第7話


 壮年の男は巨大な鉄の扉の前に立った。
 息苦しさを感じるほど重々しい黒扉の表面には、魔に属する彼ですら奇異に思う生き物が掘り込まれていた。
 それは、巨大な片腕を持った半魚の美しい女であり、額にもう一つの頭部を張り付かせた男であり、少年のようなあどけない表情をした魔獣であり、鋭利な鉤爪を腹部から生えさせた少女でもあった。
 ぞろりと音をたてて黒扉の内側が動く。いくつもの目が、扉の前に立つ男を見おろした。
「ヴェルモンダール様」
 後方でひかえていた男が震えた声を絞り出す。
 黒扉の前で微動だにしなかったヴェルモンダールは、片手を軽くあげて近付こうとした部下の動きをとめた。
 魔城の内部へと繋がるその扉は、前王が討たれて以来、誰の入城も許可しようとはしなかった。返り血を浴び真紅に染まったヴェルモンダールは、瘴気を吐き出す黒扉をただ静かに見詰めていた。
 再びぞろりと扉の内部――彫刻であるはずの奇獣たちが動き回る。腹に大きな空洞を抱えた女が、不意にヴェルモンダールの前へとやってきた。
 耳まで裂けた口を開けて、けたたましく笑う。
 声はない。
 笑っているのは黒扉に塗りこめられた、生きているのか死んでいるのかも定かではない異形の者だ。
「私では不服か」
 淡々と問いかけると、女が笑みを消した。
 何を思ったのか彼女は背後≠ノ視線を向け、そしてヴェルモンダールの姿を舐めるように見詰めた。
 勝者としてここに辿り着いた彼の体には、上質な布と糸でしつらえた黒衣が血でべっとりと貼りついている。勝利の余韻に浸るのとはどこか違う、自嘲気味な笑みがその顔に広がる。
 女がしばらく考えていると、腹の空洞から子供の手が伸びてきた。
 それは女の腹はおろか黒扉の一部を盛り上がらせ、はっきりとした形となって空中を大きくかいだ。
 手が奇妙な方角へと曲がる。
 それはぺたりと音をたて黒扉に貼りつき、すぐに模様の一部をひねってみせた。
 黒扉が軋みをあげた。
 同時に、ヴェルモンダールの背後にいた部下たちから歓声があがる。まず一番に王を招き入れるとされるその扉は、ヴェルモンダールのために開かれようとしていた。
 建物の中からひやりとした冷気が漂ってきた。
 ようやくかと、彼は安堵して足を踏み出した。
 長く続いた魔界での争いに、これでようやく終止符が打てる。血を好み、戦いに狂い、意味のない破壊を繰り返してきた争いは、彼にとって失うものが多すぎた。
 魔王の地位が欲しかったのではない。
 彼が望んだのは世界を制する力ではなく、混沌とした世を治めることのできる地位だった。 
 薄暗い城は空間をゆがめて作られていた。
 驚くほど広いフロアがヴェルモンダールを迎え入れる。
 ぽつりと、蝋燭に灯がともった。
 主の死後、長く誰の入城も拒んだ魔城は、想像以上に損傷が軽い。黒塗りの壁面を動き回る奇獣の姿を認め、ここがただの城ではないことを確認しながらヴェルモンダールは蝋燭が導く廊下へと進んだ。
 部下たちは入城するなりこの奇妙な建物にどよめきをあげている。
 その声がだんだんと小さく細くなっていく。
 蝋燭はヴェルモンダールを導くように次々と炎を生み出し、やがて一つの扉の前でとまった。
 ヴェルモンダールは背後を見た。
 あまりに長い廊下は、自分が歩き始めた場所すらもあやふやにする。
 左右に並んだドアには目もくれず灯った炎は、彼の前にあるそのドアだけを指し示すように揺れていた。
 そういえばどこもかしこも黒いなと、ヴェルモンダールはちらと考える。
 魔城は豪奢な建物だと噂されていたが、実際には壁や柱の内部を奇獣が走り回るだけの奇妙な建造物だった。
 例にもれずヴェルモンダールの目の前には漆黒のドアがある。彼がノブをひねると、重い音を響かせてそれが開いた。
 ヴェルモンダールの目は知らずに部屋の中央へとむいていた。
 さほど広いとはいえないその部屋は濃度の濃い闇で満たされていた。にもかかわらず、室内を苦労せずに見渡すことができる。
 彼の視線は奇妙なものをとらえていた。
 それは、床から天を突くようにして生える細長い鳥の足。
 生きているような、と彼が考えた瞬間、その足はもぞもぞと動いた。どうやら鉤爪かぎづめでしっかりと掴んでいた水晶の位置が気に入らないらしい。
 長く他者を拒み続けた城の一室には、塵ひとつない、ひどく澄んだ水晶があった。その水晶が淡く輝きを放ち、闇の中にあってなおしるべのように柔らかく部屋を照らす。
「……神託を告げる先見の水晶」
 ヴェルモンダールがつぶやくと、床から生えた鳥の足はぴたりと動きを止めた。
 彼の眉が釣りあがる。それからいっこうに動く気配がないという事は、先刻のあれは見てはならない光景だったに違いない。
 なんとも奇妙なと苦笑して、彼は入室した。
 ゆったりと近づくと、鳥の足は本当に精緻な模造品に見えてきた。ヴェルモンダールはその視線を足から水晶へと移動させる。
 神よりのたまわり物とされる神器。
 注視すると、部屋を丸く切り取ったように世界を映し出す水晶の、その内部が前触れなくねじれ始めた。
 ひどく歪んだ光景は瞬く間に誰かの後ろ姿を映しだした。
 長く美しい黒髪がサラサラと揺れる。
「何者だ?」
 水晶は応えずすぐにその光景を消し去り、再び部屋の中を映した。
 ヴェルモンダールはしばらくその場に立ち尽くしていた。

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