第一章  ありえない始まり

  【三】

 目を開けた直後、落胆が唇を割った。
 あれは夢だ、きっと夢だ、次に目覚めたときにはいつも通りなんの変哲もない現実が戻ってくると自分に言い聞かせて眠りに落ちたのだが、目を開ければなんのとこはない、昨日見たのと同じ光景があった。
 広い部屋にやけに大きなベッド、シンプルなテーブルにそろいのソファー、テレビに収納棚、姿見に観葉植物。本当に腹が立つくらい昨日と同じ様相だった。窓から見えるのは鬱蒼と生い茂る木々、すでに落胆を通り越して絶望したくなる光景だ。
「お父さまもお母さまも大嫌い」
 むくりと起き上がって開口一番そう吐き出した。麗二は、確かに顔はよかった。結婚式にあれだけの人数から祝福されるなら、きっとそれなりの人格者か著名人か、もしくは金持ちなのだろう。父が選び、両親そろって納得しているなら将来は保障されたも同然かもしれない。
 だが、問題はそこではない。
 好きでもない相手と一方的な約束で結婚など、あまりに強引だ。そのせいで、将来は純白のウェディングドレスを身にまとって友人に祝福されながら大好きな人と将来を誓い合う――そんなささやかな夢さえ完全に消えうせてしまった。
「男は顔じゃない、絶対に顔や財力じゃない」
 自己暗示のようにぼそぼそと繰り返し、ベッドから降りた。ひどく気が重くて部屋から出たくもないくらいだが、父が口にした「転校」という言葉を思い出し、とにかく制服に着替えなければと生真面目に考える。
 異性に免疫がない彼女は不安になりながらドアを開け、明らかに飛びぬけた行動をする男を警戒し、ドアの隙間から誰もいないことを確認して吐息をついた。
 そして、目に付いたものにちいさく声をあげた。
「そうだ! 警察!!」
 いっそ通報してしまえば話は早い。未成年がこんな山中につれてこられ、いきなり結婚させられたのだ。明らかに保護対象だし、紙面を飾りかねないできごとだろう。両親は嘆くだろうが知ったことかと言わんばかりに、もえぎはアンティークの電話に飛びついた。
 受話器をはずして耳に押し当てると、なじみのある機械音が聞こえて安堵した。なぜ昨日こんな簡単なことに気づかなかったのかと呆れながら、落ち着いた色目のダイヤルをゆっくりと回す。どう説明しようか電話を眺め思案にくれていると、白いフックに子供の指が伸び、もえぎがとめる間もなくそれを押した。
「ひゃくとーばん?」
 驚くもえぎの耳にそんな言葉が飛び込んできた。
「その番号は、一番近くの警察に連絡が入るんだよ、知らないの? 近くっていったら、町にいる鬼の関係者が取るに決まってるじゃないか」
 高い声には似合わない、ゆったりとした口調だった。見れば割烹着かっぽうぎを着てさいばしを持った少女がひとり、人を小馬鹿にしたような顔でもえぎの隣に立っている。
「そのくらい見当がつかないようじゃまだまだだねぇ。……あんた、麗二様の花嫁?」
 不躾な視線をもえぎにあて少女はそう尋ね、つづいてふんっと鼻を鳴らした。
「なんとか合格点だね」
 かちんと来る一言に、もえぎは少女を睨みつけた。
「誰?」
「私は麗二様の花嫁」
「麗二様のって――それ、どういう」
「朝っぱらから大きな声出さないで。麗二様が起きちゃうじゃないのさ、気のきかない女だね。ねえあんた、当然、料理はできるんだよねえ。まさかその歳で何もできないなんて言わないよねぇ?」
「で、できるに決まってるじゃない!」
 せせら笑う少女にもえぎはとっさに返したが、実際には料理どころか料理場にさえめったに入らなかった。そんなもえぎが過去に作ったものと言ったら、学校の調理実習で肉じゃがと味噌汁、それにサラダくらいのものだ。自主的に調理台の前に立ったのはバレンタインのチョコを作ったときくらいで、それも湯煎して型に流し込んだだけというていたらくである。
「ふーん。なんか下手そう」
 見透かすように返され、図星すぎてむっとした。もえぎが抗議のために口を開くと、背後からおや、という間延びした声が聞こえてきた。
「おはようございます、もえぎさん。それに、伊織さん。昨日は式で閉め出してしまってすみませんでした」
「麗二様!! 全然気にしてません。だって、しきたりなんでしょ?」
