大怪盗クリス。
 それは世界を震撼させた名。
 あらゆる美術品をことごとく盗んでいった怪盗。彼は20代前半ですでに「大怪盗」と呼ばれ、その腕前は比類なきものと褒め称えられた。
 もっとも、彼がそこまで脚光を浴びたのは、その容姿のせいでもあるのだろう。
 噂しか聞いたことはない。
 もう何百年も昔に世を騒がせた男だ。
 彼はなかなか、男前だった――らしい。
 彼をモチーフにした絵を何枚も見たことがある。砂を吐きそうな気分だった。おそらく、いや、絶対に描いたのは女だと、ササラは心の中で毒づいていた。
 大怪盗クリスはあまりに現実離れした、かなりの美丈夫に描かれていたのだ。これは男装の麗人かと本気であきれたこともしばしばだ。
 どれもが一様に美青年で、かなり華奢に描いてあった。
 ほとんど横並びの絵画たち。そのなかで、わずかに一枚だけ、ササラの目をひいた絵があった。
 それは20センチ四方の、本当に小さな油絵。絵の中の男は、月光を背に、漆黒の闇に溶け込むかのようにたたずんでいた。
 口元に刻む、不敵な笑み。
 挑むような眼差し。
 絵の中にあってなお、その男の息遣いが聞こえてきそうな、そんな絵だった。
 これが、クリスだ。
 ササラはそう思った。
 どこかシニカルとさえ映る笑みをたたえ、きつく前方を睨みすえる、これが本当の彼自身だ。
 美丈夫といわれると、そんな気もする。
 細身ではあるが、鍛えぬかれた体。どこか少年の面差しをとどめるそのマスクは、不思議とササラの脳裏に刻まれていた。
 大怪盗と呼ばれ、その名を世界に刻んだ男。
 人の記憶とともに永劫を生きる男。
「クリストル……」
「ああ。幼名は――確か、オルフィス」
「クリストル・オルフィス」
 呆然とつぶやくササラに、ミヤツ刑事がうなずく。
かたの爺さんから聞いたことがある」
 世界には色々な職業がある。語り部も職業のひとつで、語り部たちはさまざまな土地のさまざまな伝承や昔話を聞いては、人々に広めていった。中にはもちろん流説も多い。
 語り部は真実を語る者もいれば、嘘ばかりを語る者もいる。
 ミヤツ刑事の知る語り部は、真実だけをつむぐ男だった。
「でも、待ってください。そんな名は一度――」
「ああ、聞いたこともなければ見たこともなかろうよ。ヤツぁな、転職したって話だ。人生の敗者さ。本来ならここまで有名になること自体、ありえなかった」
 子供たちは五歳でスクールに入る。生涯の職を決めるために。10年間、彼らは自らに合う職を――天職を探すためだけにスクールに通うのだ。そして一度ついた職は、決して変わることはない。
 10年かけて己を見極めるのが、子供たちの一番初めの試練なのだ。職を持てば一人前と認められるように、それを変えることはすなわち、己を見極められなかったことの証明となる。
 転職をするものはいない。
 それは生涯の恥となり、汚点とされるから。
 どんな理由があろうとも、自分自身を見極められなかった人間など誰もが決して認めてはくれないとわかっているから。
「大怪盗が、転職?」
「ああ。呆れるだろう。どのツラ下げて人様の前に出たんだか気が知れねぇ」
 吐き捨てるように言うと、ミヤツ刑事の顔はさらに険しくなった。
「昔は花屋だったって話さ。ある日いきなり、怪盗を名乗った。狙うもの狙うもの、ことごとくさらっていって、すっかり有名人さ。いい気なもんだ。当時はすさまじかったらしいぜ? ヤツの噂で世界中が熱狂した――転職の事実が広まるまではな」
 その後のあつかいを思うと、ササラは気分が暗くなった。おそらくは――
 そう、おそらくは。
「知ったとたん、世界中が敵にまわった。なぁ、当然だよな? 転職した男が、人生の敗者がでかい顔して怪盗を名乗ってやがったんだ。ヤツぁな――ヤツは……」
「世界中から罵倒を浴びせられて、そして捕まったんだ」
 だから、彼にまつわる資料が異様に少なかったのだ。
 彼が盗んでいった美術品は、1000点をはるかに越えたという。その彼に関する資料が、このリュードレイの保管庫でさえあまりに少なかった。
 それは意図的に隠蔽いんぺいされた証拠。
 汚点であるその事実を世界が抹消しようとしたのだ。
 そして人々は彼の汚点を隠し、美談だけを語り継いできた。あたかもそれのみが真実であるかのように。
 盗めぬものなど何一つないと言われた、世紀の大怪盗――。
 その真実がこれか。
 崇拝され、褒め称えられたその先に待っていた未来が、裏切られたと罵倒する人々の怒りか。
 そのとき、彼はいったい何を思ったのだろう。
「大怪盗クリスは、槌鉄を受けた」
「ええ……知ってます」
「――100本」
「え?」
「やつの体に100本、楔が打ち込まれたのさ」
「――!!」
「報いだ。世界を騙し続けたその報い」
「無茶苦茶です! あれは人の命を削る呪物だ!!」
「そうさ。一本打ち込むごとに、5年――ヤツの体は500年分の時間を槌鉄で奪われた」
 その苦痛は、想像を絶する。
「そんなのは酷い……それはあんまりだ……」
 ササラはうめいた。
 槌鉄は、極刑。
 極刑だが、それそのものでは死ぬことはない。
「……そうか、お前――」
 真っ青になったササラに、ミヤツ刑事が言葉を飲み込んでいた。
