クリスは屋根の上を移動しながら、ちらりと王冠に目をやった。
「これ、すごくよくない感じがする」
『だな。早く何とかしてやらねーとな』
持っているだけで息苦しさを感じる。善良な人々を絶望のふちにまで追いやったその
「捨てて帰りたいなぁ」
『おいおい、せっかく盗んだんだから、ちゃんと後処理までやれよ』
「言ってみただけ」
本当に捨てていきかねない声で、クリスは返す。
王冠を目の高さまで持ち上げたとき南西の空が明るくなるのが見えた。
「あ!」
クリスが息をのむ。
来るときは別段いつもとなんら変わりはなかった。しかし今は空がオレンジ色に染まり、ゆらゆらと揺れている。
『おい、ダメだぞ!』
クリストルが幾分厳しい声を出す。
『今は仕事中だ。時計塔に帰るのが最優先だ』
「うん、わかってる!」
『って、全然わかってねぇ!!』
真紅の石が悲鳴をあげる。少女が方向を変えたのだ。
『西だ、西!! そっちじゃないだろ!?』
「うん!」
『返事だけか!?』
「うん!!」
『だぁあァ!!』
南西の空が刻一刻と明るくなっている。
「チェスター修道院だ!」
大きく揺れる炎。風で流れた火の粉が天を焦がす。
人々が窓を開け、燃え盛るチェスター修道院を指差した。130年前に建てられた木製の修道院は20人近い修道女が暮らしている。その木製の建物は、老朽化が目立ち近く建て直される予定であった。
グラハム美術館同様、ここでも野次馬たちがぞろぞろと顔を覗かせ始めている。
「危ないから近づいちゃダメです!」
興味津々で修道院に押しかける野次馬たちに、クリスは大声で注意を呼びかける。野次馬たちは一斉に少女怪盗を見上げ、歓声をあげた。
「崩れたら大怪我しますから、近づいちゃダメですよ!!」
クリスの呼びかけを聞いているのかいないのか、野次馬たちは大きく手をふっている。クリスの手に持たれているのがシェリー王女の王冠だと知ると、野次馬たちはさらに活気付いてゆく。
その人だかりの向こうに、燃え盛る修道院に入っていこうとする警官がいた。
火のまわりが速い。
警官は一瞬ひるんだ。
「人が――」
まさかと思いつつ、クリスが修道院のすぐ近くの建物の屋根に移動する。熱気が頬をなでる。
「どうしたんですか!?」
クリスの声に警官は一瞬あたりを見渡した。
そしてすぐに純白の時計塔の怪盗の姿を見つけ、一瞬言葉をつまらせる。
「どうしたんですか!? まさか、まだ中に――」
クリスの言葉に、警官は小さく頷いた。
「修道女が一人、逃げ遅れたという通報が……」
汗びっしょりになりながら、警官は火の手から顔を守るようにしてドアに近づいていく。
「わかりました」
クリスは屋根を蹴った。
『バカ! 死ぬ気か!?』
「見捨てておけないよ」
飛び乗った修道院の屋根から熱気が伝わってくる。
時間がない。
人々の歓声なのか悲鳴なのかもわからない声を聞きながら、クリスは王冠を屋根の上に置き、倒立でもするかのように両手で体を持ち上げた。
その勢いを使って、すでに熱でガラスの割れてしまっている木製の窓に突っ込む。
木の割れる音と同時に膝に痛みが走る。
そして、外とは比べ物にならないほどの熱気と煙。
「わッ」
幸い火のない場所に着地できたが、スカートの裾が火をもらっていた。
クリスは慌てて火をはらい、涙目になる。
「この布防炎なんだ〜マルシアさんとバルバロさんにお礼言っとこ!」
クリスはほっと胸をなでおろす。でなければ、ひらひらのクリスの服はすぐさま火だるまになっていただろう。
『ヨユーだな、お前』
「い、いっぱいいっぱいデス!」
考えなしの少女の行動にクリストルは本気で呆れている。いつも色々と創意工夫を凝らしてくれているバルバロが気まぐれで防炎性の布を用意してくれなかったら、そしてそれをマルシアが裁縫してクリスに渡していなかったら、少女は確実に命を落としていたに違いない。
もちろん防炎は防炎で、必ず燃えないというわけではない。燃えにくいだけという話だ。気をつけなければいけないことには変わりはなかった。
『さっさと逃げ遅れ探せよ』
「うん」
少女はなるべく火のない場所を選んで走る。それでも熱気が少女の柔らかくみずみずしい肌を容赦なく撫でてゆく。
「熱いよぉッ」
『当たり前だ!!』
クリストルが声を荒げる。怒っているのだ。
『どんな酔狂だよ、ったく……』
ブツブツ言うその声に混じって、木の燃える音とは違う、まったく別の音が聞こえてきた。
咳き込むような音。
クリスはとっさに視線を走らせる。
「誰かいますか!?」
再び誰かが咳き込む。火と煙に包まれる廊下をぬけて、声のするドアを開けた。
ドアの向こうは白くけぶっている。白い煙の中に黒い煙も混じっている。長くそこにいることは危険だと、クリスはそう判断した。
身を低くして煙を避けるように歩くと、煙の奥に修道着を着た女の後ろ姿が見える。彼女は激しく咳き込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
とっさに女に駆け寄った。煙が濃い。早く救出しなければ、煙と炎に巻かれて命を落としかねない。
クリスは女の肩を抱く。妙に厚みがあると、そんな思いが胸を掠める。
女は激しく咳き込みながら青白い顔を上げた。
「え……?」
クリスは呆然と修道女の顔を見た。
年若い女なのか、老女なのかはどうでもいいと思っていた。人がいると警官が言ったから、燃え盛る修道院に入ったのだ。
修道女が一人逃げ遅れたと、警官はクリスに言った。
しかし、修道着に身を包んでいたのは精悍な顔をした男だった。顔も背格好も、普通にしていれば決して女と見間違うはずはない。それは誰がどう見ても修道着を窮屈に羽織っている紺色のつなぎを着た警官だった。
男はクリスの腕を容赦ない力でつかんで、にぃっと笑った。
「捕まえた」
青白い唇は、ゆっくりとそう吐き出した。