第12話


 目を開けると、その世界は光で満たされていた。
「なんだ……?」
 かすれたような声が口から漏れ、ダリアは驚いて喉に手を当てた。舌技がないのは惜しいが噛み切られては元も子もないと、男たちはダリアの舌を引きちぎってその口に焼けた鉄の棒を押し付けたはずだ。
 これで悪態をつく事もできないだろうと嘲笑する男たちの言葉どおり、それ以後、彼女は話す事すらできなくなった。
 ダリアは喉をさすりながら、次にその喉をさすっている手を見た。
 穴ぐらの中で彼女の手は踏み砕かれ、骨は折られ、死ぬ事さえできない状況で何一つ思い通りにならないまま餌を与えられ、ただの道具として生かされていた。
 ダリアは自分の体をまさぐって、そしてどこも痛まない状況に首を傾げた。
 彼女の精神を守るために混濁し続けた意識は、幾つかの疑問を胸中に産み落としながらただ混乱している。
「なにが起こった?」
 意識を完全に手放す前、何者かの気配を感じたように思う。疲れ果て、生きる事さえ放棄して生かされていた彼女は、もうこれ以上の苦痛はないだろうと薄れる意識の中で嘲笑した。
 それが、今。
「ここはどこだ?」
 長く彼女を苦しめた骨のずいまで響くような痛みは消え、腐臭が立ち込める空間も消え、変わりに広がっているのは目を疑うほどきらびやかな部屋だった。
 ふかふかの天蓋つきのベッドは薄いカーテンで仕切られている。ダリアは重い体を起こし、のろのろと寝台から降りた。
 柔らかな絨毯が足の裏をくすぐった。
 ぼうと部屋を眺めると、そこが贅沢な造りである事に気付く。体を治療してくれた者は、ずいぶんと金持ちらしい。
 治療といっても、生半なまなかな事ではないだろう。潰された瞳も失った舌も、動く事すらままならなかった四肢も、一朝一夕に戻せるものでない事ぐらいは彼女でも知っていた。
 術者に頼んですぐに再生できるという類のものではないはずだ。
 それを物好きにもやってくれた相手がいるらしい。
 ダリアは考えるようにして歩き出す。うまく上がらない足に舌打ちしながら、不意に顔をあげた。
 広い廊下の中央で立ち尽くし、彼女は何かに呼ばれたような気がしてゆっくりと歩き出す。
 ずいぶん広い建物はいろいろな所で廊下同士が重なっては切れる。そのひとつをダリアは迷いなく突き進んで、やがて扉の前で立ち止まった。
 ダリアは一呼吸おいてからドアを開ける。そして、瞳を見開いた。
 質素という言葉が一番似合うその部屋の中央には鳥の足がある。それは床からまっすぐに生え、磨きこまれた水晶をしっかりと掲げ持っていた――だけなら、別段これといって驚く光景ではなかった。
「生きてるのか?」
 うめいたダリアの目の前で、鳥の足は自己主張するように大きくゆれる。そして、それが手招くようなものへと変わった。
 しばらく眺めていると、反応を示さないダリアに焦りを感じたのか動きがだんだん乱れ始める。
 苦笑いしながらダリアは水晶を掲げ持つ奇妙な鳥の足へと近づいた。まるで安堵するように、足は角度を調整して水晶を覗き込めと言わんばかりに突き出してきた。
 ダリアは素直に従って眉をひそめた。
 ごみごみとした町並みがいっぱいに広がっている。映し出される光景は二転三転し、なかなか落ち着くことはなかった。
「何だ?」
 怪訝そうに問い掛けると、鳥の足は慌てふためいて水晶を振ってもう一度突き出してきた。
 仕方なく再び覗き込むが、映し出されるのは密集した住宅だの学校だの公園だので、いっこうに要領を得ない。
「どこを映している」
「人間界ですよ」
 不意に穏やかな声が応じた。
 ダリアは慌ててドアを振り返る。黒衣に身を包んだ壮年の男がひとり、微苦笑して立っていた。
「まだ歩かれるには早い。しばらくお休みください」
「……何者だ?」
「ヴェルモンダール。立場で言うのなら……そうですな、貴女を補佐する側仕え就任を快諾いただきたい」
 丁寧に一つ会釈をして、彼は温和に微笑んでみせた。ダリアは怪訝そうに彼を見る。身形からすれば、なかなかに地位があると知れる。
 加えて言えば、身に付けているものもさることながら、立ち姿に何かしらの気品がある。魔界の下層でろくでもない馬鹿者と、その中層で身形だけは妙に気を使う男を見てきたダリアは、ヴェルモンダールが後者であると判断した。
