているのが自分でないことに気付き、彼女は唇を尖らせながら彼の視線を辿った。
「……あれって……?」
 畳の上に黒い影がある。するすると移動するそれには、足どころか厚みすらない。
「ダリア」
 視線は畳に釘付けにし、イナキは彼女の首に回した腕をはずしながら聞いた。
「……影人」
「かげびと?」
「魔界の住人だが……無害だ。力などない。……しかし、なぜこんな場所に?」
 滑るように近づいてくる影は、通常のそれよりも幾分濃いようだった。自在に動く影はイナキとダリアの前でぴたりと止まり、すぐにイナキに向けて進み出した。
 驚いて後退したが、影人は意に介さないようにイナキの影に吸い込まれ、あっという間に同化してしまった。
「……ダリア、消えたんだけど」
「な」
「ダリア?」
「私より先に合体してどうする――!?」
「違うだろ!? まず状況を説明して、心配するのが筋じゃないのか!?」
「またしても後手か……ッ 正妻なら一番に行動せねばならんのに、くそう、イナキ! 今からでも遅くない! 乳繰り合うぞ!」
「もっとまともな日本語勉強してこい」
 叫ぶ恋人に怒鳴り返すと彼女は視線を泳がせて項垂れた。ようやくわかってくれたかと納得して部屋を出ようと彼女から離れると、半開きになったドアから慌てて離れる人影がある。
 なんだか軽く眩暈がした。
「なぎさは味方だから。な?」
 オロオロと弁解するダリアに、イナキは引きつった笑顔を向ける。
 これはもう、どこだからいいとか言っている場合じゃない。際限なく増長する可能性がある恋人に甘い顔をしていた自分が悪い。
 少年は意を決して口を開いた。
「家でもイチャイチャ禁止」
「なんでそうなるんだ――!?」
 さっくりと言い捨てる恋人に向かって、キスすらまともにできなかったダリアは悲痛な悲鳴をあげた。

Back  Top  Next