第11話


 鳥の足に支えられた水晶は、時折過去を見せた。
 懐かしい過去だった。
 戦乱を治めることだけを誓って激戦の中をともに戦った仲間は、誰一人として彼のそばには残らなかった。弔いの花は血で染まり、その体すら赤く染め上げたころ、彼は敵対する勢力の一切を智謀で――それで事足りぬ場合は武力で抑えつけた。
 魔城の黒扉が開き、多くの犠牲をはらった戦乱は終りを告げた。
 彼は今、神から授けられたと言い伝えられる水晶の前にたたずんでいた。
「ヴェルモンダール様」
 ひかえめな声に、彼はようやく注視した水晶から顔をあげた。
「即位の儀を執り行わねば、魔将軍は再び牙を向けます。魔城には王の帰還が何よりも必要なのです」
 切迫した声にヴェルモンダールは再び水晶へと視線を落とした。
「機はとうに熟しております。どうぞ玉座に……」
 部下の声に、ヴェルモンダールは小さく笑んだ。冠を受ければ歴代の魔王たちが得た魔力が彼のものとなる。それは絶大にして絶対的な覇者の力だ。
 反旗を翻そうとたくらむ魔将軍たちも、その力の前ではおいそれと口を開く事さえできないだろう。
 機は熟している。
 冠を受けるなら、一刻も早いほうがいい。
 けれど。
「水晶はすでに王を示した」
 そうこぼしたヴェルモンダールに、部下は怪訝な表情をした。
「だが、場所が特定できない」
 押し黙り、両手を伸ばす。長く女の姿を映しつづけた水晶は、ようやくそれ以外の光景を見せ始めた。気まぐれに人間界を映すその水晶は、はるか未来、彼がその目を疑う光景を見せるにもかかわらず、わずか先の景色を映す事を拒んでいるようだった。
「魔界平定のかなめ……なぜ、主軸となる方の姿を映さない」
 どちらが欠けても成り立たないのだ。伴侶となる少年の居場所はすでに確認した。にもかかわらず、王となる者がいまだに見付からない。
「なぜ――」
 両の手に力をこめた瞬間、水晶が瞬くように光を放った。光は瞬時に消えうせ、様々な色が乱れる不可思議な空間を映し出す。息をのんで見入っていると、中心に赤黒い点ができ、それが見る見るうちに広がっていった。
 その内側に見える光景にヴェルモンダールが肩を震わせる。
「グラハム、口の堅い女官を集めておけ」
 低く押し殺した声でようやくそれだけを告げ、ヴェルモンダールは深々とこうべをたれる部下を一瞥する事もなく床を蹴った。
 視界が一瞬にごり、すぐに色彩を取り戻す。
 鼻を突く腐臭に眉ひとつ動かすことなく、彼はあたりを見渡した。いくつもの層からなる魔界――その最下層と呼ばれるもののさらに下に、名すらつけられない闇があった。
 そこをねぐらとする悪魔は世界のことわりから反し、破壊を好み、殺戮に酔う理性とは無縁の輩ばかりだった。
 ヴェルモンダールは拳を握った。
 今まで水晶がここを映し出さなかったのは、空気があまりによどんでいたからだろう。下層部とは異なる瘴気に目をこらす。
 闇の奥のさらに奥。
 白い塊が動くのが見えた。
 できれば間違いであって欲しいと願ったものは、水晶が映した光景と寸分の狂いもなかった。腹立たしさと後悔で、肩がわずかに震えた。
 洞窟には女がいた。手入れされた痕跡のない髪は伸び放題で無造作に肌に張り付き、腐臭を放つ大地をうねっていた。長い四肢は奇妙な方向に曲がり、変色している。白い肌は汚泥とそれ以外のものが塗りたくられ、ある場所はただれ、ある場所からは血を流し、そしてある場所は肉を食いちぎられていた。
 一瞬そむけそうになった視線を、ヴェルモンダールはあえてその女に向けた。
 ゆるりと伏せられた女の顔が動く。
 女の顔には真一文字に傷がある。それはちょうど瞳があるべき場所に。
 女は見えない瞳をヴェルモンダールに向け、ひび割れた唇を開いた。
 用がないなら近づくな。用があるなら、さっさと済ませてどこかへ失せろ。
 うめき声のようなものは、確かにそんな言葉に聞こえた。
 ヴェルモンダールは空洞と化した口腔から瞳を逸らし、漆黒のマントを肩からはずすと女に近づいた。
 力なく奇妙な方向へ曲がる腕を捕らえている鎖はいやに短い。――自害を恐れての事だろう。舌がないのは、噛み切られて出血多量で死なれては困るから。
 四肢を砕くのは、逃げ出させないため。瞳から光を奪ったのは、それが必要のない器官であるから。
 可能性を示唆するヴェルモンダールは、無言のまま女を戒める鎖を砕いた。そして、マントを大きく広げ抵抗する事すらできない女をすっぽり包み込み抱き上げた。
 腐臭を放つ大地を踏みしめ、彼は足を止める。
「フェン」
 短く呼びかけると、ややあって彼の影から返答がきた。
 怒りが胸の内でとぐろを巻く。その一切を表に出すことなく闇を見つめた彼をどう思ったのか――彼の影すら、あたりを満たした冷ややかな空気に緊張した。
「フェン、この方を傷つけた者、一人として逃すな。山を築いてみせろ」
 静かな声は命令する。
 生かしておくな、と。
 死体で山を作れと、冷淡な声音で。
「……御意に」
 影は応じ、気配を消した。それを確認してヴェルモンダールは大地を蹴る。肺を蝕むような不快な空気は瞬く間に消え、ヴェルモンダールは見慣れた城の、見慣れた黒扉の前に立っていた。
 相変わらず奇獣たちが壁やドアの中を駆けずり回っている。彼らはヴェルモンダールに性質たちの悪い笑顔を向け、そして彼が何かを抱きかかえている事を確認すると互いの顔を見合わせた。
 ぼそぼそと声なき声で話し合い、奇獣の半数がどこかへ散ったかと思うと、彼らはすぐに他の奇獣たちを連れて帰ってきた。
 閉ざされた黒扉の内側――
 今まで一度として敬意のようなものを表したことのなかった彼らが、唖然とするヴェルモンダールの目の前で姿勢を正して整然と並び、いっせいにこうべを深々とたれた。
 黒扉が開く。
 足を踏み入れた瞬間、漆黒だった建物に色があふれた。足を踏み入れるたびにあふれる色は鮮やかに城に広がっていく。極彩色の渦の中で、踊るように飛び跳ねた奇獣が壁を飾る花へと転じた。
 それを合図に奇獣たちが次々と壁を飾り、城を彩りはじめた。
 めまぐるしく変容していくその城を眺め、ヴェルモンダールは黒衣に包まれた女に視線を落とした。
「なるほど、先の魔王の折には絢爛豪華な王城だったと聞くが……城は迎えた王にふさわしい姿をとるわけか」
 黒く塗りつぶされた城は、迎えるべき王が不在だったがゆえ。
 そして王を得た城は敬意をしめし華やぎを取り戻す。
「ヴェルモンダール様、これは一体……」
 狼狽して駆け寄るグラハムに、ヴェルモンダールはゆっくりと視線を投げる。
「術者を集めろ。一人でも多く、少しでも優秀な者を」
 腕の中で意識を失う女を起こさぬように、彼は静かに歩き出した。
「王の帰還だ」

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