 憎らしい顔を瞬時に引っ込め、少女は花も恥らうほど可憐な笑顔を浮かべ麗二の謝罪を受けとめた。少女の容姿はかなりいい。小作りな顔に大きな瞳、すっと通った鼻筋にふっくらした可愛らしい唇、華奢ながらもはっきりと女≠感じさせる体つき――どれをとっても、魅力的に思える。おそらく、もえぎがいままで出会った中でも一二を争うほどの容姿を持つ少女だろう。
 しかし、中身は曲者くせものだ。
「この子は……」
 戸惑いながら振り返ると、濃紺に細い縦じまの入った渋い着物を呆れるほど見事に着くずした麗二が、眠そうにあくびをしながら立っている。朝からいやに眩しい男は寝ぼけまなこのままとろんと微笑んだ。それが妙に色っぽくて、もえぎはぎょっとして後退する。
 麗二は意に介さず割烹着姿の少女を見た。
「もえぎさん、ご紹介が遅れました。伊織さんはここに下宿してる子で」
「下宿じゃありません、花嫁修業です。麗二様の花嫁になるために頑張ってるんです」
「……そうでしたっけ」
 麗二がわずかに首を傾げると少女は大きく頷いた。
「そうですよ。麗二様、まだ眠いんでしょ? 昨日は夜遅くまで大変だったんですから……さきにお休みにならなかったんですか?」
「開宴が遅かったから仕方ありませんし、主賓がいないのもあれですからねぇ。お酌くらいは」
「じゃあもうちょっと寝ててください。支度ができたら呼びますから」
「はあ」
 伊織と呼ばれる少女に言われ、麗二はゆったりとした足取りで引き返していった。どうやら朝は弱いらしい。よろめいた彼は壁にぶつかって、驚いたように体勢を立て直し、またよろよろと歩いてドアの奥へと吸い込まれていった。
 もえぎは閉じたドアを茫然と見つめる。
 本当に、一体ぜんたいあの生き物はなんなんだ。朝から色香をふりまくなんて男のすることではない。いやそもそも、普通は標準装備はされていないのだから、まともな者がすることではないだろう。
「いつ見ても可愛いわ、寝起きの麗二様」
 今度はほうっと溜め息をつく隣の少女にぎょっとする。あれを見て「可愛い」の一言でくくってしまう神経もわからない。
 疑わしげに少女――伊織の顔を盗み見るとじろりと睨み返された。
「あ、あなたは」
「鳥羽伊織、十三歳。言っておくけど、認めたわけじゃないからね? 麗二様の花嫁は私。あんたになんかにあげないよ」
 ふんと鼻で笑った顔が挑発的だ。自分より三つも年下なのかと思った瞬間、無性に腹が立ってもえぎは伊織を睨む。
「べつに、私には関係ないわ」
「……ふうん。勝負する前から放棄しちゃうんだ。なよなよしてるのは見た目だけじゃないんだね」
「んな……!?」
「ああ、これじゃせっかく楽しみに待ってた麗二様が可哀想だ。料理もできないんじゃ仕方ないけどさ、女としては恥だよねぇ」
「で、できるって言ってるじゃない!!」
 ムッとして怒鳴ると、伊織が肩をすくめる。
「大声出さなくったって聞こえてるよ。しょうがないから手伝いくらいさせてやろうか」
 可憐な笑顔はやけに刺々しかった。


 もえぎが通うことになる学園は、山を切り崩した広大な土地の一角にあった。三階建てのそれは、黒い瓦屋根に黒塗りの壁が目を引く、おもむきのある建物であることを知った。校舎はおおむね二階建て、一部が一階建てという構造で、建物の中央にはセピア色の時計と大きな鐘がぶら下がっていた。
 広い運動場に講堂、プールまである。学園内には購買部があり、日用雑貨や食料、下手をするなら服まで販売している。校舎の南側には園芸部が力を入れる畑が広がり、それは学食で披露されることもあるらしい。
 もえぎは黒光りする廊下の途中で立ち止まり、あらためてとんでもないところに来たと再認識した。今後、寝泊まりする職員宿舎別棟――通称職棟≠ノいた伊織といいこの山中の建物といい、もえぎにとって何もかもが予想外だ。
 料理ができないことが早々にばれて小馬鹿にされたことを思い出し、もえぎは肩を落としながらとぼとぼと歩き出した。
「バスは土曜日に六回、日曜日に七回運行されるから町に行きたいときにはそれを使うように。平日はないから、有事の際にはわたしか用務員、もしくは自分の鬼に言いなさい」
