なんとなく気まずくなりながらも、クリスはササラの隣にいた。
 とりあえず家に帰ろうと思って立ち上がったら、タイミングがいいのか悪いのか、ほとんど同時にササラも立ち上がって、結局肩を並べるハメになる。
 赤茶けたレンガの敷き詰められた道を歩きながら、クリスは心の中だけで溜め息をつく。
『ヤダね、暗い男は』
 自分の声がササラには聞こえないと重々承知の上で、意地悪く赤い石が笑った。
『気にしてないってフリしといて、もう心配で心配でっ――』
 クリスが赤い石を指ではじくと、石は静かになった。
『わかったよ』
 一言だけ拗ねたような声で言って、クリストルは沈黙した。
 レンガ造りの建物にはさまれた小道を曲がると、少し広めの道に出た。小さな店がいくつも立ち並ぶ歩きなれた道。
「クリス!」
 元気いっぱい少年が駆け寄って、クリスに紙を渡す。
「号外!! 昨日大活躍だったな! 最近新聞人気出てさ、ワーズさんがいい紙出してくれるんだよ!! オリビアさんもインク奮発してくれてさぁ、オレの新聞大人気!!」
 ガッツポーズで少年は大はしゃぎだ。顔や体のいたるところについたインクすら、まったく気付かずにいるようだ。
「見ててくれよ! リュードレイ一の新聞屋になってやるからさ!!」
 少年は忙しそうに走りながら大声で手を振る。
「号外だよ! 号外!! さぁマックスの新聞、号外版だよ!」
 元気な少年が跳ねるように遠ざかっていく。
 それを見詰めて、ササラが苦笑した。
「警察屋も形無しだな」
 クリス一人を捕まえるのに、いったい何人の警官を動員したのだろう。探偵であるササラも呼ばれ、結局は捕まえることもできずにいる。
「昔はさ」
 ササラが独り言のように言った。
「状況証拠でも逮捕できたのになぁ」
「じょうきょうしょうこって何?」
 意味をまったく解していないクリスが、小首をかしげた。
「指紋やその場に残された色んなものを照らし合わせて、こいつが犯人だって間違いなく確定したら、令状とって逮捕できたの」
「現行犯じゃないのに!?」
「そうだよ。家宅捜査だって令状があればできたんだ」
「かたくそうさって何!?」
「……犯人たる確率のある、あるいは犯罪に加担しているだろう人物の家や事務所、もろもろの建物に入って調べることだよ」
「勝手に入るの!?」
「令状とってね」
「れいじょうって何!?」
「――……」
「それっていつの話!?」
「二、三千年前」
「大昔じゃない!!」
「そうだよ」
 今の時代じゃない。大昔。文明が急激に発達していったころの、合理的なシステム。それは、犯罪を未然に防ぐことすらできた科学。
 自然を破壊し、総てを破壊しつくして手に入れた歪んだ平穏。
「この世界は、多分そのころとは違うんだ。何もかもが、違いすぎる」
 せめて家宅捜査という方法がまだこの世界に残っていてくれれば、クリスを捕まえることもできただろうに。いや、状況証拠だって、十分すぎるほどそろっている。現行犯逮捕≠ェ絶対原則でなければ、この少女がここまで罪を重ねることもなかったはずだ。
 捕まえなければ、罪を問うこともできない。
 それがこの世界。
 おかしなものだと思う。過去を知れば知るほど、この世界が不透明になっていく気がする。これ以上調べたところでその違いに落胆するばかりだというのに、それでもササラは過去に思いをはせる。
「クリス!!」
 思考の波に飲まれそうになったとき、明るい女の声が現実へとササラを引き戻した。
「昨日、見たよ! やっぱクリスは白が似合うね!! ほら、新しい服!」
 気がつくと、目の前に純白のフリルのだらけの服を持った女がいた。彼女はクリスにその服も持たせると、機嫌よく笑う。
「また活躍しとくれよ。マルシア仕立ての服の名が世界中に轟くようにね」
「わ、かわいい! すごい、マルシアさん作ったの!?」
「もちろん! レースはエバの特注品、生地はバルバロんトコの最高級品さ。軽いよ? 着心地もいい」
「次の仕事のときに着るね!」
「ああ。よろしく頼むよ。そうだ、写真屋にも連絡しとかなきゃ! いい写真撮ってもらわないとね!!」
 嬉しそうに破顔して、マルシアが離れていった。するとそれを待っていたかのように、中年男がこれまた真っ白のブーツを一足持ってくる。
「よ、クリス。マルシアにさき越されちまったな」
 口髭をたくわえたぽっちゃりとした男は、苦笑しながらブーツをクリスに渡す。
「ローズ婆さんとこの本皮仕様だ。足にぴったりくるが、締めつけたりはしねぇ。靴底も、これがまた――いや、履いてもらえばわかるか。ニルスの力作さ。病み付きになんぜ?」
 自信満々に、中年男が笑った。
「今度はちっとばかしヒールの高いヤツデザインすっからよ、そんときも履いてくれよ」
「うん、ありがと」
 笑顔で返すと、
「なによぉ、みんな早すぎ!! あたし走ってきたのに〜ッ」
 と、まだ年若い女が割り込んでくる。
 大きな真っ白い花束を抱えて、ちょっと拗ねたように笑った。
「はい、クリスちゃん、あげる」
