第二章 理解不能

  【三】

 受話器を耳に押し当てて、麗二は溜息を漏らした。
「はいはい、わかってますよ」
 投げやりな返答に返ってきたのは罵声である。受話器を耳からやや離し、彼は眉間をゆっくりと揉みながら口を開いた。
「怒鳴らなくても聞こえてます。血圧が上がりますよ、もう年なんだから」
 追加で罵声が飛んでくる。他人ひとのことが言えるか、とわめき散らす主の顔を思い浮かべると苦笑しか漏れなかった。
「仕事はします。でも期待はしないでください。だいたい、私はもう一線を退いてるんですよ。いくら鬼頭≠ェ生まれたからって、便乗でなんとかなる話ではないでしょう。……だから何度も言うように、……ええ、最善を尽くすと言ってるんですよ」
 逃げ口上こうじょうに食らいついてくる相手に渋い顔を作る。まったく、年寄りはこれだから――とはさすがに言えず、やれやれと肩をすくめた。
 不満を訴える声に適当に返事をし、深く椅子に座り直して瞳を閉じた。白い世界が消えると眼裏によみがえったのは、人の手が一切加わっていない密林と呼ぶべき深い森――駆け回るのは獣と、そして三つのちいさな影だった。
 耳底に残る笑い声は、果たして誰のものであったのか。
 受話器から流れてきた刺々しい口調につられてうっすらと目を開けると、そこは過去の面影など欠片もない無機質な天井だけが続いていた。
「施設は閉鎖されてます。……だから、やる気の問題じゃないと何度も……。そんなに言うならご自分でどうぞ。どうせそこから出られもしないでしょうが」
 毒を含ませた声音でささやくと、さすがに相手も沈黙した。さらに絡んでくることを予測して待ちかまえたが、聞こえてきたのは意外にも麗二をねぎらう言葉だった。どうやら言い過ぎたと思っているらしい。
 麗二は深く息をついた。
 麗二はもともと隠居を決め込んで鬼ヶ里を離れた身だった。桜が荒れ狂った夜に華の名を持つ鬼が生まれなければ、あるいは一生、忌まわしい記憶しか残らないこの地を踏みしめることなどなかっただろう。
 呼び戻された理由は、たったひとつ。
「一族のために協力はします。文句は?」
 ない、と受話器越しに低い声が応えた。そして、挨拶もないまま電話が切れる。癇癪を起こして怒鳴るか、不機嫌になって黙るか――本当に昔からわかりやすい反応に半ば呆れながら、麗二もそっと受話器をおく。
「もとより未来などない一族ですがね」
 漏れたのは自嘲の言葉だった。未来などないとわかっていたのに、また娘に印を刻んだのだ。自責の念がないと言えば嘘になる。
 深く息を吐き出して長い足を組んだとき、数分前の再現のように電話が鳴り始めた。職員室とは別に用意されたそれは当然ながら保健室直通のものである。番号を知っているのは限られた者だけで、そのどれもが歓迎できない内容を伝えてくる。
 麗二はしばらく電話を眺め、切れないとわかると仕方なく受話器を握った。
 耳に押しあてると、切迫した声が耳朶を打った。
「なにか? ……え? 彼≠見失った? ――どこで」
 背もたれに預けていた体が自然と起きる。切れ切れの声はひどく苦しげに聞き馴染んだ県名をあげて謝罪の言葉を続けた。麗二は思考を巡らせる。近い、と思った。彼≠ェ消息を絶った県から鬼ヶ里まで車で数時間の距離だ。彼≠ェこれほど鬼ヶ里に近づいたことは今まで一度としてなかっただろう。なぜこの時期に、そんな疑問が不吉な胸騒ぎとともに瞬時にわき起こった。
「尾行にミスが? ……わかりました。とにかくあなたは休みなさい」
 短い命令に焦りの声が返ってくる。いつになく語調が乱れているのを聞き取って麗二は瞳を伏せた。
「いいから休みなさい。そこなら出石いずし医院が一番近い。一翼の補佐と言えば通じるように手配しておきます。……大丈夫ですよ。ここには私の庇護翼がいますから。……ええ、まだちょっと頼りないですけどねぇ。……ああ、それは無理です。彼≠ニは戦えません」
 くすりと笑って続ける。
凝鬼こごりおにとやり合ったら十中八九、殺されます」
 死体が二つ、打ち捨てられることになる。それを予期して「私が出ましょう」と提案すると、受話器越しの若い男は先刻よりも一層焦った声を発した。
「……不満ですか? 当たり前って……私はまだ現役ですが。いえいえ、本当ですよ」
 見事に裏返った声に柳眉を寄せて抗議してみるが、あなたが戦うならオレが行きます、とまで言われてしまっては、それ以上、強く発言することができなかった。
「わかりました、大人しくしてます。それじゃ、くれぐれも安静に」
 最後の言葉は堪えたらしく素直な返答が来た。それがなんとなく嬉しくて麗二が通話の切れた受話器を眺めていると、
「恋人からですか」
 不可解な質問が向けられた。
「いえ、息子です」
 九番目の、と何気なく続けながら受話器を戻すと、いつのまにやってきたのか、開け放たれた保健室のドアの前に立つもえぎは双眸を大きく見開いて麗二を凝視した。麗二は時計を見上げ、熱心に話し込んでいる間に休み時間に入っていたことを知った。
「息子……」
「今度紹介しますね。しばらくは帰ってこない予定だったんですが、近くにいるようなんで」
「九番目って」
「もえぎさんを守っていた一樹さんは十二番目で、拓海さんは十五番目なんですけどね。……あ、何か用事でもありました?」
 にこやかに問いかけると肩を小刻みに震わせたもえぎがきつい眼差しを向けてきた。
「私は、何番目の花嫁ですか?」
「七番目です」
 なぜそんなことを知りたがるのかと不思議に思いながらも、麗二はあっさりと禁句を口にする。その瞬間、もえぎは大きく腕を振りかぶっていた。何かを持っていると思った直後、脳天に強い衝撃が加わって立ち上がりかけた麗二の体はそのまま椅子に沈みなおした。
「麗二様の馬鹿――!!」
 どうやらもえぎはすさまじくコントロールがいいらしい。さすがにまずいことを言ったと自覚した麗二は慌てて立ち上がったのだが、直後、大きく歪んだ視界に驚いて動きをとめた。
「不覚……っ」
 実は昨日も同じ状態だったのだが、そうとは知らない彼はうなりながら間近にある机に手をつき、視線だけを移動させて凶器となった物を見つけて手を伸ばした。ぐったりとしたまま椅子に座り直し、手の中にすっぽり収まるほど小さな白いプラスチック製のケースを眺める。
 そして、次にドアを見る。勢いよく駆けだした少女は残念ながら戻ってくる気配がなかった。
 麗二はケースを手の中で転がし、不審なところがないのを確かめて蓋を開けて微苦笑した。
 鼻につくのは軟膏独特のにおいである。すぐに用途が知れた。
「参りましたねぇ」
 医者のために薬を持ってくる娘などはじめてだ。相当怒っているだろうその目に涙すら溜まっていたことを思い出して目を閉じる。
「本当に……参ります」
 こびりついていた子供の笑い声は消え、少女の軽やかな足音だけがかすかに響いていた。

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