王冠は警察の手に戻った。
『嫌な手を使うな』
真紅の石が不満そうにつぶやいた。
野次馬の手助けがなければクリスもあの王冠と同じ末路を辿ったのだろう。クリスの性格をよく知った者にしか思いつかない、単純だが周到な作戦だ。
「らしくないよ」
クリスはササラを見詰めながらそう言った。
「――そうかな。自分ではなかなかいい線だったと思うけど」
自嘲気味に少年が笑う。漆黒の少年が何を想い罠を仕掛けたのかを、少女は知らない。救いたいと思えば思った分だけ、非道にならざるを得ない理由がある。
「群衆がお前の味方だったことを忘れていた。次はないから」
感情の一切を押し殺して、少年は静かに告げる。
「ササラ、人の命はこんなことに賭けていいものじゃないよ」
「――知ってるよ」
危険を感じたら逃げろと指示は出してあった。それで今回の計画が失敗に終わっても、それは仕方のないことだと諦めがついたはずだった。
警官が死を覚悟してこの任務にあたった事、群衆がクリスの味方についたこと――そのどれもがササラにとっては大きな誤算だった。
王冠は警察の手に戻ったが、こんなに後味の悪い話はない。
誰かを救うために別の誰かを犠牲にしていいわけがない。そんなことは知っている。
今回のミスはササラの読みの甘さが招いたことだ。弁解の余地はない。少年は言い訳すらしようとしなかった。
「今日は引き分けだ」
二人の会話を打ち切るように、ミヤツ刑事が高々と王冠をあげる。
「初めての失態だな、時計塔の怪盗?」
嘆きの石を埋め込まれた王冠は、美しく輝いている。まるで月光を我が物にしようとするかのように。
ざわめきが聞こえた。野次馬たちが屋根の上の三人を見つけたのだろう声である。
それが妙に――遠い。
ミヤツ刑事はあいている手で顔を覆った。
途端に、ぐにゃりと視界が歪む。
「なん、だ――?」
眩暈とは違う。何もかもがおかしな具合にひしゃけて見える。
「ミヤツ刑事!?」
叫ぶようなササラの声も遠い。いや、遠いのではなく、別の音が重なっているのだ。
火の音が。
物が焼ける激しい音が、すべての声を遠のかせている。
ここは危険だ。ほら、足元がもう崩れる。そうしたら、どこにも行けなくなるじゃないか――
おかしな思考が生まれる。
誰のものとも知れないそれが、ミヤツ刑事の中に急速に広がる。
バキリという激しい音とともに足元が崩れた瞬間、ミヤツ刑事は不自然な姿勢のまま修道院の屋根を蹴っていた。
「クリストル!!」
鋭い少女の声が、ぼやけた思考の中に割り込んできた。修道院の屋根と隣り合う民家の屋根のあいだには、2メートルの距離がある。
その大きな隙間にゆっくりと落ちていこうとする男の目に、純白の少女が映っていた。
このまま落ちたら死ぬかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていた彼に向かって、少女が飛翔した。
がくんと視界がブレる。
「くそ、勘弁してくれよ。警察屋が意識もってかれてんじゃねーよ」
ずいぶん汚い言葉遣いで、少女が毒づいている。
「あ……?」
ミヤツ刑事は茫然とあたりを見渡した。体が宙に浮いている。野次馬たちがこちらを指差して悲鳴をあげていた。
呼吸が浅くなった。――苦しい。喉が締め付けられている。
「なんだ……?」
状況が飲み込めない。
わずかに乱れる呼吸と思考。
だが、すぐにそれは正常に戻った。自分の置かれている状況を把握すると、全身の毛穴から汗が噴き出すかと思った。
ミヤツ刑事が――大の大人が、いま少女の細腕一本で支えられている。場所は民家の屋根の上、彼は首根っこをつかまれたまま茫然と宙吊りになっていたのだ。
少女の片手は民家の屋根を掴んでいる。そうでもしないと支えきれなかったのだろう。
彼女は、そのままミヤツ刑事を片腕だけで持ち上げた。
