第二話 秘密な二人  =2=


 職員室に戻るとプリントが配られ、三年の学年主任が用紙片手に説明を始める。
 よく通る声だなと感心しながら項目を目で追って、ダリアはふっと息を詰めた。人外の気配が漂ってくる。
 どこから、と視線を彷徨わせると運悪く大久保と目が合い、うんざりしそうなほど見慣れた笑顔を向けられた。
 ダリアはそれに作り笑いを返し、再び用紙に視線を落とした。
 気配はすでに消えている。室内だったのか室外だったのか――それとも、学園外からだったのか。気配は彼女が疑問を抱かざるを得ないほど定まりがない。
 魔力を完璧に制御できるのだろう。顔をあげると、どうやら同じ気配をとらえたらしいヴェルモンダールが難しい表情をしたまま用紙を睨んでいた。
 策士と言われ、武人としても名をせたヴェルモンダールでさえ掌握できない悪魔がいるとは思えないが、ただ単に魔力が不安定というわけでもない。消えた気配は痕跡すら残らず、追尾することができなかった。
 何かの拍子にまるで試すように現れては消える気配がある。近いようで遠い。かと思えば、息がかかるのではないかと思うほど身近に感じるときがある。
「……からかわれているか、馬鹿にされているか。判断が難しいな」
 口の中で低くつぶやく。話が終わり学年主任が着席すると室内が急にざわめき出した。
 ダリアはプリントをしまってから馴染みのある気配につられるように廊下を見た。体が自然と動く。無意識に歩き出した彼女の行く手を阻むように見事な体躯が割り込んできた。
「大久保先生」
「ダリア先生はどの部の顧問が希望ですか!?」
 鼻息が荒い。何かにつけて話題をふる彼の姿はすでに見慣れたものだが、呆気にとられる周りの視線がいつにも増して痛い気がしてならない。
 ダリアは引きつりそうになる顔を必死でこらえて笑顔を作る。
 教職員としての彼女は「おっとりして人当たりのいい」女性なのだ。いつものような横柄な口調はこの場にそぐわない。
 いっそ初めから下手な小細工をせずにおけばよかったのだが、いまさら嘆いたところで何も始まらなかった。
「顧問ですか? とくに決めてませんが」
「運動部か文化部、どっちにします? 運動部なら屋外か体育館――」
「大久保先生」
 このままでは延々と進展しない会話につき合わされかねない。
 ダリアは全開の笑みを大久保に向けて彼の言葉を遮るように口を開いた。
「まだ決めてません。急用ができたので失礼してもいいですか?」
 一瞬気圧されたようにたじろいで、大久保はあわてて体をずらして道をあけてくれた。
 ダリアは変わらず笑みを浮かべたまま礼を言って、その脇を通り過ぎて職員室をあとにした。
 部活の顧問はすでに決まっているから、副顧問という立場か、あるいはどこにも所属しない事もできる。生徒に対して教師の数がはるかに多いこの学校は、特定の部活の顧問にはならずに補佐にまわる教師も多い。
 もしどこかの部活の副顧問になるのなら、それを決めるのはダリアではない。
 彼女は意識を集中する。
 多くの気配が入り乱れる中で、ただ一つだけ特別なものがある。
 注目されつつ廊下を歩き回り、ダリアはその気配を追って角をいくつか曲がった。
 そして手をのばす。
「イナキ」
 物珍しげに辺りを見渡していた少年を背後から抱きすくめると、腕の中の体はわずかに硬直してから弛緩した。
「先生」
 いつも通りの、どこか突き放すような口調が耳に心地よい。語尾が多少荒いのは怒っている証拠なのだが、それが本気でないことは経験上で知っている。
「会いたかった」
 クラス担任になれなかったのが悔しい。その栄光を手に入れた大久保が羨ましくて仕方なく、胸の内で思わず愚痴っていると少年が小さく溜め息を落とした。
「こういう事はやめてくれない?」
「ばれなきゃいいんだろ」
「……確かにそう言ったけど」
 不服そうな声が聞こえる。だが、二人きりのときにはイチャイチャしていいと一応の了解は得ているのだ。
 このくらいは大目にみて欲しい。
