第15話


「ダリア」
 優しく髪を梳いて呼びかける声がある。
 まだ高いその声音は、ひどく聞き慣れたものだった。その声を耳にした瞬間、胸の奥から何かがあふれるように苦しくなって、目尻が熱くなった。
「ダリア」
 ただ穏やかに呼びかける声とともに、ふわりと額に何かが触れる。
 柔らかく押し当てられたそれは、すぐに離れて今度は閉じたままの瞼に触れた。
「嫌な夢でも見たの?」
 問う声に頭を振ろうとして失敗する。あれは夢ではなく過去だ。忘れたくとも忘れられない、遠い日の思い出。
 命があるだけマシだ。
 仲間の大半は死に絶え、淫魔の数は激減したと聞く。
 ――生きているだけ幸運だった。たとえどんな過去を背負おうとも、いま命があることがどれほど喜ぶべき事かを知っている。
「泣かないで」
 ひたひたと心に染み入る声は、そう囁いて瞼にそっと触れた。
 その言葉に否定しようとようやく双眸を開けたとき、視界がゆるく波打っている事に気付いて、ダリアは言葉を失った。
 嗚咽をこらえるように、喉が小さく鳴った。
「イナキ」
 ようやくその名を呼ぶと少年は柔らかく微笑んでダリアの髪を梳いた。ゆっくりと近づいてくる彼に慌てて瞳を閉じると、小さく笑う気配と同時に額に柔らかなものが触れる。
 繰り返される口づけは、まるで何かを慰めようとしているかのように優しい。
 それが心地よくて、よけいに泣ける。
 この幸福は、どんな言葉で語ればうまく伝えられるのだろう。
 ただもどかしく、ダリアは手を伸ばす。触れるままに任せてイナキは静かにダリアを見おろしている。
 さらに手を伸ばして引き寄せ口づけをねだると、いつもなら一も二もなく拒絶する彼が、望むままに望むものを与えてくれた。
 水晶の見立てだけで惹かれたりなどしない。
 同じ未来を欲する事はない。
「私は……」
 あふれる思いとは裏腹に言葉がなかなか出てこない――しかし、わかっているとでも言うように、微笑んで頷きが返ってきた。
 柔らかく髪を梳き、口づけが繰り返される。
 触れるばかりのそれが今はなにより心地よい。
 四散する意識の中で、ただ願う。あの水晶が見せた未来が真実であるようにと。他の何を手放してもいい、彼だけは失いたくない。
 切に願い、身を震わせる。
 そして、ふと、彼女は目を開けた。
「……?」
 視界が微妙に白い。少しひんやりとする感触を疑問に思って体を起こすと、何かが顔からずり落ちて射すような光が目に染みた。
「起きた?」
 イナキの声に視線をめぐらせると、彼は椅子に腰掛け本を片手に苦笑していた。
 何が起こったのか理解できず、ダリアはパタパタと布団を叩き、
「夜這いか――!?」
 状況を把握する前にひとまず突っ込んでみた。
「ここ、オレの部屋」
 本を閉じて告げる言葉どおり、よく見ればそこはダリアの部屋ではなく隣のイナキの部屋――しかもベッドの上だった。
 ダリアは次に自分の体を確かめて、心底残念そうに肩を落とした。
「なぜ服を着ているんだ」
 もったいない、とパジャマ姿に再び残念そうな言葉を発する。
 イナキは小さく溜め息をついた。
「昨日、父さんと一緒にお酒飲んだろ?」
「美味かった」
 ダリアは挙手して意見する。地酒というものを入手したとかで、昨日はイナキの両親とおおいに盛り上がって次々とグラスをあけた。そのことまでは、記憶している。
「……部屋に連れていこうとしたら、強引にオレの部屋に入ってきてそのまま」
「もったいない」
 あれやこれやできたのに、と、本気で残念がっていると、
「元は取れたと思うけどね」
 イナキが微苦笑で奇妙なコメントをした。
 彼はそのまま立ち上がり、窓の外を眺める。出会ったころより少しだけ背が伸びていることに気付き、ダリアはわずかに緊張した。
 逡巡して、ダリアはもやもやとする気持ちを引きずって口を開いた。
「イナキ、過去のある女についての見解はどうだ?」
 ものすごく遠まわしに聞くと、彼はちらりとダリアに顔を向けてから再び窓の外を見た。
「生きてればなんかあるのが普通だし、過去のない人なんていないでしょ」
 お説ごもっともな返答がきた。
 明確な問いをすれば答えは少なからず変わってくるだろう。後ろめたさも手伝ってはっきりと聞けない己を恥じて、ダリアはしゅんと項垂れて小さく重く、息を吐いた。
 イナキはしばらく窓の外を見詰め、それからダリアに向き直った。
「目、平気?」
 言われてダリアは小首を傾げる。
「腫れてるけど」
「ああ、だから変な感じが……なんで腫れてるんだ?」
「……さぁ。その腫れがひいたら、天気もいいし遊園地に行こうか」
 ぱっとダリアの表情が明るくなった。自室か図書館通いが好きなイナキが遊びに行こうと誘うのは実に珍しい。
 初めてと言ってもいい快挙に、ダリアは大きく頷いた。
「支度してくる!」
 ベッドから飛び降り、彼女は慌ててドアに向かった。
「目の腫れは?」
「問題ない!!」
「そうだね」
 即答すると少年は微笑んで空を見上げた。
 その姿にただ安堵して、ダリアは部屋へと駆けていった。

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