第9話


 ひどく空気の悪い場所だと思った。
 魔界を思わせるそれは、どうやら湿度のせいらしかった。
 薄暗いその場所で何かがうごめいている。
「あ、先客」
 女の一人がそうつぶやく。
「どうしよう、服着忘れた」
「どうせすぐ脱ぐじゃない」
「ちょっと着てたほうが燃えるのよ。脱がせるの興奮するんだって」
「ふぅん? どっかにないの?」
 小さな部屋から視線をはずし女たちはささやきあう。そんな彼女たちを尻目に、ダリアは室内を茫然と見詰めていた。
 うごめいているのはいくつもの肉の塊。その半数は人とも獣ともつかない容姿をした淫魔で、残りの半数は人間の男だった。
 それらがことごとくもつれ合っている。その状況がなんであるかを理解するよりも早く、ただ不快感だけが増していった。
 甘ったるい嬌声が室内を埋める。そこに、切迫した声がいくつも重なった。
「なんだ、新しい子がいるじゃないか――」
 何かがダリアの肩に触れる。反射的に彼女はそれを掴んで身を低くし、力任せに引いていた。
 頭上で奇妙な声が聞こえた。
 次の瞬間、投げ飛ばした肉の塊が小さな部屋のすみに置かれたテーブルの上に落ちた。
 驚いたような男たちの声がダリアの耳に届く。
 それぞれに動きをとめた彼らは、すぐに女たちに誘われるように投げ飛ばされた男から視線をはずした。
「何してるのよぉ。せっかくお誘いがあったのに」
 背後で女が不満そうな声をもらした。
「これが仕事なのか?」
 硬い声で聞くと女たちが笑った。
「そうよ。男に抱かれて、女を抱くの。それが淫魔の仕事」
「すぐに病みつきになるわよ」
 妖艶な微笑で返し情欲にぬれた瞳を細める。
「悪いが性に合わん」
 驚いた女たちの間をすりぬけて細い廊下を歩き出した。とめようとする声を振り払うように足早に移動すると、通路の両側にあるドアのひとつが開いている事に気付いた。
 足をとめて中を覗き込むと、狭い部屋の天上からはたくさんのハンガーパイプがのび、ぎっしりと服がぶらさがっていた。
 ダリアは少し考え、迷いながらもその部屋に足を踏み入れる。
 やはり服がないのは心もとない。ハンガーにかかった服を掻き分けるようにしてまともそうなものを探す。
 よさそうなのを何着か手にとって着てみるのだが、どうにも胸がきつい。なんとか着ることには成功するのだが、腕を動かすだけで胸元のボタンがはじけた。
「……小さくないか?」
 凶悪な肢体の女に囲まれているせいですっかり忘れがちだが、人間に比べればダリアも十分に肉感的といわれる体つきをしている。
 しかし、いまいち自覚のない彼女はひどく不満そうに服を脱ぎ捨て、新しい服に手をのばした。
 その刹那、悲鳴が空を裂いた。
 ダリアは服を一着手に持ったまま部屋から飛び出し、薄暗い廊下を駆け出した。
 悲鳴が大きくなるとともに血臭が濃くなる。嬌声も不快だったが悲鳴はそれ以上に不愉快で耳を塞ぎたくなった。
 胸騒ぎに足を速めると、廊下に女が倒れているのが見えた。
 それが共に行動していた女の一人だと気付き、とっさに名を呼ぼうとしてダリアは口ごもった。彼女の名を知らなかったのだ。
 淫魔は名で個々を判別することがない。
 淫魔は淫魔で、それ以上でもそれ以下でもない。稀に名を持つものもいるが、大半は怠惰な暮らし同様に怠惰な性格を反映してか、己と他人を区別することさえしなかった。
 ダリアはかける言葉さえ失って女に駆け寄った。
 手にした服ごと彼女を抱き起こすとその体はぬめりを帯びていた。
 茫然と彼女を見下ろすと、ダリアはようやくその体が真紅に染まっていることに気付いた。
 どうしたんだと問おうとした瞬間、視界が翳った。
 遠くで男たちの悲鳴が聞こえた。何かを叫んでいるようだが、生憎ダリアにはその言葉は理解できなかった。
「……淫魔か? 名は?」
 女たちの悲鳴は断末魔の叫びと化している。その中にあってなお、ダリアの目の前に闇を作る男の声は気味が悪いほど静かに響いた。
 何かが床を叩き、逃げ惑う淫魔が二つに裂ける。
 閃光がひらめくと力なく女が崩れ落ちる。恐怖に絶叫する女たちを見詰めながら、先刻まで好色そうに肌を合わせていた男たちは狂ったように泣き叫んでいた。
 ――この、悪夢は何だ。
 小さな部屋が血で染まっていく。そのことごとくが淫魔の体から流れ落ちたものだった。
 それは、漆黒をまとった数人の男たちによるひどく一方的な殺戮。
 感情の片鱗も見せない彼らは、青白い顔を淫魔に向けながら次々と容赦なく命を奪っていった。
 目の前の男が茫然とその悪夢を見詰めるダリアに視線を合わせた。
 その男の顔もひどく青白い。男は考えるように間をあけて、何事かを再び問いかけた。
 先刻の質問が名前であったことを思い出し、ダリアは停止した思考のままようやく返答する。
 男は頷き、何かを口にして殺戮の場へと戻っていった。
 どこか玲瓏としたその姿が誰かと重なる。
 怖いと、素直にそう思った。
 優しく接してくれた記憶があってなお、それでも闇をまとう彼ら同様に怖いとそう思ってしまった。
 いつも身だしなみに気を遣う男は、やはり彼らと同じように青白い顔をしていたのだ。
 ああ、これが――
 ダリアはようやく納得する。
 これが吸血鬼というものか、と。
 殺戮は、その場にいるダリア以外の淫魔すべての息の根がとまるまで続けられた。

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