 きっぱりと言い切る背中に、もえぎは当惑の視線を当てた。男は彼女が勉学に励むことになるクラスの担任教師である。一階の北に位置する職員室からすると、一年一組――もえぎが向かう教室は対角線上にある。きしむ階段をあがって一番はじめに見えたのが二年生の教室と、そこから顔を出す多くの生徒というのにはさすがに驚いた。
「おい、席に着け!」
 教師は怒鳴ると肩をすくめた。
「まったく、三翼の花嫁が来たとたんこの騒ぎだ。……さすがに根回しは完璧だな」
 溜め息まじりで前を行く教師はそう愚痴をこぼす。状況がさっぱりわからないもえぎは、相変わらず聞き慣れない単語に反感を覚えて口を開いたが、すぐに教室にたどり着いてしまったことで言及もできずに押し黙った。
「静粛に。今日から苦楽をともにする仲間だ。……いろいろわからないことも多いと思うから相談にのってやるように」
 教室に入るなり声を張りあげた教師はチョークを手にすると黒板にもえぎの名を書き、生徒に向き直ってから緊張した表情で入室してきた彼女へと視線を移した。おお、と低い歓声と同時にざわめきがさざなみのように広がった。
「席は、……ああ、後ろの窓際があいてるな。堀川、教科書見せてやれ」
 顎でしゃくると、空席の隣にかけていた学生が面倒くさそうに片手をあげた。ずいぶん横柄な態度だが、教師は注意することもなく出席をとって簡単に連絡事項を述べている。
「次、現国」
 もえぎが席についてほっと息をつくと、先刻の学生が声をかけてきた。
「初日に教材を用意しないのは気遣いの一端。話すきっかけを作るため――しかし、隣が男だとは思ってないだろうな」
 くすりと笑っている。もえぎはあらためて隣を見て、思わずその顔を凝視した。見渡せば整った容姿が異様に多いクラスであることなどすぐにわかるが、この男は飛びぬけている。麗二とはまた違った雰囲気だが、彼同様に人目を惹くのは確実だろう。男はもえぎの視線に気づいて教科書をめくっていた手をとめた。
「堀川だよ」
 唐突な言葉に驚くと、
「堀川響。よろしく、佐原さん」
 そう言って人のよさそうな笑みを向けてきた。しかし、何か妙な感じがする。華やかでありながら気安い雰囲気の笑顔だが、やけに引っかかる。もえぎが違和感を覚えて身じろぐと、響は頬杖をはずしてすいっと顔をよせてきた。
「珍しいな。これで結構その気にさせられるんだけど……やっぱり三翼の花嫁なだけはあるか。もう耐性がついてるなんて面白い」
 楽しげな一言に、もえぎは目を瞬いた。そしてやっぱり気になる言葉に食いつく。
「私、花嫁なんかじゃないわ。それに、その三翼って……っ」
「……なんだ、高槻の庇護翼は役立たずか」
「高槻?」
 繰り返すと、響は溜め息をついた。
「鬼の花嫁の刻印があるなら花嫁だ。あんたには高槻の刻印があるはずだ」
「鬼の花嫁?」
「胸元に、花のしるし」
 言われ、もえぎは思わず印のある場所を押さえた。どうして知っているのだと問うと、響はわずかに苦笑する。
「鬼の花嫁には生来あるものなんだよ」
 そう前置きして鬼という者について淡々と語り出す。人に似た、人ではない生き物――寿命が長く、力が強くて血の気が多い、本来なら群れるのを嫌う種族。女が生まれないため、人に寄生して生きているのだと語ったその横顔は、ほんの少し、寂しげにさえ見えた。鬼に選ばれ刻印を持った少女を鬼の花嫁と呼び、生まれて十六年間は庇護翼と呼ばれる鬼たちが守ること、そして十六歳の誕生日にここ鬼ヶ里に連れてきて、印を刻んだ鬼と婚姻を結ぶこと――何となく聞かされてきた背景が、ようやくひとつの情報としてもえぎの中に入ってくる。
「普通は庇護翼が説明するんだけどな」
「それ、どこまで本当?」
「……嘘だと思ってる?」
 質問すると、逆に質問を返されてもえぎは黙り込む。確かに奇妙なことが多いことは自覚していた。わりとトラブルに巻き込まれやすい体質なのに大事に至らなかったことや、近づいてくる男たちが気づけば姿を消していたこと、病気になっても近所の病院には行かず、必ず聞いたこともない病院の医院長がわざわざ往診に来たことなどを考えると、むしろ自分自身が奇異である可能性も否定できない状況なのだ。
 ますます嫌な展開だと気落ちしていると、そんなもえぎの姿を見て響が口を開いた。
