第5話
「つまりだな」
伯爵がモップ片手に部屋に入ると、見慣れたメイド服の少女と、秀麗な女の後ろ姿が目に付いた。
拾った頃からずいぶんとはっきりした顔立ちだと思っていたが、成長した今はそんな言葉では片付けられないほどの女になった。
すくすくと育った女――ダリアは、どこでどう遺伝子を間違えたのか見事な美貌と凶悪な肢体を持っている。
「……おかしい。栄養が偏ったのか?」
伯爵はモップと一緒に傾いた。首を傾げたが、うまくいかなかったらしい。彼にはダリアの発想がどこかずれているように感じ、脳にまわり損ねた栄養の行方を考えていた。
「貴様と言うのはな」
メイドが窓際の壁に背をあずけ、椅子に腰掛けたダリアに言葉をかける。
「貴様とは、尊びながら相手を呼ぶときに使うから尊敬語だ」
メイドの言葉に伯爵は遠くから挙手した。
「なんだ?」
じろりと睨みつけられ言葉に窮したが、伯爵はすぐに口を開いた。
「貴様は尊大語だろう」
「……高貴の貴に、様までついていてどうして尊大語なんだ? この敬意がわからんのか?」
思い切り溜め息をついてメイドが肩をすくめた。
そのやり取りを見て、今度はダリアが挙手した。
「じゃ、お前は?」
「愛情を込めた親しげな呼び方だ」
「……そうか」
「そうとも」
なんだ、この会話は。
そう思って伯爵は青ざめる。
なんだかものすごくおかしな事を教えているような気がする。だが、人間界の常識と魔界の常識の違いを把握しきれていない伯爵は、喉元まで出かかった疑問をあえて呑み込んだ。
メイドはもともと人間だ。
今は人とも魔物ともつかない状態ではあるが、その昔は人間の女だった。
彼女に任せておけば間違いないだろうと思ったが――
だが、しかし。
「メイドはなにをしているんだ?」
「掃除だ。あとはお前と伯爵の世話」
「伯爵は何をしているんだ?」
「夜中に女を脅して歩いている」
「ふ〜ん」
ものすごく適当なことを教えている気がしてならない。
「ダリア、もし吸血鬼に会ったら用心しろよ」
不意にメイドは伯爵を見ながらダリアに囁いた。
「吸血鬼は好みの女を見つけると所かまわず襲うという特殊な性癖がある」
メイドはどうやら、どうでもいい知識ばかりをダリアに教えているらしい。
魔界の吸血鬼と人間界の吸血鬼では、すでに種族が違う。それをひとくくりで説明するのはあまりに乱暴だ。
だがいちいち説明するのも面倒に思え、伯爵は部屋の隅にモップを下ろした。
明らかに人間とは違う速さで成長した赤ん坊は、すでに見た目は立派な大人の女性だった。しかし、その中身と外見の落差が激しすぎる。
あれではまるで――まるで、魔界の最下層で屍とともにうろつく異形の女たちのようだ。
魔界の瘴気を物ともしない体、成長の仕方、そして拾った場所――
加えて、あの美貌と肢体。
「……まさか、な」
もしダリアがその種族であるなら、この光景は異様としかいえない。
彼女たちは生きていくための知識以外、何一つ持ち合わせないのだ。それはただ学がないという単純なものではなく、もっと別の起因があった。
伯爵は奇妙な設問を繰り返しているメイドとダリアの声を聞きながらモップを動かす。
その途中で、彼は手を止めた。
何か、ひどく歪んだ命が近づいてくる。
「メイド、離れろ」
短く命令して手首を返す。コンマ一秒で臨戦態勢に入る彼の手には、細長い筒状のものが握られていた。
それを大きく振ると、風を切る独特の音が生まれた。
床が鋭く一つ鳴く。
よく心得たもので、筒状のものから飛び出した細長い紐が床を叩く頃には、メイドはダリアを連れて部屋のすみに退避していた。
窓が開いたのはその直後。
そこから瘴気が流れ込むのが、伯爵の目にはっきりと見えていた。
窓を開けたのは、土気色の肌をした、全身に皮を貼り付けたような姿の痩せた男だった。その背には体を覆う皮膚と同じ色をした巨大な翼がある。
鳥を思わせるクチバシを持った男は、大きな目を細めて笑った。
「噂どおり、うまそうな淫魔がいるじゃねーか」
男の言葉は途中で途切れた。
伯爵の持つ鞭が、空気ごと男の首を薙いでいた。ごとりと重々しい音をたて、男の生首が床に転がった。
「な……何しやがる!?」
生首が横に傾いたまま伯爵を見て怒鳴っていた。
その光景を眺め、伯爵は素早く窓まで移動してそこに残っていた体を突き落とし、何食わぬ顔で窓を閉めた。
生首が伯爵の行動を唖然と見ていた。
「それで、なんの用だ?」
伯爵の持つ鞭が再び床を打つ。
男の首は大げさに驚いてみせた。
「用件は」
重ねて聞くと、男はニヤリと笑って、
「吸血鬼が淫魔を囲ってるって話を確認しに来ただけさ」
揶揄するように言ったのを聞き、伯爵は鞭を振り下ろした。
小さな断末魔だけが部屋に広がった。
「――淫魔か」
品性の欠片もなく、己の欲のみで行動し続ける悪魔。男を狂わせ、女を狂わせ、そして引き返せなくなるほど堕落させる
本来なら吸血鬼がもっとも忌み嫌い、けっして自ら接点など持つことのない美学の欠片すらない相手だった。
外見の美しさよりも、心の腐敗だけが目に付く者。
ぱっくりと二つに割れた頭部を感慨も無く見詰め、伯爵はその視線を移動させる。
その先にいたのは、淫魔の特徴をとてもよく引き継いでいるにもかかわらず、まるで人間のような雰囲気を持つ女だった。
淫魔と知っていたなら拾ってはこなかっただろう。
その命は、とうの昔に失われたに違いない。
「……ダリア」
静かに呼びかけると、彼女はふと微笑んだ。
「ここを出る」
城の中で大切に育てられた女は、迷いなく城の主にそう告げた。
その選択がどれほど無謀であるかも知らずに。
――どれほど幸運であったのかも知らずに。