第一章  ありえない始まり

  【二】

 体が大きく揺れた。なに、とくぐもった声で尋ねると、着きました、という返事が来る。
 目を開けたもえぎはあくびをかみ殺し、不自然な姿勢で眠ったため硬くなった体をほぐしながら車窓を覗き、――そして、目を見張った。
 陽はすでに傾きはじめ、辺りは闇に包まれつつあった。いや、それ以上に彼女の目を釘付けにしたのは鬱蒼と生い茂る樹木の群れと、どっしりとかまえるレンガ造りの建物だった。
「ど、どこ?」
「鬼ヶ里です」
「……どこ?」
 そんな地名など聞いたことがない。もえぎは車窓から建物を見上げ、とんでもないところに来てしまったのではないかと、いまさらながらに後悔した。くっきりとした陰影を残しざわざわと乱れる木々が不安な心をあおるように揺れている。身震いしたもえぎは、しかし案じるような視線を感じてあきらめたように息をついた。残念なことに、彼らは悪人と言うほど悪人ではなく、むしろ謙虚で真面目で、しかももえぎが感心するくらい礼儀正しかった。お陰で、もえぎはこの状況にあってなお、八つ当たりすらできないのだ。
 もう一度小さく息をつき、ようやくドアを開けた。
 ひやりとした冷気が車内に流れ込む。もえぎの誕生日は十月だ。十月十九日、確かにそろそろ肌寒さを覚える時期ではある。だが、これほど明確に冬の訪れを感じる時期ではない。
「寒い」
「寒波が来てますから」
 拓海はそう言って笑い、身をすくめたもえぎの肩をコートで包む。寒波と口の中で繰り返し、もえぎは眉をひそめた。天気予報はいつも必要最小限しかチェックしないたちで、拓海の言葉だけでは状況が把握できなかった。
「こちらです」
 動きをとめたもえぎを促し、一樹が先導するように歩き出した。車内でわかったことは、一樹が無口なのに対し、拓海は照れ屋ではあるが饒舌ということ。そして、彼らが。
「……馬鹿みたい」
 ぽつりと口にすると、拓海がきょとんともえぎの顔を見た。そっと首をふってなんでもないと返し、開かれたドアへ向かう。足を踏み入れると、
「それじゃ、オレたちはここまでなので」
 と背後で声がした。
「え? その相手の人は?」
「式場で待ってます」
「……え? 式場?」
 惚けたように繰り返すと、長く続く廊下を駆けてくる女たちの姿が見えた。首をひねるとドアが閉じ、混乱するもえぎの腕に女たちの手が絡まってきた。
「あら、可愛い子」
「さすが麗二様の見立てだわ。お湯張ってある? 式まであと四時間ね、ギリギリかしら」
「じゃ、ちゃちゃっと体清めましょ。花嫁の髪が長いから、奥部屋のカツラ、右から順に何個か運んだほうがいいわね」
「控えの間の準備してくるね」
「ええ、お願い。それから花嫁にお茶の用意もね」
 駆け出す女は片手をあげた。
「……え?」
 そしてもえぎは、この状況が理解できずにぽかんと立ちつくす。浴室に引っ張られ、いきなり全裸に剥かれて強制的に体を清められ、真っ赤になって控えの間に連れて行かれたときには完全に憤怒していた。
「なんなんですか!」
 差し出されたお茶を払いのけて怒鳴ると、集まってきた女たちは本気で驚いたように目を丸くしている。それが余計に高ぶった神経を逆撫でした。
「やだわ、庇護翼からちゃんと説明聞いてないの?」
「説明なら車の中で聞きました! 鬼がどうとか、婚姻がどうとか、訳のわからない話ばっかり! 私、真剣に質問してたのに一つもまともな答えが返ってこなかったのよ!」
「……やっぱり荷が重かったんじゃない? 麗二様の庇護翼ってまだ若いって……全然説得できてないじゃない」
「本当ねぇ、困ったわ」
「ヒヒジジイはどこですか!?」
「……ひ?」
「だってそうでしょ!? すっごい高齢だって聞いたのよ。普通ならおじいちゃんだって、あの二人が言ってたの聞いたんだから! こんな無茶な結婚しないって、ちゃんと断るために、私、こ、こ、ここまで……っ」
 怒鳴っている途中で涙があふれた。車中であんなに我慢したのにこんなところで泣いてしまっては意味がないのだが、それでも高ぶった感情はどうしても抑えられない。何も知らずに何不自由なくぬくぬくと暮らしてきたツケがこれなのかと思うと、過去の自分さえ憎らしくなる。
「なのに、なんで笑ってるんですか……っ」
