第二章 理解不能

  【一】

「あんた、本当に料理できないの? ああもう、邪魔!!」
 高く澄んだ声は、おろおろと立ち尽くすもえぎに鋭く突き刺さる。コンロに手を伸ばすと伊織に体を押され、もえぎはよろめきながらその場をゆずるしかなかった。
「伊織さんの腕前はたいしたものですよ。ここに掛けてお待ちなさい」
 麗二はのんびりと微笑みながら、そんな言葉とともに彼の目の前にある椅子を指さした。悪気はないのだろう。嫌味でも、ないのだろう。だが、年下の少女にふんと挑発的に鼻で笑われてしまっては、大人しく引き下がるわけにはいかない。
 ――はずだった。
「……料理なんて全然できない」
 もえぎは肩を落としてうめく。毎朝毎晩、実家に帰るまでああして嫌味を言われ続けるのかと思うと気が重くなった。警察に電話をしても、それを取るのが鬼の関係者――つまるところ麗二の身内≠ナあるのなら、状況の改善にはほど遠いに違いない。自宅に電話をしてもまるで取り合ってもらえず、友人に電話をしても驚きと祝福を返される始末だ。もえぎの耳には、昨日聞いた教師の独り言が鮮明によみがえっていた。確かに「根回しは完璧」なのだ。
 もえぎはもう一度、重い息を吐き出した。
「悩み事?」
 不意に隣から声がかかる。
「相談にのろうか」
 楽しげな男の声には妙な含みがあった。はっと目を見開き、もえぎはざわめく教室をぐるりと眺めてからはじめて授業が終わったことを知る。登校してから放課後までほとんど上の空だった彼女は、改めて隣の席に着いている男――響を見た。
「……本当に相談、のってくれるの?」
 彼も麗二の身内≠ネのだろうかと警戒しながら尋ねると、わずかに肩をすくめられた。
「その価値があれば」
 嫌な返答だ。終始親しげな笑みを浮かべているが、馴れ合おうとしているのでないことだけははっきりとわかる。こういう男は信用しないほうがいい、と、もえぎは自らに言い聞かせた。ここら辺の判断が利くのは父の交友関係の広さが背景にある。類稀な観察眼を持つ父の講釈を好んで聞いていたもえぎは、自然と父と同じ目線でものを見る努力をするようになっていた。
「言わないのか?」
「一人でなんとかする」
 からかうような光を宿した目を細める響を一瞥し、もえぎは筆記具を真新しい鞄にしまった。手を突っ込んで机を探り、奥でしわくちゃになったプリントを引っ張り出して丁寧に広げ、溜め息とともにたたんで鞄に押し込む。
 それから興味深そうな視線をよこす響を見た。
「図書室ってどこ?」
 この質問は予想外だったらしい。彼は少しだけ目を見開き、それから意外に男らしい指で廊下をさす。
「校舎の脇にもうひとつ建物がある、そこの二階の一番北。案内しようか?」
「ひとりで行けます」
「文学少女?」
「関係ないでしょ」
 まさか料理の本が欲しいとも言えず、もえぎは鞄を手に立ち上がった。
「佐原さん」
 歩き出した途端、響は低く言葉をかけてきた。軽い口調ではなく、まるで何かを迷っているような――なんとなく、彼らしくないと思える声音だった。
 もえぎは立ち止まって彼を見た。
「智の高槻には近づきすぎないほうがいい。あれはたぶん、この学園の――」


