第6話
手の中には、精巧な銀細工の鈴が一つ。
ダリアはそれを長く細い指でつまんで左右に振った。
音はない。
それもそのはず、その鈴の内側にはなにもなく、ただつるりとした曲線を描くのみにとどまっていた。
「……用があったら鳴らせと言われてもな……」
城を出るときに伯爵に手渡された呼び鈴は、鳴らそうにも鳴らす機能が備わっていない。
ダリアは困惑気味に鈴に視線を落とす。低くうなる空が何度か閃き、光の筋が空と大地をつなぐ。
その光に、何かが鈍く反射した。
ダリアは鈴の内側に目を凝らす。
なにか傷のようなものがあると判断し、それを確認しようと手首を返したとき、足元が揺らいだ。
視界のはしに闇が飛び込んでくる。
声をあげる間もない。
たったいま土を踏みしめていた足は空に浮き、その下には
果ての見えない闇の中からぬらぬらと光る肉の塊が飛び出し、ダリアの足に絡みついた。
強引に引きずられると緑におおわれていた視界が閉ざされる。状況を呑み込めないまま、ダリアはあたりを見渡した。
「何故行かせた!?」
不意に馴染みのある声が耳に飛び込む。
「淫魔だからどうと言うんだ!? いままで一緒に暮らしてきただろう!? それを……!!」
闇の中に光が生まれ、それがゆるりと広がる。引き伸ばされた光の内側には、見覚えのある城の一室が取り込まれていた。
「相容れない。そもそもが、そういうものなんだ」
淡々と突き放すように男の声が伝える。
伯爵の声だと、ダリアは懐かしく思った。
「だったら今まではなんだったんだ!?」
「……さて」
そっけなく伯爵は返す。
「見損なったぞ」
苛立つのはメイドの声。荒々しく彼女はドアを開けた。
廊下を突き進み階段をおり、その足は玄関に向かう。人と魔が入り混じったその体は、瘴気にたいして多少の抵抗力を持つ。
だが、長くもつものではない。感情のままに外気に触れればその体がどうなるか、彼女が一番よく知っているはずだ。
白い手がノブに触れて力を込める瞬間、それを遮るように男の手が覆いかぶさる。
「放せ」
感情的に叫ぶメイドは振り向きざま自由のきく片手を上げた。
伯爵はその手を難なく受け止め、怒りに震える体を無言で抱きくるんだ。唐突なその行動に、メイドは怒りくるって暴れ出す。
けれど、固定された腕はびくともしなかった。
「放せ! あの子は外のことを何も知らないんだぞ!?」
「そういうものは、生まれながら理解している。理屈じゃない」
「外は危険だ」
「――ここよりは、安全な場所だろう」
口調から何かを読み取ったように、メイドは動きを止めた。
「なんだ、それは」
「……仕方がない」
「伯爵!」
「固執だ」
搾り出すように伯爵は呟いて、その顔をメイドの首もとに埋めた。
「一緒にいれば、それがいかに傲慢な思い込みだったのかを知らされる。ダリアは淫魔だが、私にとってはそうじゃなかった」
「……伯爵?」
「だが、仲間は――他の吸血鬼には、あれはただの淫魔だ。誇り高い一族が、下劣な家畜を飼うことなど許すまい」
「ダリアは、家族だ」
震える声に、伯爵は頷いた。
ただ頷いて、その腕に力を込めた。
「ここにいれば、いずれ私の仲間が始末しに来る。外のほうが安全なんだ」
「……私、は……外で生きていくための術を何一つ教えなかった……なにも、なにひとつ」
後悔に染まる声が小さくなる。それに伴って、鮮明だった光景も薄く掠れていった。
ああ夢だったのかと納得していると、闇が視界を埋めつくした。
何の色も含まない――しかし、すべての色を呑み込んだ闇が、眼前に広がる。
「寝てるの?」
不意に鼓膜が震えた。
「寝てるみたい。キレイな子」
ガサガサと何かをこするような音がすぐ近くで聞こえる。
「どこで拾ったの、この子?」
「知らない。人間じゃないよね?」
「淫魔でしょ。でも女だよ、変なのォ」
「女? 突然変異?」
「トツゼンヘンイ? なにそれ?」
「美人だけど、スタイル悪い」
「スタイル?」
「体。胸、小さいじゃない」
「……形はいいと思うけど」
「大きいほうが目がね、いっちゃうんだよね。男捉まえるなら、もっと大きくなきゃ」
「ふぅん」
そう言ったかと思うと、胸を鷲づかみにされた。
まどろんでいたダリアは、その刺激に驚いて飛び起きる。慌てて胸を掴む手を払いのけ、そして唖然と目を見開いた。
きょとんとダリアを見詰める全裸の女が四人いた。
ダリアの胸を掴んだ女は小さなごつごつとした羽をバタつかせ、不思議そうに小首を傾げた。
隣にいる女は異様なほど体毛が濃い。顔までびっしり毛に覆われている彼女も、やはり不思議そうな面持ちをしていた。
