第4話
わずかな血臭が室内に漂う。
少女は男に身を任せながら、鼻腔をつく己の血の臭いに痛みと快楽は紙一重なのだとかすむ意識で考えた。
過去にあれほど嫌悪した行為を、今は自ら受け入れていることの怪。
殺してやると誓ったはずの男を抱きしめ小さく笑った。今はもう殺せない。これほど近くにいるにもかかわらず、もう逆らうことすらままならない。
この男が少女を捨てれば、城から出ることすらできない彼女は長く苦しみぬいて朽ち果てていく。
その体は男によって、餌としての機能を与えられていた。
やすやすと死ぬことすらできないのだ。
長く生き、血を増産する機能を与えられただけの不便な体。
男がいなければ生きていく事すらできない。男に血を与え従うのは生きていくためには必要な選択――けれどそれを甘受しようと思った本当の
「……ッ」
細く白い喉を赤い舌がぞろりと舐めあげるその強烈な刺激に、小さく彼女が声をあげた。
思わず息をのむと、
「やはり処女の血はいいな」
耳元で男の声が無粋なことをつぶやいた。
混迷した意識が瞬時に覚醒する。誰のせいで純潔を守っているのだと考えた後は、条件反射で男に肘鉄をプレゼントしていた。
男は奇妙な声をあげて彼女の胸に顔を埋めた。
「どけ」
いつものように命令すると、男は小さく呻き声をあげた。この城で伯爵と呼ばれ、人の血を吸い生き続ける悪魔。彼は戦いのときだけ冷酷だが、普段はネジが二、三本はずれているのではいかと思うヌケ作ぶりを披露する。
古城に来てからずっとメイドと呼ばれている少女は、まったく動く気配のない伯爵を押しのけようとその肩に手をかけ、そのままの姿で止まった。
その視線が窓の外に釘付けになる。
伯爵の頭部に辛うじてまわされた手が、その黒髪を掴んだ。
「いつまで食事をする気だ!?」
苛立ちをにじませて怒鳴りながらも、彼女の目は窓の外を見詰めていた。
彼女の視線は城の外でのた打ち回る木に向けられている。
いや、正確には木ではない。
まるで生きているかのように暴れる木々の間をチョロチョロ歩き回る少女に向けられているのだ。
「伯爵!!」
再び喉もとに唇を寄せる男を乱暴に呼んで、メイドは彼の黒髪を思い切り引っぱった。
「ダリアが外にいるぞ! 捕まえてこい!!」
怒鳴りつけると伯爵は慌てて顔をあげた。言われるままに窓の外を見詰め、メイドと同じように外を歩き回る少女を発見して目を見開く。
「え、餌が……!!」
おい、そんな呼びかけで子供を迎えに行くな。
そうメイドは心の中で嘆息する。
確かに初めはそのつもりで連れてきたかもしれないが、彼にだって一応愛着のようなものが感じられているのだ。
何度も彼が最下層に出向き、母親を探していたことを知っている。
人間界にも頻繁に降り、色々調べている事もちゃんとわかっている。
それにもかかわらず伯爵はいまだにダリアのことを餌扱いしていた。
「わからん種族だ……」
大慌てで外に駆け出す男の背を見送って、メイドは大きな溜め息をつく。ねっとりと肌に張り付く血をぬぐい、牙で傷つけられた首を治療して服を直すと、ようやく伯爵が帰ってきた。
彼が部屋を飛び出して帰ってくるまでわずか15分。
魔界でもそれなりに強い≠ヘずの吸血鬼の一族である男の服は所々裂け、泥まみれになっていた。
彼は肩で息をしながら抱いている少女を見た。
少女はケガどころか泥一つついていない。
「……人間の子じゃないだろ」
改めてメイドが言うと、伯爵は引きつるような笑顔を返してきた。
吸血鬼が餌を選んで贄とするのは多くが人間である。その場合性別は関係なく、美醜もあまり気にしないらしい。
選ぶのはいかに口に合うかという一点。
そして、異性であれば伴侶とし、同性であれば下僕とする。
その枠組みから外れた関係がないわけではないのだが、一般的にはそれが普通であり、多少型にはまらないときには見て見ぬふりをしていた。
しかし、吸血行為をする相手が人間でないというのは例がない。
「どうするんだ?」
ダリアの見た目は間違いなく人間の子だ。乳幼児の頃のミルクの量は異様だったが、成長するにつれそれはなくなっていった。
だが、人の体にとって毒でしかない瘴気の中を平然と歩き回るのは到底不可能だ。
人と悪魔の中間を生きるメイドですら、外に長く出れば命に関わる。
ダリアが人間なら瘴気の垂れ込める城の外に出られるわけがない。
外に出て、無事に帰ってこられるはずがない。
「どうするんだ? 餌にはならんぞ」
重ねて聞くと、伯爵は深く深く溜め息をつく。
伯爵がダリアを下ろすと、彼女は歓声をあげながらくるりと体の向きをかえて廊下に飛び出した。
瘴気の毒はあの小さな体には無効らしい。
「餌になると思ったんだがな」
ダリアの姿を目で追って、伯爵は溜め息混じりに肩を落とす。
「あきらめろ。……他のを探せ」
伯爵から視線を逸らしてメイドはそう告げる。
贄の意味を知るからこそ感情を殺したメイドのその言葉に、伯爵は否と小さく否定した。
「お前以外に口に合いそうなのがいない。一人だと大変とは思ったんだが」
あきらめたように伯爵が笑っている。その顔を眺めながら、メイドは傷の残る首にそっと手をあてた。
「別に、大変だとは言ってない」
淡々と伝えて視線を窓に移動させると、伯爵の苦笑が深くなった。
「そうだな。当分はお前だけをそばに置こう」
複数の決まった贄をそばに置くことが多い吸血鬼にしては珍しいその言葉に、メイドは気のないような返事をした。
恋ではなく愛でもなく――
けれど情念が痛いほど肌を焼く。これはきっと執着と呼ぶにふさわしい類のもの。
「……一人だと、掃除が面倒なだけだ」
その執着すら悟られまいと押し殺し、メイドは不機嫌そうに窓に顔を向けたままつぶやいた。
「掃除は覚えた!」
「それなら手伝え」
弾む伯爵の声に、メイドが小さく笑いを含む声で命令する。どちらが主なのかも定かでないこの関係は、二人にとって最良の形ともいえた。
「少しは私も楽に――……」
言いかけたメイドが窓に貼り付いた。大きく目を見開いてパクパク口を開き、そしてようやく声を出す。
「伯爵!!」
「ん?」
不思議そうに歩み寄る伯爵を振り返り、メイドは声を張り上げた。
「またダリアが外にいるぞ――!?」
「なんだと!?」
広い庭には危険が多い。
のた打ち回る木も危険だが、古城の周りを飛び交う狂鳥も柔らかい肉を求めている。さらに最近では魔獣もよく見かける。
そんな中、ドアの開け方を覚えたダリアは、率先して城の外に飛び出すのが日課――いやむしろ、分課≠ノなっていた。