長い長い螺旋階段を、少女が駆け上がっていた。
『王冠くれて、ミヤツ刑事大丈夫なのかな?』
 乳白色の石が少女の胸元で心配そうにつぶやいた。
「書類一枚でカタがつくさ。警察がミヤツ刑事を処罰するなら、民衆が黙っちゃいない――民衆は全部見てたからな。警察屋も民衆を敵にまわすほどバカじゃねーさ。それこそ自分たちの首がしまるぜ?」
『そうなの? だって、王冠くれたんだよ? 警察が怪盗にそんなことしたら、処罰されるんじゃないの?』
「処罰?」
 少女が鼻で笑った。
「なぁ、名を残すことが誉れなんだろ? だったら、野次馬どもに拍手喝采あびてたミヤツ刑事を処罰したら、警察屋はどうなる? 民衆は誰の味方をする?」
『……』
「王冠一つの損失だ。これで株が上がるなら、警察屋はミヤツ刑事を処罰できねーよ」
『う〜ん』
「見てな、新聞屋がうまく書き出すぜ? 今日の美談≠な」
 楽しそうにそう言って、少女は真っ白な時計塔の真っ黒なドアの前に立つ。この建物の中で唯一黒い場所――
 王冠にはめ込まれたスターサファイアが微かに光を帯びる。
「さすが――こりゃ格が違うな、ごうの深い呪物だ」
 何かに共鳴するかのような輝きに、少女はにやりと口元をゆがめる。不敵な微笑である。
 ゆっくりと漆黒のドアを押し開けると、室内が光であふれかえっていた。
 シェリー王女の王冠。
 過去に何千、何万と言う人々の命を奪った、呪われた石をはめ込まれた美しき王冠。その訪れを、所狭しと置かれている過去の名作たちが恐れているかのような異常事態。
『すごい……もう皆魂は抜けてるのに』
「命の欠片が残ってるのさ。それが反応する。この王冠に」
 そう言って、少女が一歩室内に足を踏み入れた刹那、黒い影が生まれた。
「え……?」
 呆然と少女が前方を見詰めた。今、この部屋に入った瞬間、何かが自分とはなれていった。
 その離れた何かは黒い靄となって、すぐさま人の形と成った。
 目の前に、男がいる。
 王冠を片手に、悠々と部屋の中央へとむかう細身の男。男の輪郭は微妙にぼやけていた。
 それでもわかる。
 細身ではあるが、その体がいかに鍛え抜かれているのかが。まるで重力を感じさせないその歩き方は、多分生前のクセなのだろう。
 大怪盗クリス。
 あらゆる美術品をことごとく盗んでいった伝説の怪盗。
 漆黒の髪に少し青みがかった瞳を持ったその容姿は――なるほど、世界を騒がせるだけはあるかもしれない。
 整っていると言うべきだろう。
 どこにでもいそうな顔立ちではあるが、その独特の雰囲気が彼の存在感を確固たるものへと変えたに違いない。
 大怪盗クリス――クリストル・オルフィスは、王冠を無造作に部屋の中央に書かれた円の中心へ置いた。
「出てこい」
 部屋の入り口でクリスが茫然としてしまうぐらい、クリストルは単刀直入だった。
 声に反応するかのように、ゆらりと光の粒が王冠から立ちのぼる。
 始めは少量――だが、瞬く間にそれは部屋中を埋め尽くす莫大なものとなった。
 光の一部が人の輪郭をなぞる。
 それはずいぶん小さな形をしていた。
 淡く光で縁取られたドレスが微かに揺れ、豊かな金髪がゆっくりと前方へと流れる。
 そこには、幼い少女が毅然と立っていた。
 少女はクリストルに向かって深く一礼する。
 あげたその顔は、悲愴とも呼べる表情を湛えていた。
 立ち振る舞いそのままに、高貴な少女。緩やかに波打つ髪がはらりと額にかかる。
「――シェリー王女」
 アルゼアの呪われた皇女。
 名を呼ばれると、少女の顔が歪んだ。泣くまいと引き結ばれた口元が痛々しかった。
『どうか民を――』
 幼い王女が大怪盗へ震える声で懇願する。
『どうか民を救ってください』
 少女の後方でうごめくモノ。白くけぶるその内側には、数え切れない魂が絡み合い、悲鳴をあげ続けていた。
 痛みなどない。きっと悲しみも絶望も感じることはできないだろう。
 彼らは意志もなく、理由もわからないままただ苦しみ続ける命。
 アルゼアの民と、過去に嘆きの石によって命を落とした多くの命のカタマリ
『お願いです、あの者たちにとがはない』
 大きな青い瞳には涙があふれていた。
咎人とがびとは私。私だけが苦しめばよい――』
 シェリー王女は10歳で王位を継承した。その三ヵ月後に栄華を極めた大国は幻だったかのように滅びた。
 すべての元凶は嘆きの石と呼ばれたスターサファイアが招いたものだった。
「お前に咎はねぇよ、お姫様」
 それどころか、この少女が石の魔力を押さえ込んだおかげで、その後の悲劇は生まれなかった。
 幼いが、確かに王となるべき器の少女だった。
