第3話


 哺乳ビンを傾けながらメイドはだだっ広い部屋を眺める。
「……汚い」
 伯爵が赤ん坊を拾ってきてからというもの、日課の掃除がどうにも疎かになりがちだった。
 子供は育てられないと無責任なことを言う伯爵を怒鳴りつけ、メイドが子育てをするかわりに伯爵に古城の掃除を任せている。
 ――が、しかし、どうにも手際が悪い。
 一部屋掃除するのに二時間もかけていたら、いつになったらすべての部屋の掃除が終わるのかわかったものではない。
「やる気がないのか?」
 きっちりアイロンをかけられた白いシャツにオニキスのカフスをつけ、手触りのよい上品な黒いスーツを身にまとった男は、三角巾にマスク、さらに白い調理用のスモックを着て鼻歌まじりではたきを振っていた。
「これはなかなか楽しいな」
「……そんな調子でやっていたら、城がゴミ溜めになる」
 ん、と伯爵は首をひねる。
 気のない返事にカチンときて、メイドは手近にあった置き物を掴んでその後頭部に投げつけた。
 中身が入っているのかどうかもわからない軽い音が室内に響くと、一瞬大きく左右に揺れて、伯爵がぱたりと床に倒れた。
 当たり所が悪かったらしい。
「しまった。掃除が遅れる」
 非情な一言を吐いて、メイドはピクピク痙攣する男を遠くから眺め、すぐにその視線を窓の外に移動させた。
「ダリア、今日はいちだんといい天気だな」
 床に倒れている城の主人のことを記憶から切り離して、メイドは清々しく微笑んだ。
 彼女はとどろく雷鳴に耳を傾け笑顔を引っ込めた。
 バリバリと放電し続ける雷雲は世界を覆い、空を侵食して際限なく広がっていく。
 先が見えたと噂される最上層での動乱がこんな場所にまで影響しているのだろう。この悪天候も、魔界の王が座につけば少しは治まるかもしれない。
 哺乳ビンを傾けながら、メイドは空を見上げた。
「魔界の王は、そんなにいいものなのかな」
 小さな手を哺乳ビンにそえて、赤ん坊は鮮やかな紫の瞳をメイドに向けた。
 ふとメイドは腕の中の赤ん坊を見下ろして、幼いにもかかわらずひどくはっきりとした目鼻立ちに感心した。
 いい餌かどうかは別として、これは美人に育ちそうだ。
 哺乳ビン二本分をカラにして、赤ん坊はようやく満足したらしい。
「……育児書でも読み直すか」
 タオルを肩にかけて赤子を抱きなおし、その背中を軽く叩きながらメイドは溜め息とともにそう呟いた。
 本を読みながら子育てをしているのだが、記載されている内容と違うことが多すぎる。授乳の量もだが、睡眠時間や成長スピード、それ以外の様々な事もかけ離れていた。
「……悪魔の子供か?」
 赤ん坊を抱きなおして見下ろすと、すでにすやすやと眠りについていた。恐ろしいことに、この赤ん坊は城に来てからというもの一度として泣き声をあげたことがなかった。
 紙おむつの取り替えだって、なにか様子がおかしいと気付いてこまめにチェックするほどで、泣いてぐずったりしないのだ。
 ありがたいと言えばありがたいのだが、同時に不気味でもある。
 魔界の瘴気の中を平然としていたのなら、人でない可能性は十分にあるが――しかし。
「どう見ても人間の子供だな」
 これといった外見的な特徴もないために、メイドの困惑は深まっていく。
「メイド!!」
 うなり声をあげていると、床の上でのびていた伯爵が勢いよく起き上がった。
「投げるなら柔らかいものにしろ!」
 まず注意する点が間違っているのだが、メイドは多くを語らず溜め息で返した。彼女は頭をさする男に視線を向けて口を開いた。
「それより早く掃除を終わらせて粉ミルクを買ってきてくれ。紙おむつもな」
「私が行くのか!?」
「当たり前だろう。人間の私が動き回れるのは城の中だけで、必然的に買い物はお前の仕事だ」
 ビシッと断言すると、伯爵は瞬きをしただけで反論する言葉を失っていた。
 人間界に降りる時には最新のファッション雑誌に目を通していくような男が、スーパーで紙おむつと粉ミルクを購入するのだ。
「楽しそうだな」
 ニヤリと笑うと、伯爵は嫌そうな顔ではたきを拾い上げた。
「私も空腹なんだが」
 恨めしそうな目で言う吸血鬼に、メイドは涼やかな笑顔を向ける。
 にえとして選ばれた体の中に流れる血は、定期的に抜かないと濃くなっていく。濃くなった血は血管を巡り、淫靡な火となって体の奥を焼く。
 吸血鬼が吸血をするのは生きるための食事である。たとえ拒否されようとも、食べなければ生きていけない。
 ゆえに彼らは贄を選んで餌とする。
 しかし、それを甘受する側はけっして脅され強要されたという理由ばかりではなかった。
 贄とは、餌であり奴隷であり――妻≠ナある者。
 異界の者を受け入れ、その伴侶となることを選びとった者。
「買い物が終わったらな」
 しかし世の中には、型どおりにはまらない者がいる。
 過去に敵同士だった二人は奇妙な関係を続けつつともに暮らしていた。
 小さな一つの命をかいし、家族という形となって。

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