 苛立ちのまま怒鳴ると集まってきた女たちは口をつぐみ、互いの顔を見合わせている。ここにもやはり味方などいないのだ――そう感じると、怒りと同じくらい不安な心も膨らんで、たまらなく心細くなった。
「どうしたんですか?」
 周りにいる女たちを睨み付けていると、柔らかな声が背後からかかった。
「あ、麗二様」
 閉口していた女たちが瞬時に活気づく。もえぎは女の一人が口にした言葉に緊張を余儀なくされ、それでも身を固くしたままそろりそろりと振り返った。
「何か問題でも?」
 重ねられる問いかけに、女たちは恥じらうように頬を染めている。まるで今朝見た母の姿と同じである。不思議に思って男の足下に落としていた視線をゆっくりあげると、会話だけが妙に遠くから聞こえたような気がした。
「え、ええ、いえ、なんでもありません。花嫁がちょっと混乱してしまったようで」
「そうですか。……泣いていたのですか」
 ――なんだこの生き物は。
 もえぎは茫然と男の顔を見上げた。美というものに境界線はない。きっとないに違いない。背格好も声も、それは確かに男のものであるはずなのに、この場にいる誰よりも優美で秀麗な笑顔がそこにある。
 そして、それはまっすぐもえぎだけに向けられていた。
「私の花嫁は、愛らしく育ってくれたようですね」
 にっこりと微笑んで、音もなく近づいてきた男はそっともえぎの頬を濡らす涙をぬぐった。
「不安なことも多いでしょうが、すべて私に任せてください。悪いようにはしません。皆さん、よろしくお願いします」
 はじめの言葉をもえぎに、つづく言葉を女たちにかけ、彼は笑顔をばらまいて颯爽と部屋をあとにした。残されたのは女たちの熱い溜め息ばかりだ。茫然と目を見開いたもえぎは慌てて振り返り、彼が去っていったドアを指さした。
「あの人!?」
「麗二様。本当に、いつ見ても素敵……ああ、あなたが羨ましいわ」
「だって、高齢って……!?」
 落ち着き払ってはいるが、高齢と言われる年齢にはとても見えない容姿だ。どう見ても二十代半ばか、いっても後半だろう。車中でからかわれたのかと頭を抱えて考え込んでいると、強引に腕を引かれて椅子に腰かけさせられた。
「ちょっと、私はまだ……!!」
 抗議するために口を開いたもえぎは、打って変わって真剣な表情になった女たちに囲まれ気圧されして言葉を呑み込む。
「せっかく任せてくださったんだから、完璧にやるわよ!」
「そうね! 完璧にっ」
 もうすでに、もえぎに口を挟む余地などなかった。


 有無を言わさず着替えさせられた白無垢は、重くて動きづらくて気が滅入る。頭上を飾るカツラもやけに重くて、しかも妙な部分がでっぱっているようでじりじりと痛い。
「懐刀は?」
「あ、ここ。ほかに忘れ物ない? えーっと、お式の予定まで……ん、あと十五分。なかなかいいできばえね」
 そんな会話を上の空で聞きながら、もえぎが痛みに耐えかねて手をあげると、
「式はすぐに終わるからちょっと我慢してね。終わったら沐浴して普通の服に着替えられるから」
 非情な一言がかけられ、持ち上げた手は膝の上に戻された。
 怒りが痛みに拡散されている。気になって仕方ないもえぎはもぞもぞと体を揺すった。
「どのくらいですか?」
「んー、ほんの十分くらい式場にいればいいから。あとは出るも残るも、花嫁次第」
 十分ならなんとか我慢できそうだとひとり頷く。さっさと服を脱がないと、痛みのせいで気が散って思考さえまとまらない。
「歩くときは小股、顔は伏せ気味、きょろきょろしない。手は軽く前で重ねておいて。お式は杯をかわすだけの簡単なものだから難しいことなんてないわ」
「杯をかわす?」
「半分を麗二様が、半分をあなたが頂くの。誓いの言葉や書類は一切ないわ。これは形式的なお披露目の儀で、まあ言ってみれば披露宴のようなものだから」
 何もかもが一足飛びの展開にもえぎは混乱した。ただ、もう一度麗二に会ってちゃんと抗議をしなければならないということだけはわかっていたので、言われるまま赤絨毯のしかれた廊下を進み、式場とやらへ向かう。
 結婚はお互いの同意の上で成り立つものだ。ならばこの状況も、説得次第でいくらでも改善できるはず――もえぎは何度も胸の内でそう繰り返した。味方がいないなら逃げるのにも限界がある、ならば相手をうまく納得させて結婚を取りやめにすることの方が得策だ。