 ナルシストとまではいかないが、自分の行動に気を使う必要のある者。
「補佐とは? 私をここに運び治療をしたのも貴様か? 目的は何だ」
 警戒するダリアに、ヴェルモンダールは苦笑を返した。肩にかけたマントをはずし、それを手に近づいてくる。
「服を新調しましょう。戴冠も控えている。今は体をおいとい下さい」
「質問に答えろ」
 鋭く睨むと、ヴェルモンダールは黒衣を大きく広げてダリアを包んだ。
「全裸で歩かれては城の者に示しがつきません。……補佐はそのままの意味ですよ。ここに貴女を運んだのも治療させたのも私です。水晶が貴女を示した」
「水晶?」
「左様で。神の信託を告げる先見の水晶――水晶の見立てです」
 ふと、ダリアは背後を見た。奇妙な動きを繰り返していた鳥の足は、なぜか奇妙な格好のままピタリと停止していた。
 ダリアは黒衣を掻き合わせるように握り、水晶に向き直った。
「なにが見えます?」
「……風景」
 ヴェルモンダールはちらりとダリアを見て、それから頷いた。
「私には違うものが見えます。ではこの未来、貴女が見るにはいささか早いようだ」
 おかしなことを言う男はそれきり黙りこんだ。
 沈黙が落ちた。
 体を治療したという事は何か目的があるのだろう。淫魔としてのダリアを必要としていないように、彼はダリアの体には一切の興味を示さず「補佐」と言った。
 だいたい、ここはどこだ。
 ダリアはふと水晶から視線をはずした。
 部屋には小さな窓がある。そこから見える景色は魔界の最下層とは似ても似つかぬものだった。
 城はどこか高い場所にあるようだ。眼界には生い茂る木々、頭上には抜けるような空。巨大だが美しい鳥が飛翔し、その向こうには泉が見えた。そびえたつ山々はどれもさまざまな緑で埋め尽くされている。
 絶景、と言っていいだろう。草さえ生えない最下層に比べれば、そこはまさに楽園だった。
「ここは?」
 魔界なのかと問うまえに、ヴェルモンダールが口を開いた。
「魔城です」
 魔城、と口の中で繰り返し、ダリアは目を見開いた。魔城は魔界の最上層に位置し、大気を満たす瘴気が濃密であるがゆえにそこに行ける者は限られてくる。
 淫魔は体質上、他の悪魔よりも瘴気に対して高い順応性と耐性を持つ。しかし、最上層となると話は別だ。
 冗談を言っているのかと男を見ると、
「城は今、貴女を守るために結界を作っている。……まったく、たいしたものだ」
 どこか呆れたように彼は笑った。
 結界は見た事がある。伯爵がメイドのために城全てを包む巨大なものを作っていた。結界を結ぶのには集中力と魔力が必要になり、規模が大きければ大きいほど不安定になりやすく、安定させるには相当の知識を必要とする。
「意味が……わからん」
 彼の言葉も、今の状況も、まったく現実感がない。理解ができない。
 混乱するダリアは、外を見ながら低く唸った。
 彼は戴冠と言った。
 魔界で戴冠と言えば、悪魔が冠を得て王となったことを意味する。ここが魔城で、戴冠の話が本当なら、魔界の王とやらがこの城にいるのだろう。
 ――となると。
「貴様が無能な魔王か」
 ぴしりと指摘すると、
「貴女が魔王ですよ」
 ぴしゃりと真顔で言い返された。
「……すまん、少し休ませてくれ」
 額に手を押し当てながら、ダリアは眩暈にも似た脱力感を味わっていた。体が本調子でないのは彼女も自覚している。もしかしたら夢を見ているのかと、やはり自分は今もあの暗くて陰湿で、苦痛しか生み出さない場所に繋がれているのではないかと、そんな思いが涌いてきた。
「そうなさったほうがいい」
 よろよろと歩き始めたダリアを見て、ヴェルモンダールは深く頷いた。
「目がさめたら、戴冠の儀を執り行う準備をしましょう。魔界始まって以来の女帝の誕生だ」
 背後からかけられた声はよく聞き取れなかったが、聞き返すのも面倒でダリアは無視して廊下を進んだ。やはり何かに導かれるように歩くと、広い魔城の中を迷いもせず寝室に辿り着いた。
 ドアを開けると容姿端麗な女たちが血相を変えて駆け寄ってきた。そして彼女たちはダリアをそのままベッドへ押し込んだ。

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