 背後から抱きしめていると、彼の身長が少し伸びていることに気づく。休み中にも伸びていたが、さらに成長したらしい。
「将来有望だなぁ」
 後頭部に頬をすり寄せると、イナキが眉をしかめて首をひねった。普段着の彼もなかなか格好いいが、学ランはまた格別だ。なんだか禁断の香りがする。
 あからさまにサイズが合っていないところも見事にツボをついている。
「ベッドがあるのは保健室か」
「行くなら一人で行ってください。オレは帰ります」
 相変わらずつれない返事がくる。色仕掛けにも動じなくなった彼女の恋人は、その年に似合わずひどく冷静な男だ。
 むぅっと口を引き結んだが、ダリアは気を取り直して身をかがめた。
 幸い人の気配もないし、せっかくこの体勢なんだからキスくらいしてもいいだろう。そう考えていると、ピタッと彼女の口元に彼の手が貼りついた。
「……」
「……」
「……イナキ」
「約束、忘れたの?」
「約束?」
「そう」
 にっこりと微笑まれる。その笑顔にクラクラしながら彼女は、はて、と小首を傾げた。
 約束はいくつかしているが、こんなに美味しい場面で寸止めを喰らわなければならないものはしていない気がする。
 悪魔との契約は完全に別件だし、十八歳まで関係を秘密にするのはこれには該当しないし。
 他に何があったかと考え込んでいると、少年が小さく笑った。
「キスはオレからする」
 告げられた言葉に唖然とする。確かにどさくさに紛れてそんな約束をした。所かまわず触れたいダリアは、しかし彼からの口づけという魅惑的な響きに素直に合意して――
「……そ、それはなんだ? 私からはしちゃいけないのか?」
「オレからするんだから、ダメでしょ」
 悔しいほどの笑顔で断言された。悲鳴が声にならない状況を何度体験すればいいのかわからず、ダリアは愕然と腕からすり抜ける少年を凝視する。
「しかし!」
「約束は約束」
「でも……!!」
「じゃ、キスしたくないんだ」
「したいとも!」
 見事に乗せられて叫ぶ。
 冷静になって考えれば圧倒的に不利なのに、目の前にちらついたエサに喰らいつかずにはいられないのが彼女である。
 うっかり元気よく答えてしまったダリアにイナキは笑いながら手をのばす。手が頬に触れて滑るように移動する。
 引き寄せる彼に次の行為が予測でき、つい今しがたの不利な約束を忘れて素直に従った瞬間。
「武蔵?」
 不意打ちのように少年の声が廊下に響き、足音とともに気配が生まれた。
 ぎょっとして離れた直後に少年が角を折れて歩いてきた。
「ああやっぱり。なんか声がしたからさ。……どうした?」
 すらりとした長身の少年は不思議そうにイナキを見てからダリアに視線を移動させた。
「あれ? どうしたんだ?」
 改めて聞かれると、すでにイナキは動揺を鎮めて平静を装っていた。たいしたもんだとダリアが感心すると、イナキは少年に向かって歩き出した。
「珍しくて歩き回ってたら迷ったんだ。先生も。……職員室、わかりますか?」
 乱れなく問いかける姿が頼もしいと思うのは惚れた弱みかもしれないが、ダリアは微笑して頷いた。
「ええ、ありがとう。ちゃんと帰れそうよ」
 彼に合わせるように返事をすると、ちらりと向けた視線が別れを告げていた。続きは家に帰ってからかと残念がる。
 家は家でバタバタしてしまうから、あまり二人っきりになれないのが辛いところだが、これ以上ここに留まるのは得策ではない。
「行こう、蘇我」
 イナキに促されるまま長身の少年が歩き出す。彼は振り返ってダリアに小さく会釈をした。
 それに笑顔を返しながら、なぜ直前まで彼の気配がなかったのか――なぜ直前になってから急に気配がしたのかに疑問を抱く。
 まるで意図したかのような違和感。
 まさかなと疑問を打ち消した瞬間、イナキの隣に並ぶ少年の口がわずかに動いた。
「いずれ、また」
 笑みを浮かべる口元は言葉なくそう告げていた。

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