第二章 理解不能

  【二】

 もえぎは黄ばんだ本を広げて眉をしかめ、表紙を確認して「インド料理」とつぶやいてからもう一度文面を眺めた。しばらくじっと読んでから、テーブルの上に散乱している別の本へと視線を移す。
「オランダの家庭料理、韓国の定番料理、エジプトの……って、和食は?」
 麗二に手伝ってもらい図書室で集めた本は、どれもこれも足を踏み入れたことのない異国の香りを運んできた。まず出汁だしの取り方から勉強しようと思って意気込んでいた彼女は出鼻をくじかれがっくりと肩を落とす。
「もえぎさんの作った料理ならどれも美味しいですよ」
 もえぎはまだ一度もまともにキッチンに立っていないのだ。確証もなく麗二がそんな言葉を口にすると、もえぎはいっそう居たたまれなくなって項垂れる。もっとちゃんと勉強しておけばよかったと後悔する彼女の耳には、食材を刻む軽快な音が届いていた。
 台所に立つのは伊織だった。手伝いたいというもえぎの申し出に、彼女は気色ばんで睨みつけ、邪魔だと一蹴して相手にもしてくれない。麗二は相変わらず座っていればいいと言い、実際に何もできないのがわかっているため、もえぎはひたすら勉強と称して料理本を読んでいた。
 しかし、これは実践してこそ身になるものだ。本を読んだだけで料理が上手くなるはずがない。
「少しくらい、やらせてくれてもいいのに」
 忙しなく動き回る伊織の背を怨めしげに見つめてから本のページをめくる。テレビから流れてくるバラエティー番組の華やかな笑い声さえ耳障りになってきて、もえぎはさらに不機嫌になった。
 三ページめくったところで手を止め、もえぎはテレビを見ている麗二の横顔を盗み見た。顔の作りは確かに男性なのだが全体の雰囲気は中性的というなんとも型破りな男は、もえぎの悩みを知らずに楽しげに瞳を細めてテレビに見入っている。
 こうしているぶんには本当に「普通」の――「普通」と言い切るには難があっるくらい飛び抜けて整った容姿ではあるが、自らを鬼と表現することさえ除けばひとまず「普通」の人間だ。
 違和感はついて回っているが、納得できないほどではない。
「どうかしましたか」
 熱心にテレビを見ていたはずの男は、いつの間にかもえぎを見つめて微笑んでいた。なんとなくぎくりとして姿勢を正し、それから少し考え、彼女は放課後から続く疑問を口にした。
「どうして図書館に?」
「もえぎさんが歩いているのが廊下から見えたんですよ」
「……廊下、ですか」
「ええ。珍しい方角に行くので、迷ったのかと思って」
 なるほど、そういう理由なら追いかけてくれたのは善意ということだ。もえぎは入学してまだ二日目だ、慣れない学園内を歩き回っている姿を見て、麗二が心配したのもうなずける。
 しかし、もえぎは彼がさほど慌てていなかったことを知っている。
「あなたの行く場所なら、きっとすぐにわかりますよ」
 そんなふうに言われ、もえぎは余裕の笑みを浮かべる男を注視した。
「尾行してるんですか?」
「まさか。そういう能力なんです」
 どういう能力なんだと、もえぎはさらに不信感を募らせて彼を見る。いちいち理解できない言葉を並べる彼はこれといって注釈を入れる気もないようだったが、詳しく説明されてもわからないだろうと判断して、もえぎはそうそうに話題を変えた。
「じゃあもうひとつ。……麗二様」
 言ってから、彼女ははっとして口をつぐむ。家事全般に精を出す伊織は彼のことを「麗二様」としか呼ばないし、級友も同じく学校職員である彼のことを「麗二様」と呼ぶ。かろうじて響から彼の名字は聞いていたが、なんとなく聞き流してしまったせいで記憶にすらない。
 うっかり滑り出した言葉に羞恥を覚えてうつむくと、目の前の男は実に不思議そうな顔で「なにか」と尋ねてきた。
 どうやら様づけで呼ばれることに慣れてしまっているらしい。いったいどんな生まれなんだと胸中でうめいて、それから気を取り直して顔を上げた。
「私に隠し事をしていませんか」