 ただほんの少しあった心の闇に、嘆きの石が忍び込んでしまったのだ。愛すべき民を失い、その罪の意識に囚われながらも己を見失わず、今なおここにある――その奇跡の意味を、大怪盗は知っていた。
「一緒に行きな、お姫様。――送ってやるよ」
 嘆きの石を長い時間封じてきた王女。確かに、民を巻き込んだ事実は消えることのない咎かもしれない。だが、もう許されてもいい。
「シェリー王女――気高き姫君。時間ときの楔は成就した。その咎、もらい受ける」
 長い指がすっと王女へと伸び、その胸を軽く押した。
『何を……!?』
 シェリー王女の胸元からずるりと黒い光の粒が流れ出る。それはクリストルの指に絡まり、そのまま消えた。
 王女は茫然と目の前の男を見上げる。
『何故……?』
 そう問いかけた、幼くも気高い姫君はゆっくりと空気に溶けていく。
「――知らねーの? オレ、救いの御手なんだぜ?」
 クスリと大怪盗は笑った。
「行きな」
 光の渦が一粒一粒、空に向かって浮かび上がる。
『でも、咎を受けると言うことは――!!』
 消え行く王女を見詰めて、クリストルは優しく瞳を細める。
「オレの死は消滅以外ない。いまさら咎が多少増えたところで、何にもかわりゃしねーさ。ほら、お姫様。皆が待ってるぜ?」
 そう言われて、シェリー王女は振り返った。
 手が――多くの手が、まっすぐ彼女に差し出されている。
 それは、天へ昇ろうとするアルゼアの民たちが、王女に向かってのばした手。深く愛するが故に死を強要された者たちがのばす救済の手だった。
『皆……』
 光の粒が天へ昇る。輪郭をなくしながら、それでも多くの手は彼女に差し伸べられ続けていた。
「行きな。もう間違えんなよ?」
 クリストルが王女の肩を押した瞬間、その体は形をなくし、光の粒は一斉に天へ向かって上昇した。
 間違いは誰にでもある。
 彼女は多くの命を犠牲にした。しかし、その命はことごとく、彼女を許していた。
 長く苦しむ王女の姿を民たちはずっと見ていたのだろう。すべての感覚を失ってなお彼らは王女の苦痛を知り、共にあることを願ったのだ。
 すべての元凶は、嘆きの石。
 クリストルは王冠を睨みすえた。天へ昇り損ねた光の粒がゆらゆら揺れている。
「命の代償は安くないぞ」
 怒気を孕むような低い声で、クリストルがささやく。
「欲に溺れたその目には何が映った?」
 厳しい問いかけに、わずかに残った光が大きく揺れる。
『――嘆きが』
 しゃがれた声が搾り出すようにそう答えた。光が人の形へと変化する。同じモノから形を成しているのだろうに、声の主は奇妙にぼやけていた。
数多あまたの嘆きが……』
「石が呪われていたのは知ってたんだろ。それを指輪に加工した――お前の犯した罪は軽くない」
 嘆きの石を指輪へと加工した老人が、クリストルの目の前にいた。石のままならば、ここまでの被害はなかった。名を残すことばかりを考えたこの老人が、命をかけて指輪を作ったからこそ被害はここまで拡大したのだ。
 芸術家たちが一生に一度作る大作――死の直面に残された名作≠ヘ人々を魅了する。
 その本当の理由を知る者は少ない。
 名作を生み出し、芸術家が死んだと思われている。しかし、真実はそうではない。
 総てを捨てて作り上げた作品に、芸術家たちは自分の命を封じているのだ。その方法も原理も知らぬまま、彼らは自らを作品の中に縛り付け、人を魅了する名作を生み出す。
 名作≠ェ存在する数だけ、縛り続けられた命が存在する。
 解放されることもなく、ただそこにあり続けるだけの命――
 そして、その中の一部が呪物となる。
 主の命では飽き足らず、あらゆる命を貪欲に求める呪われた名作=B
 その一つが、嘆きの石を埋め込んだシェリー王女の王冠だった。
「その業を背負ったまま、永劫の闇に落ちるか?」
 老人はクリストルの言葉にうつむく。
 返す言葉もないのだろう。
 多くの命が犠牲となった。シェリー王女が強い意志を持っていなければ、その被害はさらに拡大していたのだ。
『人々の悲鳴を聞き続けた。とめたくとも、とめられなかった。ワシは――ワシはあまりに愚かだった……!!』
 老人はボロボロと泣き始めた。
 王女は幼くとも気高く、強い意志を持って己の罪を見詰め続けた。
 老人はもろく、己の罪の深さに溺れて嘆くことしか知らなかった。
「ったく、ダメオヤジだなぁ」
 はぁあっと大きく溜め息をついて、クリストルは頭を掻く。呆れたような口調ではあるが、先刻のように厳しいものではない。
「オレさぁ、そゆのダメなのよ。弱い人間ってさ、基本的に好きなんだよ」
 困ったように苦笑して、クリストルは老人の胸に軽く触れた。
「もらってやるよ、あんたの咎。――行きな?」
 老人の胸から滑り出した黒い粒は、クリストルの腕に絡まると一瞬にして消えた。
『どう……?』
