第16話


 影人かげびとと呼ばれる種族がいる。
 魔に属する者だが、ひどく脆弱であるため皮肉を込めてヒト≠ニ呼ばれる。彼らは単体で生きていくことはできず、他者から魔力を得てようやく命を繋ぐのだ。
 影人は名の通り、影の中で生涯を終える。無害で無力な彼らは強者の影に集まって、そこを仮宿のようにして肥大する。
 影人と悪魔のあいだには相性がある。強くても影人が集まらない悪魔もいれば、その逆に際限なく集まって主である悪魔の影以上に巨大になる場合がある。
 ――そして。
「フェン、魔界の様子は?」
「問題なく。玉座も安定しております」
「そうか。ご苦労だな」
 声をかけると、影がうねって気配が消える。
 ヴェルモンダールは小さく溜め息をついた。
 凝縮された影人は個々の境目を失いねり固まって、やがてひとつの命を形成し、宿主である悪魔に忠実な右腕となるのが常だった。
 フェンはヴェルモンダールが乱世を駆け抜けていった間に集まった影人たちの結晶でもある。絶大な魔力を誇った彼の影に集まった影人の数は、当人たちでさえ把握してはいなかった。
 命と意志を得た影人は自由に動き回り、そして、その代わりのように新たな影人がヴェルモンダールを仮宿として選んで彼の影の一部に住みつく。そうしてできた忠実な部下が、彼には二人もいた。
 不思議な循環に微苦笑して雑巾片手に顔をあげると、ダリアが忙しく走り回っている姿が視界に入る。いつもと様子が違うように思え、ヴェルモンダールはその姿を遠目で観察してすぐに瞼が腫れていることに気付く。
 容姿には頓着ない主人だが、それでも珍しい事だった。
 昨晩は久しぶりに帰宅したイナキの両親と共に酒を酌み交わしていたが、それであそこまで顔がむくんでしまうとも思えない。どうしたのだろうと考えていると、居間にイナキが入ってきてヴェルモンダールの顔を見上げるなり、思案げに唇を引き結んだ。
 こちらはこちらで珍しい反応だ。
 彼はそのままヴェルモンダールの横を通り過ぎ、窓辺まで行くとしばらくしてから振り返った。
「おはようございます。どうかされましたか?」
 問うと、イナキは目を瞬いて真剣な顔を崩さずに口を開いた。
「聞いていいですか?」
「なんなりと」
「……オレ、魔界へ行ってもこのままなのかなと思って」
「このまま?」
「普通の人間のまま」
 ああ、とヴェルモンダールは小さく声をあげた。魔界で人間が暮らすにはいくつかの方法があり、それには大なり小なりリスクを伴なう。それを不安に感じているのだろう。
 水晶がイナキをダリアの伴侶として選んでいる現在なら問題はないが、その選択が永遠に続く保証はない。いくら魔王と契約を結んでいるとはいえ、イナキ自身は生身の人間に等しい。魔城が拒絶すれば生きる場所を失うのは確実だ。
 だが、それでは困るとヴェルモンダールは胸の内で囁く。
 使えるものはすべて使い、水晶の見せる未来を現実のものとしなければならない。
「……その点は問題ありません。ダリア様の伴侶として、相応の力を得ますので」
 手段は選ばず、と心の中で付け加える。
 するとイナキは何かを考えるように押し黙った。もしイナキが、魔界へ行くことに戸惑いを感じているなら、不安が晴れるはずの回答をしたつもりだった。だが、彼の危惧はどうやらそればかりではないようで難しい表情を崩す気配がない。
「ヴェルモンダールさん」
「ヴェル、と」
 未来の主人にさん付けで呼ばれるのもこそばゆく、ヴェルモンダールは即座に訂正する。イナキは一呼吸おいて、再び口を開いた。
「ダリアに乱暴したヤツ、始末はついてるの?」
 さらりと問われ、ヴェルモンダールは目を見開いた。何の話か問い返すまでもなく、陰惨な光景が脳裏をよぎった。
 フェンに命令して、骸で山を築いたのはずいぶん前の話だ。いくらダリアでもあの過去をイナキに言うとは思えないが、おそらくはそれを指したのだろう問い。
 静かに見つめ返す瞳には、怒りや哀れみ、侮蔑の色は見当たらなかった。
「すべて、とどこおりなく」
 短く告げると、イナキは息を吐いた。
「そう」
 瞳を伏せる。
「残しておいてくれても良かったんだけど」
 感情の読めない瞳でそう言って彼は視線を廊下へと向けた。ひやりとした何かを感じ、ヴェルモンダールはイナキから視線がはずせない。
 少年はそのまま廊下を見詰め、息を切らせて駆け込んできたダリアにようやく表情を取り戻す。
「行くぞ!」
 身支度を整えて嬉しそうに笑顔を弾ませるダリアに、同じように笑顔を返してイナキは歩き出した。
「ありがとう、ヴェル」
 すれ違いざまにかけられた言葉に、初老の紳士は我にかえったように背後を見た。
 彼の足元から離れた黒いものが、ゆらりと彷徨いながら少年の影に重なって消えた。ヴェルモンダールは目を見張り、まるで仲の良い姉弟のように手を繋ぐ二人を見て脱力する。
「まったく、なんと言うか……」
 頼もしい、と表現していいのか恐ろしいと言っていいのか、心中は複雑だ。
 彼は人だ。魔族ではない。
 それなのに、いくつかの影人が魔将軍の頂点に立ったヴェルモンダールよりも人間の子供を選んで彼についた。
 ヴェルモンダールは溜め息を落として苦笑した。
 たかが、と侮ることなどできない。
 彼は、生まれる以前から水晶がダリアの伴侶として選んだ唯一の人間なのだ。惹かれあった二つの命は、そうして偶然とも運命ともつかない奇跡の中で、途切れることのない不可視の糸で結びついている。
 その存在こそが、魔界平定の要。

=end=

Back  Top  Next

こっそりあとがきスペースへ