これが罠だったと言うことに、すぐに気づいた。
 こんな方法をとるのは――おそらく、ササラ。黒衣をまとう小さな探偵。
 スクールで机を並べたこともある友だった。
「命はそんなに軽くないよ」
 掴まれた腕を振り払うことなく、少女は小さく言った。轟々と燃え盛る室内で掻き消えてしまいそうな小さな声。
 しかし、その声は確かに警官に届いていた。
「行こう。この建物、もうもたない」
 ゴホゴホと咳き込む警官を支えて、クリスは立ち上がる。
 立ち込める煙、容赦のない熱気。クリスはわずかによろめきながら、男を火から遠ざけるように道を選んでいる。
 強く腕を掴んでいた手が、動揺を示すように少し緩んだ。
「振りほどけば、いいだろう」
 苦しそうに眉を寄せ、男はなんとか言葉を吐き出す。
 小さな白い怪盗は抵抗一つしない。そのそぶりさえ見せていない。
 男は少女の抵抗を予期して、渾身の力でその腕を掴んでいる。その痛みと、実行犯で捕まった後に訪れる槌鉄の恐怖で、彼は必ず少女が抵抗すると思っていた。
「振りほどいて逃げるの? お兄さんをおいて、逃げるの? 時計塔の怪盗が盗むのは人の命じゃないよ」
「――……」
「私が盗むのは、悲しみを紡ぐ名作だけ。名を残す怪盗は救いの御手みて≠ネんだよ」
「救い……?」
「大怪盗クリスがそう呼ばれてたの。怪盗の中でね?」
 赤い石と成り果てた大怪盗は、少女の胸元で輝く。命はとうに尽きているのに、生きることも死ぬこともできずに世界に縛りつけられている男。
「救いの御手≠ヘ人の命を盗まない。だからお兄さんもその命、軽く見ないで」
「オレは……警官だ……」
「うん。私を捕まえなくちゃいけないんだよね? わかってるよ」
 少女は小さく笑った。
「わかってる。けど、私がもしここに来なかったら、あのまま死ぬ気だったでしょ? 名を残すことは誉れだけど、命をかけちゃダメ。残された人が泣くようなことをしちゃダメ。名誉は生きて手に入れるからこそ意味があるんだよ」
 そう言った少女を、警官は茫然と見詰めている。
 敵対するものに諭されるとは思ってもみなかった――いや、そんな事ではない。彼はようやく気付いたのだ。自分がいかに盲目であったのかを。
 探偵ササラが打ち立てた計画。それはほんの一部の警官だけに知らされ、極秘裏にすすめられたものだった。
 命をかけた大役を彼は自ら志願した。
 死んで名が残るなら、それもまたよいのだと。それこそが望みだと――残された妻も娘も、誇りにしてくれるだろうと本気でそう考えていた。
 残された者が泣くことも知らずに。
『バカな男だな』
 小さく赤い石がつぶやく。どこか自嘲気味に、同情するように。
『バカな男。本当に大切なものは、すぐ手の届く場所にあるっていうのにな』
 多くの人間がそれに気付けずにいる。気付かないまま死んでいく者もいる。気付いたときには取り返しのつかない場合も多い。
 だが、この男は気付いた。
 幸いにも気付くことができた。
『さぁ間違えるな。お前の望む未来はどこだ?』
 小さな小さな石のつぶやき。
 燃え盛る炎の中で、それは誰の耳にも届くことはなかった。それなのに、不意に少女にかかる重みが減った。
 クリスが男を見上げると、彼はまっすぐ前方を睨みすえている。今までうつむき加減だったその顔に、不思議と生気が戻っている。
「悪いが、この手を離すことはできない」
 警官の表情で、男が迷いなく告げる。
「――うん」
 予想していた言葉に頷き、
「とりあえず、生きてここから出ないとね?」
 そう微苦笑で答え、クリスも前方を見た。
 劫火が渦となり行く手を阻んでいる。警官を置き去りにすれば、クリスだけならばここから逃げ出すこともできる。火の手の少ない場所を選び、手近な窓から外へ飛び出せばいい。幸いクリスの服は防炎だ、危険もいくらか回避できる。
 クリスはきゅっと警官の腕を支える小さな手に力を込める。
 歩くことも困難な警官を窓から脱出させることは、非力な少女には不可能――
 警官の体は異様に熱い。
 このままでは、焼け死んでしまう。
『相棒、代われ。そいつ一人なら背負って運んでやる』
 クリストルがそう声をかけた瞬間、不意に正面の――ドアが、揺れた。
 炎が大きくゆらめく。歓声が木の焼ける激しい音の合間に漏れ出している。
 再びドアが大きく揺れた。
 激しい音とともに、ドアが吹き飛んだ。その向こう側には、直径30センチほどの丸太を支えた紺のつなぎ軍団が見えた。
『うわ、もぉ最悪』
 思わず真紅の石が、クリスの飲み込んだ言葉を代弁した。

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