第2話


 魔界はいくつかの層から成る構造で、上へ行けば行くほど天候が安定している。
 だが、見た目の穏やかさとは裏腹に魔界の瘴気は上層に行くほど濃くなるのだ。
 魔界の象徴とも言える魔城は最上層に位置し、魔界で長く続いた血で血を洗う戦乱は、それゆえ主に上層部に集中していた。
 上層を目指すのはそれなりの魔力を持ち、魔界の王として名をあげようという野心家に搾られていた。
 しかし、それなり≠フ魔力を持ちながらもこの戦乱にまったく興味を持たない種族というものがある。
 己の美学のみを追及し、争いごとを好まない高潔にしてナルシストな一族。
「…………」
「…………」
 その日はいつになく見事な雷鳴がとどろいていた。
 男は、大きな黒塗りのドアを無愛想に開けたメイドを引きつるような笑顔で見詰めた。
 場所は魔界中層部。意志があるかのごとくのた打ち回る木々に囲まれた切り立った崖の上に、呆れるほど立派な城があった。
 おどろおどろしく灰色に塗りたくられ、風景の中に溶けて消えてしまいそうなその城の主は、不慣れな様子で腕の中の物を抱きなおして目の前のメイドに再び笑顔を向けた。
「……もう一度言え」
 モップを片手にしたうら若き娘の声が雷鳴以上に鋭く響き渡る。
「拾ったんだが飼っちゃダメか?」
 男の腕の中には、すやすやと眠る赤ん坊がいた。
 メイドはそれをちらりと見て、すぐさま侮蔑の表情で男を睨みつけた。
「ウチにそんなゆとりはない。お前の食事の用意で手一杯なのに、そんなものが飼えるか。元いた場所に返してこい」
 抑揚なくそう言うメイドに、男は目を見開き牙を向けた。
「そ、それが人間の言うことか!? この人でなし!!」
「うるさい、吸血鬼。犬猫じゃあるまいし簡単に拾ってくるな」
 モップで床をひとつ叩くと、男は大げさなほど身をすくめた。
「ずっと帰ってこないと思ったら、まさか人間界に行って油を売っていたとは……挙句に幼児誘拐……」
「待て! 違う!! これは魔界の最下層で拾ったんだ!!」
「……冗談ならもっと上手くつけ、伯爵」
 いくら魔界の最下層とはいえ、人間の子供が生きていけるはずがない。ひとつ息を吸えば肺がただれ、わずか数分のうちに息絶えるのだ。
 それを知っているからこそ、明らかに罪を犯してきたのだと判断できる男に対し、メイドの態度は必要以上に硬質になった。
「どう見ても人間だろう。人間の子供が魔界に来られるはずがない」
「そ、そうなんだが――でもいたんだ、ホラ! 喰われるのはもったいないから、育てちゃダメか!?」
 必死で問いかけると、すうっとメイドが瞳を細めた。
「……どこの女に生ませた子供だ?」
 素早くモップをかまえる。たった今床を拭き終わったばかりのそれは、薄汚れていて嫌な臭いを放ち、いかにも不潔そうだった。
 伯爵と呼ばれた男は、とっさに赤ん坊を守るようにわずかに体を背ける。
「誤解だ!」
「まったくこれだから男というヤツは……」
「誤解だと言ってる!!」
 見苦しいほど慌てふためく伯爵に、メイドはしらけたような溜め息をつく。
 無言でモップを突き出すと、伯爵は一瞬後退しかけ、しかし口をへの字にしてその場で踏んばった。
 高潔な上にナルシストがつき、着飾るのが大好きな変態伯爵がモップを目の前に耐えている。
 メイドは眉根を寄せてモップを引いた。
「……飼ってもいいぞ」
「本当か!?」
「……仕方ない」
 盛大な溜め息をついて、彼女は踵を返した。
「名前! 名前決めたんだ!!」
 初めから彼女が許すと思って拾ってきたことがわかる一言に一瞬動きが止まった。しかしあえて何も返すことなく、彼女はフロアを横切った。
「ダリアって言うのはどうだ? 可愛いと思わないか!?」
「……好きにしろ」
 モップをバケツに突っ込んで、ガシガシ洗いながらメイドは面倒臭そうにそう返す。丁寧にしぼって再び床を磨き始めると、伯爵が近付いてきた。
 そして、ぴたりと止まる。
「掃除の邪魔だ。……なにか用でも?」
 手をとめて顔をあげると、伯爵は満面の笑みで口を開いた。
「お前、子供の育て方わかるか?」
「……拾ったら拾った者が育てるのが普通だろう」
「いやそうなんだが、人間の子供は初めてなんだ。美人に育ったらいい餌になりそうじゃないか」
「……餌か」
「おいしそうだなぁ」
 伯爵がデレデレと赤ん坊を見詰めている。さすが吸血鬼と、メイドは呆れながらつぶやいてモップを再び動かしはじめた。
 異様に広い城には、伯爵とメイドの二人しか住んでいない。
 伯爵は城の主でなにより汚れることが大嫌いな男だから、この広い城の掃除はメイド一人の仕事になる。
 毎日掃除を続けていても全然綺麗になった気がしないのは、きっと魔界の空気自体が汚れているからなのだろう。
 人間界を懐かしく思いながら、メイドは日課となっているモップ掛けに精を出した。
 しかし、視界に黒いものがちらついてどうにも集中できない。
 いつもなら掃除が始まるとどこかに消えてしまう伯爵だが、今日に限ってはしつこく掃除の真っ最中であるフロアに留まっていた。
 メイドはじろりと伯爵を睨んだ。
「邪魔だからどこかへ行け」
 いつも以上に不機嫌かつ刺々しい口調で命令すると、伯爵は頷いて数歩歩き、そして立ち止まって振り返った。
「お前、母乳は出るか?」
 メイドの持っていたモップは、高速で伯爵の顎にめり込んだ。

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