もう一人は長い尻尾をくねらせ、さらに一人は獣のような瞳を細めて動物を連想させる前足をぺろりと舐めた。
城には伯爵とメイド、そしてダリアしかいなかったが、これという違和感を覚えたことはない。城の外にはそれなりにおかしな姿をした悪魔がいたが、それはそういうものなのだと思っていた。
「誰だ?」
ごくりと喉を鳴らしながら問いかけると、女たちは顔を見合わせた。
「誰って――淫魔。あんたと同じじゃない」
指をさされて絶句した。
淫魔とは、この女たちを指すのかと混乱する。脂の乗り切った――と、表現すべきだろう肢体は、恐ろしく肉感的だった。目を疑うほど大きな胸は重そうだし邪魔そうだし、確かにダリアとくらべるとその差は歴然だった。
メイドは細身で、胸なんてじっくり見ないとわからないほど小振りだから、女とはそんなものかと思っていたが――淫魔は、どうやらそうではないらしい。
見事にくびれた腰も、たっぷりとした厚みのある尻も、たぶんそれなりに魅力的なのだろうが、ダリアにとってはただ驚愕するばかりの姿である。
「ど、どうして服を着ていないんだ!?」
「……どうして服なんて着るのよ? 着ないでしょ、普通」
「そうそう。だからあんたも」
そう女が言って、ダリアを指差した。ダリアは視線を体に落とし、無言で胸を隠した。肌にまとわりつく空気のせいか、はたまた混乱しすぎているのか、一糸まとわぬ己の姿にようやく気付いて言葉さえ出ない。
「なんで隠すのよォ。小さいけど、形がよくてカッコいい胸じゃない」
女たちのものにくらべれば誰もが貧相に映るに違いない。慰めにもならない慰めを受けながら、ダリアは顔をあげた。
「私の服は?」
「あるけど」
「返してくれ」
「着るの? 裸のほうが楽よ?」
「返してくれ」
もう一度繰り返すと、女の一人が服を差し出した。
それを受け取って溜め息をつくと、グチャグチャにたたまれた服のうえに鈴がのっていることに気付いた。
「ねぇその鈴」
女が身を乗り出す。重そうな胸が大きく揺れる。
「もしかして、呼び鈴?」
ダリアが鈴を手に女を見ると、別の女が口を開いた。
「あたし見たことある。それって、吸血鬼を呼ぶ鈴でしょ? どうやって手に入れたの?」
「吸血鬼――!?」
「あのインテリ野郎!?」
「呼び鈴鳴らすとどうなるの?」
「呼んだ相手の命令をね、聞くんだって」
「どんな命令も?」
「うん、そう」
女がそう答えた瞬間、鈴に向かって手が伸びてきた。
「貸して!」
鬼気迫る表情の女たちに驚いて、ダリアは慌てて鈴を背後に隠した。
「あいつらこの前、浄化作業だって言って地上に降りた淫魔を殺したのよ!? 呼び出して、ひざまずかせていびってやるんだから――!」
「奴隷にしようよ、奴隷。一生こき使うの。死なない程度にね?」
「同士討ちとか、快感〜」
ダリアは手の中の小さな鈴を握り締めた。
伯爵は、淫魔を好いてはいなかったと思う。むしろ嫌っていたはずだ。それはたぶん、理性でどうにかできるものではないのだろう。
静かな拒絶を見せた瞳は、苦痛を感じているかのように揺らめいていた。
それなのに忌み嫌う淫魔に鈴を渡した。
自分を縛るための、鎖となるものを。
用があったら鳴らせと、淡々と語って手渡した。
「ダメよ、その鈴。契約されてるから」
女が少し離れた位置でひどくつまらなさそうに吐き捨てた。
「中にホラ、字が刻んであるでしょ。その相手だけが鳴らせるの」
「ええ〜つまんない〜」
「あたし、字ぃわかんない」
「あたしも」
「ねぇ、呼び出してよ! 命令してよ! それ、あんたの鈴でしょ」
手を引っ込めた女たちは会話を弾ませながらダリアを見詰める。
ダリアは読み損ねた裏側の文字を探した。
鈴の裏側には、小さく文字が刻まれていた。
それはメイドが人間界で好きだった花の名前。
魔界ではその花を育てることができないのだと、何度も花の種を人間界から取り寄せては失敗していた伯爵は溜め息混じりにそうぼやいていた。
この鈴を持ち続ければ、窮地の際、伯爵を呼び出してしまうに違いない。
気高き一族が淫魔のために動けば、それだけで彼の立場を悪くする可能性がある。
期待するように向けられる視線のすべてが善意ではないことを感じ取り、ダリアは手の中にすっぽりと納まるほど小さな鈴に向かって口を開いた。
「――砕けろ」
両手に包み込んだ鈴に小さく命令すると、それは音もなく崩れた。
驚き口々に不満を漏らす女たちを無視して、ダリアは指の間から滑り落ちる銀の砂に視線を落とす。
もう戻れないのだと、初めてそう感じた。