松明の明かりのもとで、少女が微笑んでいる。その手には、嘆きの石が埋め込まれたシェリー王女の王冠があった。
「出入り口をふさげ! 時計塔の怪盗の周りを囲め!!」
 ミヤツ刑事の怒鳴り声に、警官たちは瞬時に反応する。西と南の窓、そして天窓に人影が現れる。
 室内の石柱の影からは、どうやって隠れたのか首を傾げたくなる人数の警官が迅速に飛び出した。
「わッ」
 鬼気迫る警官の数は80人近い。さすがにクリスも驚いて小さな声をあげた。
『ずいぶんとまぁ……』
 赤い石は呆れたように言葉を失った。
「さぁもう逃げられないぞ」
 勝ち誇ったようにミヤツ刑事がにやりと笑っている。警官たちはクリスを囲むようにして、腰を低く落としながらじりじりと間合いを詰めてきた。
『相棒』
 ささやく石の声に、少女は小さく頷いた。
「うん、この美術館の最大の欠点――」
 トンっと少女が床を蹴る。
「利用させてもらいます」
 純白の影が、ひらりと宙を舞う。警官たちが唖然として虚空を見上げる。
 クリスは、その一つの顔に乗っかった。
「あ――」
 間の抜けた警官たちの声。同僚の顔の上に、少女怪盗がいる。
「馬鹿モン!! 捕まえろ!!」
 ミヤツ刑事の大絶叫に、警官たちはハッと我にかえって人津波となってひしめき合う。
 中心にいる少女は、近いようで遠い。手を伸ばしてその足を捕まえようにも、まるで幻であるかのように警官たちの上を跳び回っている。
 そう、クリスは警官たちの顔の床を跳んでいるのだ。
「遊んでる場合か!!?」
 真っ赤になってミヤツ刑事が怒鳴った。警官たちは必死で時計塔の怪盗を捕らえようと奮起しているが、それが逆効果になっていることに、彼らはまだ気付いてはいないのだ。
「落ち着け! それじゃ身動きがとれない!!」
 ササラも思わず声をあげた。ミヤツ刑事の脅しは、効果がありすぎた。
 一生がかかっている。
 怪盗は目の前。
 だから、捕まえなければ――
 そう彼らは思っているに違いない。どんなに窮屈で動きにくくても、そんなことにさえ気をはらえずに。
「いったん離れろ! 時計塔の怪盗は逃げられない!!」
 ササラの鋭い一言に、警官たちの動きがいっせいに止まる。室内には80人近い警官。出入り口は封鎖済み。
 すでに袋のネズミだ。
 ひしめき合っていた警官が、わずかに理性を取り戻す。
 その一刹那。
火傷やけどしないでね」
 少女の言葉とともに、今度は松明が宙を舞った。
「うわ!?」
 人垣の一部が散り散りになる。
 松明とともに宙を舞っていた少女が、再び警官の顔面に着地――間髪かんはつれずに跳んだ。
 どこに、と目をやった先にあったのは、石柱にかかげられていた松明。少女は何のためらいもなく、それを蹴り飛ばした。
 そして床に着地。
「おい、ヤバいぞ」
 ミヤツ刑事がうめいた。室内は悲鳴と怒声でパニック寸前だ。クリスは警官の手をかいくぐりながら、次々と松明を蹴り落としていく。
 室内が闇をはらむ。
 白い影が、再びふわりと宙を舞う。少女の白い足が弧を描いた瞬間、松明がまた一つ消える。
「落ち着け!!」
 条件は同じはずだった。少女怪盗も警官も、闇に包まれつつあるこの一室で動きが鈍くなるのは必至。
 それなのに、闇に白く浮かびあがる影はまったくスピードを落とすことなく警官の間を駆け抜ける。
「白いのを捕まえろ! それがクリスだ!!」
 ポケットらから懐中電灯を取り出し、ササラはクリスの姿を追う。――速い。柔軟に方向を変え、フェイントをかけ、しかし少女の速さは驚異的だった。
 クリスが跳ぶと同時に、松明がまた消える。
「クソッ!」