 学園にたずさわること、とはあえて口にせずに相手の反応を見ると、彼は小首を傾げてしばらく考え込んだ。
 ――目が泳いでいる。いったん閉じたかと思うとまた開き、さらに何かを考えるように明後日の方向を眺め、また閉じて、再び開き――。
 そんなことを何度か繰り返して、たっぷり十分費やしてから、
「どれのことでしょう」
 満面の笑みでとんでもない質問をしてきた。生きていれば秘密の一つや二つ、あって当然ということはわかる。それが十や二十、重なってしまう人間がいてもそれはそれで仕方がないことだ。目の前の男がそういうタイプであるならそう割り切ってしまえばいい。
 だがしかし、そうわかっていても無性に腹が立ってきた。
「夫婦だったら隠し事はなしです!!」
 式を挙げたなら夫婦であるはずだ。一方的に押しつけられたこの立場を認めたわけではないが、誠意というものがまるで感じられない態度というものはそれ以上に受け入れがたい。
「なし、ですか?」
 麗二がきょとんと繰り返すと、もえぎは勢いよくうなずいた。
「当然です」
「……わかりました。でも、お互い理解するのはおいおいにしましょうね」
 不自然なほど喜んでいる麗二の姿には気づかず、もえぎは単純に彼から同意を得て胸を撫で下ろした。続けて結婚の取り消しを求めようと意気込んで顔を上げた瞬間、中華鍋が鼻っ面をかすめてテーブルの上に落ち、彼女は悲鳴を上げてのけぞった。隣を見れば、さっきまで台所で動き回っていたはずの伊織がいる。伊織は中華鍋の取ってから手をはずし、それをゆっくり胸の前で組んで仁王立ちした。
 今の話を聞かれたのだと知って、もえぎの顔から血の気が引いた。
「料理、できたんだけど?」
 見おろす眼差しに殺気が混じっている。朝までは自宅に帰る気満々で試行錯誤していた女が、夜には手のひらを返したように「夫婦」発言すれば、伊織でなくとも誤解するだろう。何かあったのだと詮索されている可能性は高い。
「ち、違うのよ」
 結婚自体反対なもえぎは、当然実家に帰るつもりでいる。だが、響の言葉が気がかりで、それゆえ麗二に探りを入れたのだ。
「そうじゃなくて……っ」
「刻印があるからって図にのってんじゃないよ? 求愛されれば、私にだってチャンスがあるんだから」
「求愛?」
 なんのことだと問う前に、伊織は中華鍋を手にして踵を返した。完全に怒らせてしまったせいでそれ以上口を開くこともできず、もえぎは肩を落として食器を並べるために重い腰を上げた。
 その日の夕飯はひどく味が悪かった。まずい、というのではない。いつも楽しげに笑う少女が口を閉ざすだけで、料理の味が落ちてしまった気がしたのだ。
「……本当に、好きなんだなぁ」
 もえぎは溜め息をつく。相手の一挙手一投足で心が揺れるほど、あんなふうに怒ったり沈んだりしてしまうほど、伊織は麗二のことが好きなのだろう。
 鬼ヶ里に来る前、もえぎにも気になる異性がいた。通学の途中でたびたび一緒になるだけの男の子だったが、いつか勇気を出して声をかけようと思っていた相手だった。
「私は、……好きじゃなかったのかな」
 友人に恋人ができるたび、ただ同じ位置に立ちたいがために焦って背伸びをしていたのかもしれない。好きだと思っていた男の子の顔すらよく思い出せない事実に気づき、もえぎは苦く笑った。
 夕食後、宿題を終わらせて湯船につかりながら一連の出来事を思い出す。唐突な婚礼、山中の全寮制の学校、そして夫≠ニなる鬼≠ニの同居生活に、予想外の少女の存在。
「私、これからどうすればいいんだろう」
 ただがむしゃらに帰りたいと駄々をこねていてるだけでは駄目なのだとわかった。級友にそれとなく相談してもこの異常事態に驚く者はひとりとしておらず、逆に奇異の目を向けられる始末なのだ。
「あ、私が家に帰って、伊織……ちゃんが、麗二様の花嫁になればいいんだ」
 家に帰ることはここに留まることよりはるかに困難だが、手段が皆無というわけではないはずだ。道があるのだから、最悪、歩いて町まで下りればいい。警察はあてにならないから他に頼るものが必要になるが、うまく実家まで帰り着けばあとは両親を説得すればいいのだ。