あまりのショックに我を忘れているミヤツ刑事をひょいと屋根の上にのっけて、はっと修道院を振り返る。
「――このバカ――!!!」
言うが早いか、少女がまた跳んだ。すさまじいまでの跳躍力。
修道院の屋根に着地した瞬間、純白の少女がまっすぐに漆黒の少年に向かって走りだした。
少女は俊足だった。それなのに、ササラにはひどくゆっくりと時間が過ぎていくような気がした。
彼の目には、少女が映っていた。
スクール時代、ともに学んだこともある友。甘栗色の長い髪、鮮やかなライトグリーンの瞳。白い服が大好きな、よく笑いよくしゃべる少女。
「――誰……?」
違う。
ササラはクリスを見て、そう思った。
その雰囲気が、動きが、今まで見知ってきたものと違う。何より、少女の瞳はあの鮮やかなライトグリーンではなく血のように赤かった。
その色に、ササラは見覚えがあった。
いつの間にか少女の胸を飾るようになった石。
その石が赤くて、あまりにも赤くて――
ただ茫然と、ササラは目を見開く。ついさっきまで赤かったはずの石は、乳白色へと変わっていたのだ。
「ササラ……!」
少女が手を差し出した。無意識に、ササラが手を伸ばす。
体が大きく揺れた。足元で何かが崩れる音がする。
「ッ……!」
熱気が体中を包み込む。少年の体は大きく口を開けた修道院の中へと飲み込まれていく。建物の中は火の海だった。落ちれば確実に命を落とす。
ここで死ぬのかと、ササラは冷静に考えていた。業火に焼かれて、真っ黒な木炭にまみれるのが自分の最期なのかと。
「しっかりしろ!!」
少女の鋭い声に、ササラがハッとする。辛うじて少女の手がササラの指先を掴んでいた。指が汗で滑る。ササラはとっさにあいている片手でクリスの手首を握った。
「放すなよ」
安堵したようにクリスが言った瞬間、ササラの体が引き上げられる。少女の小さな手が添えられると、熱気があきらめるように少年の体から離れていった。
「――クリストル?」
不意にササラが少女に問いかける。
茫然としたまま、まるで何かを探るように。
過去に小さな絵を見たことがある。誰もが素通りするような、誰の目にもとまらないような小さな絵を。
絵の中の男は漆黒の闇の中に溶け込むようにたたずみ、月光を背に笑っていた。
口元に不敵な笑みを刻み、挑むようにきつく前方を睨みすえた男。
大怪盗クリス――クリストル・オルフィス。
世界に名を刻んだ希代の大怪盗。
その彼と同じ仕草で、少女がにやりと笑った。
「オレの名を呼んだのは二人目だ。――ほめてやるぜ?」
そう言うと、少女は一気に少年をぽっかりと開いた穴から引き上げて、その体を肩に担いだ。
とめる間もなく、クリスは屋根の上を慎重だが素早く駆けぬける。
歓声が聞こえた。少年を助けたことに対する人々の賛辞の声。
クリスは小さく笑った。
「悪くねーな、人助けは」
そう言って修道院の屋根を、少年を担いだまま跳んだ。どんな脚力をしているかなど、観衆にはどうでもよかったのだろう。
大きな拍手が惜しみなく贈られている。
「ほい、お届けモノ」
茫然と座り込むミヤツ刑事の目の前にササラを降ろすとクリス=クリストルはくるりと背を向けた。
「――おい」
そのまま時計塔へ帰ろうとしている少女に、ミヤツ刑事が低い声で呼びかける。
ミヤツ刑事は手を大きく振りかぶると、シェリー王女の王冠を怪盗に向かって放り投げた。
黄金の弧を描いた王冠を片手で難なく受け止め、少女がミヤツ刑事を見詰める。
「持ってきやがれ。ここまでされて手ぶらで帰したんじゃ、オレたちは本当に町の嫌われ者だ」
溜め息とともにそうぼやく。群衆の拍手や喝采などいちいち気にしていられるかと言わんばかりの表情である。
クリスは微苦笑を隠し、賛辞を送る眼下の野次馬≠スちに手をふった。
そしてミヤツ刑事とササラに視線を戻す。
「じゃ、遠慮なくいただいてく」
言葉だけを残して、少女は夜空を舞った。