 もえぎは響に言われたとおり、いったん昇降口で靴に履き替え、校舎の西側を通って建物の裏側に位置する場所へ移動した。異様に黒い建造物の背後には、これまた異様に黒い建造物がある。もっと明るい色にすればいいのに、と胸中で文句をつけ、もえぎは幾分ちいさな建物を見上げた。
 右手にはヴィーナス、ペルセウスなどお馴染みの胸像が並ぶ棚を備え付けた部屋が見えた。いかにも作り物然とした果物が丸いテーブルに置かれキャンパスが無造作に放置されているさまは、まさに美術室そのものである。生徒が作ったのであろう不格好な胸像を見て、もえぎはちいさく笑いながら開け放たれた玄関へと進む。
 左手は長テーブルに大きな流し台が設置されていた。棚の奥にボウルが整頓されているのを見て、調理室だと判断する。奥は社会科室らしく、これ見よがしに世界地図が貼ってあった。
「こっちも授業で使うのかしら」
 掃除の手が行き届いていることは建物の外からも知れる。玄関に入ると左右に下駄箱があり、茶色いスリッパがぎっしりと並んでいた。もえぎはその一つに履き替えるとまっすぐ顔をあげる。くれない色の上品な絨毯の向こうには階上へあがるための階段が伸びていた。足を踏み出すと、床が気味悪く鳴く。一瞬身をすくめ、もえぎは足元を見て嘆息した。
 響が妙なことを言ったから、それが心のどこかに引っかかっているに違いない。
「馬鹿みたい、信じてどうするの」
 相手が信用にるだけの相手かも見極められないうちに、むやみに言葉を鵜呑みにするものではない。――いや、そもそも、他人の言葉自体を素直に受け入れるべきではないのだ。
 ここにはきっと、嘘つきがいっぱいいるのだから。
「だいたい鬼ってなによ。私とどこが違うのよ」
 むっと口をへの字にして、もえぎは大股で歩き出した。口でどれだけ言われても違和感ばかりが大きくなり、結局、それに対して納得できる答えは何ひとつ返ってこない。響の言葉も伊織の言葉も、そして麗二の言葉でさえ、もえぎにとってはどれもが等しく要領を得ないものばかりだった。
「……変な宗教かしら」
 うーんと唸り声をあげて階段を登りきった彼女は、「図書室」と白い文字を刻んだ札を見つけて体の向きを変える。女子高では、図書室というのは意外なほど居心地のいい生徒たちのたまり場だった。けれど鬼ヶ里はそうではなく、室内には生徒の姿どころか委員の姿さえない。
 もえぎは施錠されていないドアを静かに開け、その隙間から首を突っ込んで中をうかがい、もう一度唸り声を上げてから室内へと滑り込む。こごってまとわりつく空気がひどく不快で柳眉を寄せたが、彼女は出入り口にある新書のコーナーを見て意を決し、そのまま目的の本を探し始めた。
 書架は正面の壁と窓以外のすべてを埋めていた。多岐にわたる書物を収めた書架が立ち並ぶ様子は圧巻で、もえぎは何度も足を止めて辺りを見渡した。
「すごい量」
 奥をのぞいて感心する。どこまでも続くのではないかと錯覚するほどの本を眺め、知った作家の著書を見つけて思わず手を伸ばした。
「あ、これ。読みたかった本」
 ぱらりと開いてから、はっとした。こんなところで喜々として書物を漁っていたら確実に目的を見失ってしまう。後ろ髪引かれながらそっと本を元の場所に戻し、もえぎは小さく息を吐き出してから首をひねった。
「料理の本、料理の本――なんでここって、図書委員がいないのかしら」
 そこまで言って、これほど広い図書室なら書架案内の地図ぐらいあるのではと思い至った。彼女は慌ててもと来た通路を戻り、カウンターにたどり着くと喜びの声を上げる。カウンターには黄ばんだ書架案内の紙が貼り付けてあった。
 指で辿りながら目的の書架を探し、右の一画に世界の食材というコーナーとともに料理の本があることを確認する。いくら付け焼き刃でも、これから夕飯まで勉強すれば今までのような失態だけは免れるかもしれない。もえぎは淡い希望を抱きながら顔を上げ、それからカウンターの奥にドアがあること、そのドアが開いていることに気づいて目を瞬いた。
 図書室に隣接しているのなら図書準備室なのだろう。間隙から覗くのは、建物と同様に黒い書架だった。もえぎは振り返って別のものと見比べ、それがずいぶん年代物であると判断して歩き出した。
 妙に気にかかる。準備室に置かれた本なら、まだ貸し出し用に整理される前のものかも知れない。近づいてドアを押し開けると、図書室の中以上にその空気がよどんでいることがわかった。大きな窓が左手にあるというのに部屋自体が不思議なほど暗く、ぬらりと大気が蠢いてまとわりついてきた。
「……なに……?」
 ぎっしりと本のつまった黒い書架にはガラス戸がはまり、古い南京錠が傾いてぶら下がっていた。陳列前の本というわけではないらしい。吸い寄せられるように指を伸ばす。かすれて読めないものも多くあったが、背表紙には共通の文字が刻まれていた。
 いわく、『鬼』の一字。
「鬼ヶ里略式年表、鬼の生態、鬼骨形成法、鬼の造血と人の関わり? ……なにこの偏った本棚。あ、鬼の花嫁」
 黒い本には金の文字が仰々しくつづられている。指先でたどっているうちに唯一耳馴染みのある単語を見つけ、もえぎは動きをとめてさらに書架に近づいた。
 何かわかるかもしれない。
 純粋な探求心に突き動かされ、鍵に触れた――直後、ふっと首元を熱い風が通りすぎた。
「こんなところで悪戯ですか?」
 どっと心臓が鳴り、体が後方に引き寄せられる。悲鳴を上げそうになる口は、流れるように優美な仕草で近づいてきた手にあっさりと塞がれた。
「準備室は一般生徒の出入りが禁止されています。誰かが施錠を忘れたようですね」
 ささやきが首元に当たり、ぞわっと鳥肌が立った。身をかがめながら後ろから抱きすくめていたのは、もはや確認するまでもない男である。
「何するんですか!?」
 大きな手が口から離れた瞬間、もえぎは悲鳴を上げながら体をひねり、首を押さえて真っ赤な顔のままきょとんとして立っている麗二を睨み付けた。
「私はここに本を探しに来ただけです! 悪戯なんてしてません!」
「本ですか」
「そうです、料理の――」
 言って、はたと口を閉じる。
「……料理の本ですか」
 口元を緩め、ついでに目尻まで下げた男の顔がなんだか無性に腹立たしくて、もえぎは口をつぐんだ。背後にある書架に興味を惹かれたが、まるで何事もなかったかのように準備室から出て行く麗二を見て、もえぎもそれにならい歩き出した。
 ――智の。
 唐突に響の言葉を思い出し、もえぎは白衣に包まれた背を見つめた。響はもえぎに校舎の西側を通って行けと指示した。あのときはそれが近道だと思って素直に従ったが、その順路で行けば、校舎の東に位置する保健室からは完全な死角になるはずだ。
 麗二がこんな場所にいるはずがない。もえぎは窓から外を確認し、そう確信を得る。
 では、なぜ彼がここにいるのか。
 ふっと背後に視線を走らせてから、もえぎは瞳を伏せた。
 ひっかかる。なぜだかわからないが、ひどく気にかかる。
 響の言葉は冗談とは思えないものを含み、その場に似つかわしくもなく不自然なほど緊迫していた。
 短く息を吐き出してもえぎは双眸を開き、白い背中を見つめて響の言葉を繰り返した。
「智の高槻には、近づきすぎないほうがいい」
 ――あれはたぶん、この学園の闇≠サのものだから。

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