「麗二様が説得できなきゃヒッチハイク決定ね」
 大変そうだと項垂れた彼女は、すりガラスの向こうにもぞもぞと動く影を認めて目を見開いた。いくらすりガラス越しとはいえ見間違えるはずもない、それは確かに人の形――そして、薄ぼんやりと見える形は間違いなく麗二である。
「な、何してるんですか!?」
 裏返った声で叫んで湯船に沈むと、威勢よくすりガラスが開いて腰にタオルを巻いただけの麗二が現れた。湯煙の中、すがすがしい笑顔なのは結構なことだが、下心が丸見えなのはどうにも誤魔化しきれず、目元が下がりまくっている。
 彼は、いかにも自分が正しいと言わんばかりの口調で語った。
「だってもえぎさん、夕飯のときに夫婦だったら隠し事はなしと」
「お風呂いっしょに入るとは言ってません――!!」
「包み隠さずお見せしようかと思って」
「そういう心遣いは結構です!!」
「遠慮はご無用ですよ」
「遠慮なんかしてません!!」
 悦に入る笑顔で近づく男に悲鳴が漏れる。遊ばれているとは思ったが、混乱しすぎてそれどころではない。広めに作られた浴室の半ばまで来たところで、ふいに麗二が足を止めたのを見てもえぎはほっと安堵し――目の前でお約束のごとくはらりと落ちたタオルに、文字通り白くなった。
「おや」
 呑気な男がそうつぶやくのを聞いた直後、もえぎは身を乗り出して間近にあった手桶ておけを引っ掴んで大きく振りかぶった。
 あとはもう、無我夢中である。景気よく手桶が麗二の額にぶつかるのを確認して彼が倒れたすきに湯船から跳びだし、服をかき集めて絶叫しながら脱兎のごとく脱衣所を出た。
「い、いやー! もういやー!!」
 濡れた体にパジャマを着込み、廊下の途中にあるアンティークの電話に飛びついてダイヤルを回した。何度か聞こえるコール音に地団駄を踏んで待つこと数十秒、機械を通して確かに聞こえる父の声に、もえぎは半泣きになって訴えた。
「おおおおおおお、お父さま! あのひと変態です、絶対変態です!」
「んん? もえぎか? まあ落ち着きなさい。何があったんだい」
 のんびりとした声にもえぎは少しだけ苛立つ。娘のことが心配じゃないのかと怒鳴りたかったが、もともと麗二を信頼している父に何を言っても無駄であるとあきらめて、彼女は大きく深呼吸してからきつく受話器を握りしめて言葉を続けた。
「あのひと、お、お風呂に裸で入ってるんです!!」
 必死の訴えに、父は一瞬だけ沈黙した。
「そうだな。……いや、普通だろう。うん。もえぎ、慣れない環境で疲れてるんだな。父さん明日早いから、お前も早く休みなさい」
 ブツリと電話が切れた。
「お父さま――!?」
 無情な機械音を繰り返す受話器に悲鳴を上げ、もえぎはもう一度ダイヤルしようと指を伸ばし、そして溜め息とともにそれを引っ込めた。
 やっぱり前途多難らしい。
 受話器を電話に戻してぐったりとする。それから、浴室からなんの物音もしないことに不審を抱いてそっと中をのぞき込んだ。
 浴室の中央には、先刻見たままの格好で麗二が倒れていた。
「……死んでる?」
 真剣に首をひねって遠巻きに眺め、タオル片手に足音を忍ばせて近づき、とにかく目に毒な男の肢体を隠してからその胸が上下していることを確認して吐息をついた。しゃがみ込んで麗二を眺め、そっと手を伸ばして彼の髪に触れる。
「あ、たんこぶ」
 どうやら倒れたときに盛大にぶつけてしまったらしい。もえぎは割れたタイルにぎょっとし、中身は大丈夫なのかと不安になりながらも傷を消毒した。部屋に運ぼうかとも考えたが、彼女ひとりで運ぶには彼はあまりに長身で重い。どうしようかと考えあぐねたすえにタオルをかき集めて彼にかぶせてみた。
 翌日。
「なぜかお風呂で倒れてたんですが、何かありましたか?」
「さあ?」
 真顔で問いかける麗二に、もえぎは引きつった笑顔でそう返した。

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