「さっきもお姫様に言っただろ? いまさら咎が増えたところでたいした問題じゃねぇの」
『ワシは解放など……!』
「望めよ。でなきゃ、オレは何のためにここまでしてる? オレには後がない。なら、この命の使い道は、決まってるだろ?」
 ふわりと青年が笑う。
 死すら残されていない命。たった一人でただ消えて行くだけの命。
『救いの御手』
 怪盗がクリストルをそう呼ぶ意味を、老人は始めて知った。
 すべての咎を受け、彼は呪物を解放し続けた。生前の彼は、名のある美術品を盗み続けてそれを解放し、呪われた名作の中で罪に溺れる命をただひたすら救ってきた。
『何故そこまでする!?』
 愕然と老人は大怪盗を見詰める。
「何故って?」
 大怪盗は、少年のような顔で笑った。
「だってそっちのほうがカッコいいじゃん?」
 あまりにもあっけらかんとしたその答えに、老人は全身の力が抜けるようだった。名を残すこと、それだけに囚われてきた自分は、なんとちっぽけな生き物だったのだろう。
 始めてそう思った。
 強欲だった。
 強欲であるが故に盲目となり、人々を不幸へと追い詰めていった。
 どれほどの悲劇があろうとも、目をそらし続けた。
「ほら、いい歳して泣くんじゃねぇよ」
 微苦笑して、大怪盗は老人の肩を軽くたたいた。
 天に何があるかはわからない。輪廻と言う概念はない。ただ、己の罪に囚われ続けるには、人はあまりに弱かった。
 残された光の粒は、ゆっくりと昇っていく。
 それを満足げに見上げる大怪盗。
 ――すごい人だと思った。
 部屋の入り口で立ち尽くすクリスは、その光景を静かに見守った。
 怪盗たちの中で、救いの御手≠ニ呼ばれた男。
 すべての業を一身に受ける優しき怪盗。
「クリストル」
 少女の呼びかけに、ふっと男が視線を彷徨わせる。
「――れ?」
 きょとんと彼は少女を見詰めた。
「よぉ、相棒――ちっちゃくなったか?」
 あるときは羨望のまととして、ある時は畏怖の象徴として長く語り継がれる男――ただ実際は、もちろん伝説どおりの非の打ち所のない人間ではない。
 彼はずいぶん、とぼけた性格をしていた。
 にぱっと片手をあげて笑い、あれっと首をかしげた。
「お〜?」
 自分の手を見ている。にぎにぎ動かして、クリスを見た。
「すげぇ! 見ろ見ろ、体があるぞ!?」
 どうやら気付いていなかったらしい。ようやく自分の体を見まわし撫でくりまわして、奇妙な喚声をあげている。
「さすが嘆きの石。命の欠片が多かったんだな〜」
 妙なところで感心しながらクリスの元に向かった。
 軽い足取り。微かに揺れる髪が、ゆっくりと空気へ溶けていく。
「ど? なかなか男前だろ?」
 にっと笑って、クリストルが問いかける。
「う〜ん」
 確かに不細工ではないのだが、かっこいいかと聞かれると素直に頷けないものがある。
 子供のように大ハシャギして自分を自慢するような男は、かっこいいとは言えないだろう。
「可愛いかな?」
 辛うじて思い浮かんだ感想を、少女は小首をかしげながら伝えた。
「かなってなによ、かなってのは」
 クリストルが苦笑して、少女の胸元にある石に手を伸ばす。ずっと真紅であった石は、先刻までは乳白色に、今は水晶のように透き通っていた。
 一点の曇りもない石に、大怪盗が上半身をかがめるようにして唇を寄せる。
 光の粒が空気に溶ける。クリスの目の前で、男の体は瞬く間に消えた。
 クリスは胸元を飾る石を持ち上げた。
「これ、どーゆう仕組みになってるの?」
『知らね』
 率直な問いかけに率直に答える。
 石は今までどおり、血のように赤かった。
「石が割れたらクリストルは消えちゃうの?」
『おいおい、怖いことゆーなよ!?』
 本気でびびっているらしい声が、慌てて少女にそう言った。
 人の咎は平気で受けるくせに、おかしなところで怖がるものだ。クリスは少し笑って、すぐに息をひそめた。
『どうした?』
 じわりと痛みが広がる。
 ひどく慣れない痛みに、クリスは茫然と肩を見た。
 違和感がある。
 そういえば、意図的ではないがチェスター修道院から帰る途中、一度も右腕を使っていなかった気がする。
 腕はだらりとぶら下がっていた。
 不自然にだらりと。
 クリスはさっと青ざめた。
 修道院でクリストルは、その細腕でミヤツ刑事とササラを助けていた。
 ものすごく普通≠ノ。
『あ、ワリィ』
 真っ青になって痛みのために震えだした少女に、赤い石はさらりと言った。
『肩の関節、抜けたままだった』
「クリストルのバカ――!!!」
 その夜、少女の絶叫を聞いた人数――測定不能。

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