「婚姻は形ばかりだから気にする必要はない」
「……でも」
「他に好きなヤツができれば、自分の鬼なんてとっとと捨てればいい。それが花嫁だけに許された特権。鬼はせいぜい好かれるように奮起するしかない。意外とおかしな生き物だろ」
 どうやら鬼の関係者には整った容姿の者が多いらしく、恋愛の駆け引きは割合に派手らしい。響の説明でそんなことを理解したもえぎはまじまじと隣の席を見た。
「……なに」
「え? その……意外と親切だなと思って」
「オレはいつでも親切だよ」
 そう言ってにっこり微笑んだ響は、いままでで一番胡散臭い顔をしていた。もう一度身をひくと、心外だと言わんばかりに大げさに溜め息をつかれる。
「お隣のよしみでそんなに警戒しなくてもいいだろ。もしかして、三翼の花嫁だからか?」
「そ、その三翼っていうのは」
 問いただすとあからさまに嫌な顔をされた。だが、すぐに答えが来た。
「三翼っていうのは鬼頭の庇護翼」
「鬼頭? それって誰」
「……説明したくない。三翼ってのは、高槻と士都麻と早咲の三人。いまは一翼――高槻しか鬼ヶ里にいないけど」
「高槻?」
「昨日の婚礼の相手。いい男だったろ?」
 意味深に微笑まれた瞬間、横抱きにされてベッドまで運ばれたこと、口移しで水を飲まされたこと、手の甲にキスされたこと、さらに今朝方の、無駄に色気をふりまく姿を思い出して一気に体温があがった。
「あ、あんな恥ずかしい生き物は知りません――!!」
 凶悪に魅力的な笑顔で、卒倒してもおかしくないことを平然とやってのける――あれは絶対、未知の生命体だ。日本男児があんな不埒なことを平気でするなんて考えられない。いや、有り得ない。
 勢いよく立ち上がったもえぎは、背後で椅子が倒れた音を聞いてはっとした。
「佐原さんは、転校生でしたね」
 気づけば黒板には流麗な文章がならび、その前には痩せた男が一人、腕を組んで立っていた。教室内を見渡せば、誰もが教科書とノートを広げ、ペン片手に振り返っている。黒板の状態から、授業がはじまってかなりの時間が経過していることが知れた。
 白く汚れた指がぴっと窓を指さした。
「廊下は好きかい」
 端的な質問にもえぎは真っ赤になって項垂れる。
「好きじゃないです」
「よろしい。では、静かに授業を受けなさい」
 謝罪してすごすごと腰かけたもえぎは、吹き出した響を睨んでから溜め息をついた。
 転校初日から頭が痛い。
「いつになったら帰れるのかしら」
 すでにお披露目なるものは終わってしまっているが、麗二に結婚をあきらめさせて自宅へ帰ることが、もえぎのかかげる目標である。ここまで来たならきっちり納得の上で別れたほうがいいと自分に言い聞かせた。対等に話し合うためには、いちいち相手に質問していては格好がつかない。まずはここで見聞を広めておく必要があるのではないか。
「……そういえば、あの人って何やってるんだろ。学校関係者?」
 注意されたことなどすっかり忘れ、上の空で授業を受けながら首を傾げた。昨日泊まった職棟は学園の敷地内にある。敷地内には他に男子寮と女子寮があるのだが、寝泊まりしているのはすべて学園の関係者だった。となると、同じように敷地内にいる麗二もその一人なのだろう。
 そうして悶々と考えているうちに授業が終わり、校内を散策しようかと立ち上がったところで前触れなく色めき立つ級友たちに腕を引っ張られた。とめる間もなく連れて行かれたのはなぜか保健室である。体調は悪くないと返そうとしたもえぎは、ドアの向こうで艶然と微笑む保健医さんを見て軽くめまいを覚えた。
「いらっしゃいませ、もえぎさん。おや、顔色が悪いですね?」
 高槻麗二、性別男、年齢不詳、職業――魅惑の保健医さん。
 そして現在、佐原もえぎの旦那様。
「よろしければこの胸をお貸ししますが」
 周りの悲鳴はきっぱり無視を決め込んで我が道を爆走する迷惑な彼は、爽やかなんだかいかがわしいんだかよくわからない笑顔で両手を広げた。
 めまいが余計にひどくなる。
 前途多難な幕開けに、もえぎは人知れず頭を抱えた。

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