 ササラは、14歳でスクールを卒業した。彼は昔から憧れだった探偵となり、ササラ≠ニ名乗って、大人の仲間入りをした。
 その頃、リュードレイには通り魔が出没していた。
 暗殺屋も殺し屋も、職業であるには違いない。
 通り魔は連続殺人鬼であり、殺し屋でもあった。名を知らしめるための歪んだ使命感に駆られて、通り魔はただ無差別に人を殺しつづけた。
 現行犯逮捕が鉄則。
 歯がゆいばかりの常識だった。警察は、目の前に殺人鬼がいるにもかかわらず、手を出すことができなかった。警察は男を24時間体制で監視することを決めた。
 だが、通り魔はそんな警察をあざ笑うかのように、忽然と姿を消しては、犯行を重ねていった。
 そして、12件目。
 男は、14歳の探偵に捕まった。
 あまりにも意外な、あまりにもあっけない幕切れだった。
 男は、せせら笑った。
「これでオレの名は、歴史に残ったか?」
 そうササラに問いかけて。
 男の名は知らない。
 ササラにとってはどうでもいいことだった。ササラは、その男が重ねてきた罪を憎んでいた。
 極刑である槌鉄が執行されると知ったとき、当然だと思った。それほどの罪を重ねてきたのだ。しかるべき処分であると、そう思った。
「なぁ、ここにいろよ? お前が俺を捕まえたんだ。最後まで見届けろよ」
 男は余裕の表情を崩すことはなかった。9本の楔が打ち込まれると知っても、その余裕の表情は消えなかった。
 楔は1本で5年の歳月をいともあっさりその肉体から奪う。
 激痛とともに。
 男は3本目の楔で泣き叫び、助けてくれと懇願した。
 5本目で悲鳴は消え。
 7本目で、殺してくれと泣いた。
 恥も外聞もなく、ただ泣きじゃくって殺してくれと言い続けた。
 12人を笑いながら殺した男だった。冷酷で非情な殺人鬼だった。
 捕まえられたときだって、笑いながらササラに己の罪を自慢してくるような、そんなどうしようもない男だった。
 その男が、子供のように泣いていた。
 槌鉄は激痛を伴う極刑。だが、度を越した痛みを、人の体が長く受け入れることはできない。
 手の平に打たれた直径一センチ、長さ十センチの楔は瞬時に皮膚と同化してどす黒く変色し、すぐに元の色に戻る。手の平、足の甲、腕、足と打ち込まれるのが通常の執行法。
 打ち込まれるたびに激痛は鈍痛になり、やがて痛みを感じなくなる。
 ――本当の恐怖は、それから始まる。
 痛みを感じられるうちはいい。自分の体に起こっている変化に気付かずにいられるから。
 だが、痛みを感じなくなった瞬間、罪人たちは始めて己の体に起こっている変化を知る。
 通常は、6本目。30年のときを奪われてから、彼らは苦痛の世界から絶望の世界を垣間見る。
 通り魔は、35歳の男。彼は、自分の体がどんどん干からびていく様を呆然と見詰め、初めて殺してくれと言った。
 用意されたのは9本の楔。45年分の歳月。
 5本以上を打ち込まれた人間は、一ヶ月以内に皆死んでいた。槌鉄で急激に奪われた年月は、人に生きるための力さえ残してはくれなかった。
 男は殺してくれと泣きながら、一週間後に息を引き取った。白いベッドの上で、指一本動かせずに、彼はただ己の脳がゆっくりと死んでいくのを感じながら、うわごとのように同じ言葉だけを繰り返した。
 槌鉄の由来は詳しくはわからない。鉄のつちで呪物である楔≠打ち付ける極刑。いつしかそれが槌鉄と呼ばれるようになった。
 槌鉄で死ぬ者はいない。
 それは血の一滴も流さずに、人の体から時間だけを奪うように念をこめた呪物だから。
 刑の執行後、罪人たちはただ生かされる。
 彼らは残酷なほど安らかに、己の脳が死に絶えるその瞬間を待たなければならない。
 それが極刑と呼ばれる所以ゆえん
「100本の、楔」
 過去にそれが、たった一人の男の体に総て打ち込まれたのだ。
「大怪盗クリスはな、唯一槌鉄で死んだ男だよ」
「え……?」
「語り部の話だと死んだらしい。最後の一本で心臓を貫かれて、真紅の血があふれ出したっていう話さ」
「槌鉄は呪物です。どこに打ち込まれようと、血は出ないはずだ」
「ああ。――ああ、その通りさ。記録にもねぇ。だから、昔話さ」
 槌鉄で死んだ男。
 真紅の血を流して、死んでいった怪盗。
 ふと、ササラの脳裏に昨日の光景がうかんだ。
 闇の中に、まるで唯一の光であるかのように現れる少女怪盗の姿が。
 純白の天使。
 彼女は大丈夫≠ニささやいた。
 誰に――?
 クリストルとは、何を指す名だったのか。
「誰にそう言ったんだ? ピュア」
 知らずにクリスを幼名で呼びかける。
 あの時、少女の胸元には真紅の石が燃えるように輝いていた。
 血のような赤。彼女はいつから、あの石を持っていた?
 ササラは愕然と立ち尽くす。スクールでは仲がよかった。彼女のことは何でも知っていると思った。
 だが、そうじゃない。
 実際には、何も知らないのかもしれない。
 不安で、血が凍りつきそうだった。
「ピュア、お前、いったい何に巻き込まれてるんだ……?」
 ササラは、見慣れた少女の笑顔さえ思い出せなかった。

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