後退するわけにはいかない。支えている警官は、もうこれ以上ここにいれば命が危険になる。
 放り出して逃げれば、気力だけで立っているような彼は自力で脱出することは不可能。
 クリストルに託す方法は――ある。
 しかし、まだ火の手が回っていない部屋などあるのか。両側の壁は轟々と燃え盛っている。いつもはきっと薄暗いのだろう長い廊下、その先に続く廊下も、やはり炎のために異様なほど明るい。
 火の勢いが激しすぎる。
 一人でなら行けるかもしれない。だが、二人となると、その生存率は恐ろしく低くなる。
『相棒』
 バケツリレーで玄関の火の手を抑えている警官に向かって歩き出した少女に、赤い石は動揺した声で呼びかけた。
「――ごめんね、クリストル」
『バカ、謝んなよ』
 警官が確実に助かる道を少女は選ぼうとしている。自分がその後どうなるかも、もちろん承知の上で。
「お前……」
 警官も、動揺してクリスを見下ろした。
 小さな怪盗はひどく穏やかな表情で前を見詰めていた。
 火の勢いは相変わらず激しい。刻一刻とその勢力を増している。それでも、玄関だけはバケツリレーのおかげで火の勢いが衰えているようだ。
「おい、給水車はまだか!?」
「ホース早くもってこい!!」
「バケツのある家は貸してください!!」
 さまざまな声。水の入ったバケツを持った野次馬が、警官たちに混じっていく。
 と、野次馬の一人がバケツを放り出して、警官の一人を羽交はがめにした。まるでそれを合図にしたかのように、野次馬たちが次々と警官たちを拘束し始めた。
「おい、なにを!?」
「離せ!?」
 わっと野次馬が修道院の玄関に集まってきた。
「警官入れるなよ!!」
 男が大声で後方に呼びかける。民衆≠ェ、瞬時に人垣≠ノなった。
 修道院を包囲しようとグラハム美術館から駆けつけた警官の数は300人近い。その全員が、野次馬の作った壁の外側でなにが起こっているのかわからず唖然とした。
 修道院の玄関の消火作業を行っていた警官は、次々と野次馬に羽交い絞めにされて玄関から引き離されていく。代わりに、バケツを持った別の野次馬たちがワラワラとよっていく。
「おい、ここを通せ、なにをやってるんだ!?」
「そりゃこっちのセリフだよ!!」
 警官の怒声に負けず劣らず、モップを片手に部屋着姿の中年女が怒鳴り返した。
「なにをやってるんだ、警官どもは!? 仲間助けようと飛び込んだ女の子を寄ってたかって追い詰める!! それがあんたたちの仕事か!?」
 ぐっと警官が押し黙った。
「人の命が最優先だ。そんな簡単なこともわからないのか!?」
 騒然とした修道院の前で、それでも女の声はよく通った。
 怒りと苛立ちのない交ぜになった言葉。その言葉は、ここに集まった人々すべての思いでもあった。
「警官を一歩も修道院に近づけるんじゃないよ! こっから先に行きたかったら、あたしらが相手になる」
 始めの言葉を野次馬に、続く言葉を警察に放ち、女は手にしていたモップをかまえた。
 燃え盛る修道院を背に、人垣は強固な壁となる。
「バケツもってこい、バケツ!!」
 玄関付近で、男が怒鳴った。
 始めから修道院に配置されていた20人の警官は、すでに野次馬に取り押さえられている。
 火の勢いが弱くなる。
 依然として燃えつづける修道院の中で、その入り口だけが火の勢いを弱めている。
 一歩ずつクリスはよろめきながらそこに向かう。灰ですすけた少女が見えたとき、野次馬たちが歓声をあげた。
 クリスに支えられたまま、警官は一瞬息をのんだ。クリスの細い腕を掴む手に、さらに力がこもる。
 怪盗は警官に捕まったまま、ようやく玄関を抜けた。
 消火活動に参加した男たちは、その姿を遠巻きに見詰めている。
 すると、小さな影が後方の人垣から飛び出して、男たちを掻き分けてきた。
 大きな熊のぬいぐるみを抱いた5、6歳ほどの少女だった。ピンクのパジャマも長い髪も、炎の色に染まっている。
「パパ!」
 ぬいぐるみを落としたことにも気付かずに、少女はボロボロの警官に向かって必死で走ってくる。
 クリスの腕を掴む手が緩んだ。崩れるように座り込むと、彼はそのまま、泣きながら駆け寄ってくる少女を抱きしめた。
 自分が死んでいたら、我が子を抱きしめることもできなかった。そんな単純なことに彼はようやく気付く。
 顔をあげると、そこには妻がいた。
 部屋着姿の女。
 よほど急いでいたのだろう。その足には何も履かれていなくて、髪はぼさぼさで、顔は涙でぐちゃぐちゃで。
 ひどい姿だった。
 それでも、彼にとっては最愛の女だった。
 女は無言のまま、警官を抱きしめた。
 彼は目を伏せ、それから少女怪盗を見た。
 口元に小さな笑みを刻み、微かに頷く。自分の腕で掴むのは、愛する家族で限界だ。初めて彼はそう思った。
『それがお前の望む未来か』
 穏やかな警官の顔に、赤い石が優しいとさえ思える声音でささやく。
『いくぞ、相棒』
「うん」
 微笑みながら、少女は修道院の入り口の脇に置かれていた木箱に駆け寄って、それを蹴った。
 その反動で、玄関の雨除けとしてつけられた小さな屋根に。さらにそれを蹴り、屋根へと瞬時に移動する。
 おぉ、と野次馬が歓声をあげた。
「クリスー!!」
 野次馬が手をふっている。少女怪盗は深々と頭を下げた。
「ありがとう」
 大きな声で群がる人々に言うと、歓声はいっそう激しくなる。満足げに笑う顔も多くあった。
 クリスは微笑んで小さく手をふると、踵を返す。
 その一瞬で、クリスは笑みを消していた。
 彼女の目にはところどころ焼け落ちた修道院の屋根が映る。熱気が屋根から伝わってくる。火が風で大きく揺れた。
 月光と炎で彩られたそこには影が二つ。
 鈍色のロングコートを着たミヤツ刑事と、漆黒の少年探偵――ササラ。
 ミヤツ刑事は皮肉っぽく片頬を引き上げながら、ゆっくりと手を上げた。
 その手には、妖しく輝くスターサファイアのはめ込まれた見事な王冠が――シェリー王女の王冠があった。

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