 差し出して、クリスがすでに荷物をいっぱい抱えているのを見ると、パッとササラに向き直った。
「はいササラ、荷物持ち」
 にっこりと微笑んで、真っ白な花束を差し出された。
「……」
 真っ黒な少年は、あきれたような顔でそれを受け取る。
「バーバラの花園超満開なの。クリスちゃんのためにがんばって咲いたんだよ。活けてあげてね?」
 花のような笑顔でウインクする。
「お、いいねぇ。オレにもくれよ。カミさんが、お前んトコの花好きでさ」
 男が覗き込みながら言うと、ぱっと彼女が顔を上げる。
「いいよぉ。どんなのがお好み? 今ならウィヴェットが咲き誇ってるから、それメインで花束つくろーか?」
「いいねぇ。そんじゃ、それで頼もうかな」
「OK。じゃ、クリスちゃんまたね」
 ひらひらと手をふりながら、騒がしい二人が離れてゆく。
 くすっと少女が笑った。どこか困ったようなササラの顔が、妙に面白い。普段花など持たないから、どう持っていいのかもわからないような表情だ。
「ごめんね、ササラ」
「……いいよ。荷物、換えよう」
 どう見てもかさばるものを持たされているクリスにそう返して、ササラはひょいとクリスから荷物を取り上げると、代わりに花束を渡した。
「相変わらずモテモテだな」
「おかげさまで」
 ササラの嫌味を、クリスがさらりと流す。クリスの活躍はすなわち警察の失態。そして、その警察に手を貸しているササラの失態でもある。
 ゆえにクリスが人に好かれるのは、ササラにとってはあまり喜ばしい光景ではない。
「やっぱり妙なんだよ」
 小さくつぶやくササラに、クリスが不思議そうな顔をする。
「なにが?」
 この光景が。
 と、ササラは続けた。
「通貨がないってことが」
「つうかって何?」
 なんだかさっきもこんな会話をしたぞと思いながら、ササラは溜め息混じりにクリスに説明をする。
「通貨ってのは、お金だよ」
「おかね?」
「金貨や銀貨、銅貨」
「あ、それ見たことある! 博物館に飾ってあるやつ!!」
 興奮したようにクリスが言った。
 まぁ一般人の知識はこんなものだ。自分が大昔のことを調べ、そのことを話すと大概みんな微妙なリアクションをする。
 無論クリスもその一人。
「もともとそれには共通の価値がある。たとえばこの服。この服には銀貨一枚分の価値があるとする。そうすると、クリスはマルシアに銀貨を一枚渡さなきゃいけないんだ」
「なんで?」
「マルシアから服を買ったからだよ。マルシアはその金で、次に作る服の材料を買ったり、自分の欲しいものを買ったりするんだ。大きな買い物をしたいなら、お金をためなきゃいけない」
「どうやって?」
「……人が欲しがるものをいっぱい作っていっぱい売るんだよ。利益が出るように大量に物を仕入れて、大量に作って売る。お金には共通の価値がある。それは一定の価値。多く持てば持つほど、裕福だってコトさ」
「裕福なの? だってそれってお金でしょ? お金がいっぱいあるってそんなにすごいことなの?」
「欲しいものが何でも手に入る」
「今だって手に入るよ。でもお金はいらない。人が望むのは名声だよ。お金をどんなにたくさん持っていても、それは記憶には残らない。記憶に残らない人間に価値はないよ」
 クリスの考えが一般的なのだ。この世界に通貨概念はない。
 いつからそうなったのだろう。
 人の記憶に、歴史に名を刻むことがほまれとされるようになったのは。
 確かに、財産を残すことにそんなに魅力を感じはしない。それはササラも同じで、でも同時に、人の行うこと総てが善意と名誉のために成り立つこの世界にも疑問を感じる。
 多くの人間は一生の職に芸術家を選ぶ。なかには安易に名を残せると考えるものもいるが、実際には町の人口の半分が芸術家ともなると、そうそう簡単なものではない。
 次に多いのが怪盗。これもやはり安易に名を残そうという意図が見え隠れする。だが、これはリスクが高く、ほとんどのものが挫折しては無職となって爪弾つまはじきされる。
 そして警官と続く。警官は堅実な仕事だ。派手に名を残すことは少ないが、殉職すれば署の共同墓地に埋葬されその栄誉がたたえられるし、退職しても署の壁面のレンガに名を刻んでもらえるという妙な特典のおかげで根強い人気がある。
 名は己の生きた証。
 名を残すことは、命を残すこと。
 通貨はいらない。必要ないのだ。
 人々の記憶に刻まれるためには、そんな価値観など何一つ必要ない。必要なのは、ひとつのものを貫き通す意志。
 己を最高峰にまで高める強靭な精神。
 それのみが己を形作るためのモノ。
『記憶に残らない人間に価値はない、か』
 赤い石は、ささやく。
『オレの名は世界に刻まれた。だが、オレの生に価値はあったのか――?』
 過去に大怪盗と呼ばれた男がいた。
 死してなお死ぬこともできずに現世に縛りつけられる、永劫の悪夢の中に身を投じる男が。
 彼は赤い石となって、今なお世界を探し続けていた。

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