 ミヤツ刑事も慌てて懐中電灯を点ける。ササラ同様クリスを追うのだが、そのスピードにまったくついていけない。
 室内の異変に気付いた警官たちが、おのおの懐中電灯を片手に覗き込む。光の線が室内を幾重にも行き来している。そのどれもが、まともにクリスを捉えることができない。
 完璧な警備のはずだった。どんな怪盗でも、両手をあげざるを得ないと思っていた。
 しかし、少女はその期待を大きく裏切って宙を舞っている。
「お疲れ様でした」
 軽く息を弾ませたクリスは、なんと再び警官の顔面にいた。乗られている警官は、なにが起こっているのかまったくわからない様子で両手をばたつかせている。周りの警官たちは小さな怪盗に散々走り回らされ、酸欠状態で息も絶え絶えだった。
 大胆不敵な少女怪盗の片手には王冠が、もう片手にはたった一つだけ残された松明があった。
 光の線が少女怪盗に集中する。
 室内にまともに立っているのは、刑事と探偵と少女怪盗――そして、その怪盗を乗せている滑稽な警官のみ。
 クリスは大きく腕を振りかぶった。
 松明を持つ右腕を。
「よけてください!」
 大声で警告すると、西の窓に向かって投げた。
「よけるな!!」
 松明を投げると同時に走り出したクリスを見て、ミヤツ刑事は西の窓を守る警官に怒鳴りつける。
「うわぁあぁ」
 警官たちの耳に、ミヤツ刑事の声は届いていた。もちろん、ちゃんと聞こえてはいた。しかし、激しく燃える松明の火を受け取ろうと思う剛毅ごうきな人間は、残念ながらそこにはいなかった。
 警官たちが窓からどいた瞬間、松明が窓ガラスに当たり、少女がそれを突き破った。
「馬鹿野郎!!」
 ガラスの欠片が月光を受けて輝く。その美しい光景に溶け込むように、純白の少女が微笑んだ。
 ミヤツ刑事が窓から身を乗り出すと同時に、外からは大歓声が響く。
「クリスだ!」
 予告状の噂を聞きつけて、人々が集まってきている。その誰もが、時計塔の怪盗に見惚れた。闇夜に浮かぶ白い少女は、いつもどこか現実離れしている。怪盗としては華麗な手口での盗みではない。後日詳細を聞けば、皆が皆、思わず吹き出してしまうような盗み方をする。
 それが逆に時計塔の怪盗に親近感を抱かせる。
「おやすみなさい」
 少女は集まっていた野次馬に小さく手をふって屋根の向こうへ消えた。
「クソォ!!」
 ミヤツ刑事は白亜の建物にこぶしをふるう。
 野次馬の歓声が耳ざわりでならない。警察の威信はすでに地におちている。これ以上の失態は、もはや許されてはいなかったのに。
「ミヤツ刑事、行きましょう」
 ササラは足早にドアへ向かった。
「罠は仕掛けてある」
 低く鋭い声で、ササラは言った。
「罠?」
 ぐったりと座り込む警官たちを避けながら、ミヤツ刑事はササラに続いてドアを出た。
「クリスは逃げられません。――絶対に」
 知っているから。
 スクールにいたときからずっと知っている少女だから、ササラは彼女に罠をはる。
 彼女が決してのがれられない罠を周到に、確実に。
 自分らしくないことはわかっていた。しかし、もう手段は残されてはいない。
 少女には極刑が言い渡されている。現行犯で捕まれば、どんな凶悪犯でも泣きながら死を乞い続けるほどの苦痛が待っている。
 これ以上の罪を重ねて欲しくない。あの苦痛が少しでも軽くすむように――
 ただその一心で、一番非道な罠をはる。
「今日で最後だよ、時計塔の怪盗」
 ササラの指示のもと、グラハム美術館の警官たちがいっせいに動き始めた。

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