芸術家たちの生涯をかけた傑作が必ず一度は訪れるという町がある。
一世一代の、死の直面にようやく残された名品≠ヘ、どこか魔力をはらんでいるかのように人々を魅了し、この町にやってくる。
リュードレイ。
一見、どこにでもある何の変哲もない町である。
名産も特産もない。
ただ噂だけが流れるだけの町。
その町の中央には、真っ白な時計塔が建っている。いつからあったのかは誰も知らない。それは昔から、かわらず時を刻んでいた。
以前はどこかすすけた感じのした建物は、少女が住み着くようになってからまるで生をうけたかのように人々の目を釘付けにしていった。時を刻む鐘の音も、耳障りだといっていた人間までもが聞き惚れるようになった。
不思議な町に建つ不思議な時計塔。
そしてそこに住む、真っ白な怪盗。
どこか現実離れした、そんな雰囲気さえある。
「ただいま」
待つ人などいないが、少女はそう言ってから純白の時計塔のドアを開けた。
床も白い大理石が敷き詰めてある。少女は軽やかに歩を進めながら、小さく笑った。
「ササラさ」
『ん?』
「ササラ、屋根から落ちるとき、私の腕を放したの」
『――ああ』
それどころか、彼女が巻き込まれないようにその体を安全な場所へと押しやって。
「優しいよね」
無意識の行為が嬉しかった。
『甘ちょろいことやってっから、いつまでたっても半人前なんだよ』
「え〜でも、あのまま捕まったら、現行犯逮捕だよ?
少女の声に真紅の石はうなり声を上げた。
「そしたら、クリストルの探し物できないじゃない」
『……』
クリスの言葉にクリストルと呼ばれた石が沈黙する。
まるでダンスのステップを踏むかのように、少女が螺旋階段を上がっていく。光を取り込むためにいくつも作られた窓から月光がさし、少女の姿はさながら空を舞い踊る妖精のようだった。
『探し物はな』
ポツンと、クリストルが言った。
『探し物は、見つからないほうがいいかもしれない。オレには、そんな資格はないかもしれない』
「――どうして? 頑張ったんでしょ? 昔も、今も、頑張ってるんでしょ? だったら、ちょっとぐらい、我が儘になってもいいんだよ?」
『お前、巻き込んじまってさ?』
「平気だよ」
再び、石は沈黙する。
「利害関係の一致だよ。クリストル」
少女はクスクス笑った。
「父様も怪盗だった。私も父様のような怪盗になるの――ならなきゃいけないの。だから、いいんだよ」
少女が足を止める。
目の前には大きなドアがあった。壁も床も何もかもが真っ白に塗りこめられた空間で、そこだけがぽっかりと穴が開いたかのように真っ黒だった。
クリスはそのドアをゆっくりと押し開ける。
「ただいま、父様」
やわらかく微笑みながら、誰もいない空間へ声をかける。
大きな部屋は、今までに盗んできた美術品で埋まっていた。父が盗んできたものも多くふくまれている。どれもが二つとないほどの名作――で、あったものだった。
大理石で作られた彫刻、宝石をちりばめた刀剣、優美な王冠や巨大な絵画――挙げたらきりがないだろう。コレクターなら喉から手が出るほどの作品群である。だが、それらは総て過去の栄光だ。
人々の噂をさらっていった名作たちは、すでに名作ではない。
そして、少女の手にもたれた絵画も、もう名作ではなくなる。
クリスは部屋の中央へ移動した。大きな円のかかれた場所にちょこんと座ると、丁寧に絵画をくるんでいた布を取る。
中は、淡いピンクで満たされた優しい空間が眠っていた。
乙女の眠りと呼ばれる名画。
一面のバラの
プラチナブロンドの髪は淡いピンクのバラに溶け、現実と夢の境界線を消し去っていた。
クリスはその絵を脳裏に刻み込むように凝視して、そっと瞳を伏せる。
「長い間――」
両手を胸にあて、それを絵画の中央へ。
「ご苦労様でした。もう、自由になって」
指先に力を込めると、かすかな熱を感じた。
「あなたの名は世界に刻まれ、
絵画に触れた指のあいだから、光の粒がこぼれ出す。それは瞬く間に人の形をとった。
光の粒は、一人の老婆となってクリスの前にいた。
長い白髪をひとつにまとめ、質素な黒いドレスを身に着けている。
黒衣は喪服であった。
老婆はクリスを見て微笑み、ゆっくりと頭を下げる。
そして、口を開いた。
抑揚もなく、口が動く。感情を押し殺しているのだろう。憂いを含んだ瞳は、悲しげに揺れていた。
だが、老婆がどんなに言い募っても、その一室に音が生まれることはなかった。
――声は、言葉にはならなかった。
老婆はクリスに何かを切々と訴え、そうして、最後にもう一度頭を下げる。
クリスはにっこり微笑むと絵画にのせていた手を離し、その手を胸の前でぴったりと合わせた。
「――承りました」
少女の言葉に、老婆は安堵の微笑を浮かべる。
老婆をかたどっていた光の粒は崩れ、ゆっくりと天井へと移動する。光は天井をすり抜け、さらに上へ。
天上へ――
そして、世界へと溶け込んでゆく。
『なんて言ってたんだ、あの婆さん』
ふと問いかけた真紅の石に、クリスは瞳を伏せる。
残された絵画を両手で持ち、優しく抱きしめた。
絵画の中で眠る少女は何も変わらない。柔らかい頬も透けるような肌も、鮮やかなプラチナブロンドも。
なにも変わらない。
――変わらないかのように見えた。
だが、何かが決定的に違う。
誰もが、そう思うだろう。はっきりと理由を言える者はいないだろうが。
「この子ね」
クリスはささやくように言った。
「あの人がずっと昔に亡くした一人娘なんだって。ずっとずっと、彼女を描き続けてきたんだって」
朝も晩も、来る日も来る日もただひたすら亡くした愛娘を描きつづけた。娘を亡くした悲しみは尽きることなく、彼女を蝕んでゆく。夫は離れ、時間だけがただむなしく過ぎてゆき、しかし彼女はそれにさえ気付くことができなかった。
鬼気迫る姿だと、他人の目には映っていたであろう。だがやはり彼女はそのことにも気付かず、幸せだったころの自分へと溺れていった。
彼女は絵筆を持ち続けた。
総てを、捧げるように。
命よりも大切な娘。
死んでなお募る想い。
ただ願うのは、この子の幸せだった。
だから。
「この子が天国に行けるように、この絵を燃やしてくれって」