第10話


 それからどのくらいの時が過ぎたのかわからない。記憶がひどく曖昧になっている。
 震恐しんきょうすることしかできなかったダリアは、己の名すら忘れたように魔界と人間界を行き来した。魔界の最下層は淫魔にとって快適な住処であると理解し、けれど食べ物を確保する為に人間界に降りねばならなかった。
 降りるといっても、気まぐれに繋がる界と界を渡るのだ。いつもうまくいくとは限らなかった。
 そして、稀に淫魔の特性にならって男を誘惑したが、身形みなりが祟ってか態度が祟ってか、多くの交渉はものの見事に失敗した。
 なかには成功しかけた事もある。
 しかし、すんでの所で嫌になって怪力を披露するばかりだった。
「吸血鬼って噂があるの」
 不意に耳に届いた声に、ダリアの顔はこわばった。
 吸血鬼と心の中で繰り返し、とっさに伯爵の顔を思い出した。別の何かを思い出しかけたが、それは瞬時に打ち消される。
 淫魔はもともと、自己中心的な生き物だ。
 己を守るために働く防衛本能は、そうして彼女の記憶にとどまっていた事象の輪郭を加速度的に崩していった。
 ただ、本能がそう働いているだけで本当に忘れているわけではない。ダリアは視線をめぐらせて駅の構内へと続く階段に腰掛ける少女たちに気付く。
 今いるのが人間界だと再確認し、ダリアは自分の服装も確認してから彼女たちに近づいていった。
「見た子がいるんだって。色白でマントつけてる男」
「なにそれ」
「牙があって、襲われたって」
「最近変態多くない?」
 まるで自分には関係ないとでも言いたげに少女はケラケラと笑っている。変質者がおこした犯罪だと思っているのだろう。
 そろそろこの土地からも離れたほうがいいと判断し、ダリアは溜め息をついた。淫魔の数が減ってきているのか、情報交換したくとも仲間に会う機会が少ない。多くの淫魔は生存の確率と利便のためにある程度群れているので探しやすいはずだが、それにもかかわらず彼女たちの姿を見かける機会がないのだ。
 こんな事ならいっしょに行動しておけばよかったという後悔の念が生まれた。
 だが、それがいかに危険であるか身をもって知っているダリアは、知らずに一人で行動する事が多かった。
 殺戮の記憶は曖昧だが、恐怖は心の奥に根を張り続けていた。
 食べ物を集め、魔界へ帰る算段をしなければいけない。早いほうがいいだろう。
 そしてしばらくは魔界で身をひそめていたほうがいい。
 そう思って歩き出した瞬間、足元が歪んだ。唐突に現われた空洞は闇を孕み、ダリアの足に絡みついた。
 とっさに何かに掴まろうとしたが、手の届く位置には何もない。舌打ちする間もなくダリアはその闇の中へ落ちていった。
 界と界を繋ぐ歪みの多くは前触れなく現われては消える。規模が大きい場合もあれば、ひどく小さい事もあった。
 自分でできればさぞ便利だろうが、あいにくダリアにはそんな能力は備わっていない。
「座標固定……だったか」
 以前誰かから移動術だと聞いた記憶があった。
「あれは界と界も繋げるのか? ……どうすればいいんだ」
 不機嫌そうにつぶやいて、ダリアは唸った。その視界には延々と広がる薄暗い空が重苦しくのしかかるように存在している。
 腐臭を放つ大地は彼女の背中に貼りついていた。動くのも億劫だが、いつまでも寝そべっているわけにもいかず、ダリアは体を起こして顔をしかめた。
 雷鳴がとどろく暗い空を見やり大きな溜め息をつく。ずいぶん前に魔界の覇権争いに終止符が打たれたと誰かから聞いたが、魔界が統率された気配はない。
 噂話に尾ひれがついたのか、よほど無能な者が頂点に立ったのだろう。
「迷惑な話だ」
 悪態をつき、ダリアは立ち上がった。
 肌にまとわりつく空気に不快感が増す。じっとりと濡れた服は背中に貼りつき、体を動かすたびに肌をこするように移動した。
「泉を探して、服でも洗うか」
 独りごちてあたりを見渡した。
 魔界の最下層に植物は育たないが、幸いにして泉らしきものは点在している。危険をともなう場所ではあるが、それを見つけて界が繋がる間の拠点にする必要がある。
 今回はとくに食料を確保し損ねている。早急に泉を見つける必要があった。
 ダリアは靴を脱ぎ歩き始めた。
 泉を見つけるのは運といってもいい。立ち止まっていてはその運からも見放される。
 こんな時ばかりは仲間が恋しかった。
 大地を眺めながら歩いていたダリアは、ふと何かの気配を感じて顔をあげる。仲間かと思って視線をやったその先には、人の形をした悪魔がいた。
 人の形といっても、その身長は人間よりはるかに高い。横幅も二倍といわず、それ以上に大きかった。
 種族はわからない。
 それは牛のような顔をダリアに向け、興味深げに血走った瞳を細めた。
「人間か?」
 つぶれた声が問い掛ける。前かがみになった体をさらに前へと突き出して、大きな鼻をひくひくと動かした。
「淫魔だろう。最近、人間界で淫魔狩りが流行ってるんだってよ。数が減ってかなわん」
 唐突に背後から声が聞こえた。
「はぐれ者は珍しいな。淫魔が減ったからかな」
 さらに別の声がダリアに届く。知らずに全身が緊張した。
「食い物をやるからついて来い」
 背後からの声に悪寒がはしる。ダリアはすでに、仲間がどうやって食べ物を手に入れていたかを知っていた。
 自分たちの力でどうにもできないなら、他者に依存して生き残る――そのための術を、淫魔が自ら選択する事はなかった。
「必要ない」
 ダリアは吐き捨てて歩き出す。その肩に巨大な手がかかった。
 とっさに投げ飛ばそうとその腕を掴んだが、背後の巨漢はぴくりともせず、逆に楽しげな嘲笑を漏らした。
「面白いな、この淫魔」
 やすやすと体を反転させられ、ダリアは息をのむ。
 目の前にいた悪魔はすでに人型ですらない。手同様に巨大なひづめのある前足を踏みしめるその姿は、人とも獣ともつかなかった。
 ダリアが手を振り払うと、瞬時に容赦のない力で腕を掴みなおされた。
 脳天に響くような痛みに悲鳴があがる。
「淫魔が減ってるんだから壊すなよ」
 腕から聞こえた音に別の悪魔があきれた顔をする。
 激痛に言葉さえ失うダリアを男たちは楽しげに眺めていた。
「でも、逃げ出さないように足は砕いた方がいいだろ?」
 悪夢へと続く言葉を口にして獣人は鋭い瞳を細める。
 ひどい耳鳴りと同時に吐き気がした。
 嫌な音が己の体から響いた。血を吐くような絶叫は、そう長く続く事はなかった。
 闇の中へ引きずり込まれるように、彼女は魔界の最下層――さらにその下へと堕ちていった。

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