最近、溜め息の数がどんどん増えている。あまりいい傾向ではない。
 そう思いながら、ササラはやはり溜め息をついている。
 街中を歩けば、皆こぞってクリスの活躍を褒めた。彼女が怪盗としてデビューして以来、その噂は途切れたことがない。
 スクールを卒業してもうすぐ一年になる。その間、彼女はただの一度も捕まったことはなかった。その土付かずの連勝記録と、あの可憐な容姿に皆が注目するのは道理だろう。
 真っ白い時計塔に住む、真っ白な怪盗。
 闇の中に浮かぶその姿は純白の天使のようだった。
 そして、それを追うのが漆黒の少年。
「ロクなもんじゃないな」
 まるで光と闇のおっかけっこだと揶揄される。闇は永遠に光には触れられないのだと、そんなことまで言われる始末だ。
「本当、ろくでもない」
 好きでとり逃がしているわけじゃない。
 それどころか、一刻も早く捕らえたいのに。
 ただただ歯がゆいばかりだ。
「次こそは……」
 そう言って、ふと足を止める。クリスと別れてから物思いにふけっていて、自分がどこを歩いているのかさえ忘れていた。
 彼はあたりを見渡して、そこがひどく見なれた建物の中であることに気付く。
 ササラは今、警察署の中にいた。
 そこかしこで忙しく働く警官たちは、皆同じ紺のつなぎを着ている。勤勉な警官たちは昼夜を問わず働きづめで、いつ休んでいるのだろうと首をひねりたくなるほどだ。
「あらササラ、こんにちは」
 廊下を掃いていた中年の女性が、にこやかに挨拶をする。
 この人も、いったいいつ休んでいるのだろう。警察署に来れば必ずどこかを掃除して、いつ来ても署内はチリひとつないほど磨き上げられている。
「こんにちは、サルシャさん。いつ来てもここは綺麗だね」
 お世辞でもない素直な感想を言うと、サルシャが微笑する。
「きれいだと気持ちがいいでしょう?」
 軽く腰をたたきながら、長い廊下に目をやった。
「次はトイレ掃除よ。ああ、忙しい」
 小さく名を残す人がいる。
 本当に小さく。ただ確実に。
 彼女もたぶんそんなタイプの人間だ。きっと彼女が他界しても、サルシャが掃除をしていた署内が一番きれいだったと、みんな口をそろえて言うことだろう。
 それが彼女の誇り。
 彼女の生きた証。
 本当に小さいけれど、それで彼女は満足なのだ。
「――がんばってね」
「ええ、ありがとう」
 にっこり微笑んで、彼女はほうきと塵取りを手に歩き出した。
 ササラは二階に上がった。廊下を挟んだ向かい側が資料保管庫になっている。閲覧は自由。驚くほど整頓された広い室内には、膨大な数の資料が眠っている。ササラはその中をゆったりと歩きながら、目的の棚で足を止めた。
 ふと入り口を見ると、自分が知らずにかなり歩いてきたことがわかる。以前ここを管理していた老夫婦は、ビンセントとエリザと言った。ともにその労をねぎらい、長く署内でその名を語りつがれることだろう。
 そこは、それほど膨大な書類の眠る場所。
 過去の犯歴の総てを記録するといわれる部屋。ある意味、リュードレイが世界に誇ってもいい場所だ。
 ササラは書類の入った箱をひとつずつ引き出しては丹念に目を通していく。人のごうは、いつの時代にも変わらず存在する。勤勉で誠実で、後世にその名を残すことが誉れとするこの世界でも、業はやはり消えることもなく現在、未来へとつながっていく。
 これがその証でもあるようだと、ササラは思う。
 消えることのないアザ
「なんだ、ササラか」
 前触れもなく、ひょこりと男が現れた。微妙にくすんだような白いワイシャツによれよれの赤いネクタイを引っ掛けた、どこか冴えない男――ミヤツ刑事である。
 夜の彼はそれはもう生気に満ちているが、昼間の彼は本当に昼行灯ひるあんどんのような顔で署内をうろついている。
 短い髪をバリバリかいて、胃が見えるんじゃないかというほどの大あくびをかます。
「探しもんかぁ?」
「え、ええ、ちょっと」
 資料保管庫が広すぎるため、先客がいたことに気付かなかったらしい。
 ミヤツ刑事はごしごし目をこすりながら近づいてきた。
「家には戻ってないんですか?」
「ああ。まぁな」
 ササラがその質問をしたのは、ミヤツ刑事のあまりの覇気のなさゆえである。ミヤツ刑事の場合、服装はあまり論点にはならない。彼の趣味なのか、彼はいつも同じような服を身につけているからだ。
「休んだほうがいいですよ」
「休んでるよ。さっき仮眠をとったんだ」
 ボキボキと首の骨を鳴らしながら、男はそう返してきた。
「昔は一週間に一日か二日は休みがあったんですよ」
「一週間?」
「七日間をそう区切って呼んでたんです。そのうちに休みがあって」
「馬鹿言うな。警察屋が休んでどうする。その間に事件が起こったら、それはどうするんだよ」
「交代制で、出勤している人間が――」
「休んでるとき≠ノ事件に出くわしたら? 警察屋は警察屋だ。24時間、オレが警察屋だってコトにゃかわりねぇ。休みだから関係ねぇなんざ、そんな馬鹿な話があるか」
 ふんぞり返ってミヤツ刑事が言った。
 ――この世界には、定休日の概念もない。
 人々はただ働きつづける。それが彼らの誇りだから。
 おかしな世界。おかしな常識。
 ササラだけがそのことを理解して、理解しているがゆえに逆に妙な子供だと言われ続けている。
 怪盗はどこに行っても怪盗だし、警察官はどこに行っても警察官で。
 それがかたくななまでに定着する世界。
「なぁササラ。昔のことを調べるのは、悪いことじゃない。だが、ちっとばかし囚われすぎてやしないか?」
 決しておかしなことを言っているつもりはないが、逆に諭される。ササラの常識は、世間一般でいうところの非常識でもあった。
「そう……ですね」
 クリスと話したときも、妙な顔をされた。ミヤツ刑事も然り。
 結局ササラの中の常識は、この世界とは相容れない次元のものなのだ。
 どこかしょんぼりとして書類に目を落とす少年に、ミヤツ刑事が微苦笑する。少年の知識は驚くほど豊富だ。勤勉ゆえに問題も抱えているが、ミヤツ刑事にとっては決して不愉快な種類ものではない。
「で、なに調べてんだ?」
 話の矛先を変えるように、ミヤツ刑事はのんびり聞いた。
「いえ……たいした物じゃないです」
 わずかに言葉を濁して、ササラは口ごもる。
「言ってみな?」
 棚にひじを乗っけながら、ミヤツ刑事が角ばった顔をほころばせた。
「――クリストル、って名の……」
 ササラの言葉を耳にした瞬間、ミヤツ刑事の太い眉がわずかにつり上がった。笑みが消えている。
「お前、何でその名前知ってる?」
「え?」
「犯罪記録には載ってねぇはずだ。その名前――」
 どこか険しい顔で、ミヤツ刑事は続けた。
「それは、大怪盗クリス≠フ本名だ」

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