 もえぎは必死で思考をめぐらせる。だが前の襖が開き、その奥を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
 広い和室には対面する形で紋付はかま姿の男たちが腰をすえていた。何人いるのだろうと思いはしたがとても数える気になれないような人数だ。誰も彼もが上座を見つめ、驚いたように目を見張っている。
 もえぎが足を止めると、あたりがざわめきだした。
「なんとも愛らしい花嫁ですな」
「ああ、数年後が実に楽しみだ」
「さすがに目が高い」
「学園も華やかになる。あれでは他の鬼が放っておかんでしょう」
「求愛されるとでも? いやいや、三翼の一人がそんな失態は」
「確かに。しかし、まったくうらやましい限りだ」
 漏れ聞こえる会話にもえぎは顔を真っ赤にした。容姿は美少女としてもてはやされた母譲り、生き写しだとまで言われていた。だが、あからさまに褒める者は周りに一人としておらず、彼女自身も自分の容姿をさほど気にとめていなかった。どころか、父は母の方が数倍美しかったとしみじみ語るような家庭だった。
 それが、いまはこれである。
「もえぎさん、こちらに」
 ふっと目の前に手が伸びてきて、どうしていいのかわからない彼女はとっさにそれを掴んだ。そこで、その手が予想以上に硬いことに気づき、慌てて顔をあげる。
「本当にお美しい。私は果報者ですね」
 数時間前に見た笑顔が、もう一度華やかに微笑んでいる。美しいという言葉は、むしろ目の前にいる男のためにあるような言葉だろう。絶句して見つめているとそのまま手をひかれ、真っ白な座布団の上に導かれた。
 洋装の外観に反した和装の室内、そして居並ぶ男たちにすっかり臆したもえぎは、麗二の隣で書面を朗朗と読み上げる男の声すら聞こえず彫刻のように身動きひとつせず正座している。
 どのくらいそうしていたか、畳の目に視線を落としていた彼女の前に朱塗りの杯が唐突に差し出され、ぎょっとして顔をあげた。
「婚礼衣装、重いでしょう? もう少しの辛抱ですよ」
 どこから引っ張り出したんだと問いかけたくなるほど巨大な杯には澄んだ液体が揺れていた。光を反射して幾重にも弧を描くそれを凝視すると、麗二はさらに続ける。
「それをすべて飲み干したら着替えてもいいですから」
 それでこんな場所から逃げ出せるならやすいものだ。やや錯乱したもえぎは大きく頷いてから杯を受け取り、一息にそれをあおった。
「え? もえぎさん!?」
 慌てたのは誰の声だったか――瞬く間に腹に熱がこもり、視界が潤んだ。しかし、ここから逃げ出したい一心のもえぎは杯を畳に戻すと、そのまま立ち上がってざわめく室内を一瞥してからよろよろと歩き出した。
 視界が歪んでいる。おぼつかない足取りで廊下へ出て、もえぎはそのまままっすぐ進む。すると目の前にはいつの間にか壁が立ちはだかっていた。
「あれって、もしかしてお酒……?」
 ぺたりと壁に手を貼り付けるとその冷たさが妙に心地よかった。ふと横を見ると窓があり、外が涼しいということを思い出した彼女は鍵を開け、外気を取り入れるために窓を大きく開けはなった。
「気持ちいいー」
 想像通り、外は夕刻よりもさらに数段涼しくなっていた。しかし、緊張とアルコールですっかりのぼせてしまった彼女にはそれすらも心地いい。ほっと一息ついてから痛いカツラをはずすために手を頭上へ持っていき、何となく窓の外を覗きながらもぞもぞと手を動かした直後、前触れなく目の前が暗転した。
 ぐらりと体が揺れたのがわかった。
 まずい、と思ったのは一瞬だ。なんとか体を起こそうとしたが、カツラはもとより豪奢な着物はそれ以上に重く、さらに着慣れないこともあって上手く踏ん張ることができない。ふと体が軽くなったときには全身から血の気がひいた。
「い……っ」
「何をやってるんですか!?」
 暗転した世界がさらに暗くなり、体が大きく揺れた。どこかが痛いような気がしたがどこがどう痛いのかもわからず、衝撃に驚いた唇から小さな悲鳴だけがもれる。
「三階から転落したら、命を落とす場合もあるんですよ」
 頭上から厳しい声が降り、ひょいと体を抱き上げられる。混乱したもえぎは大人しくされるがままになり、真っ暗だった視界がわずかに明るくなったこと、そして冷気が去ったことだけを知った。なぜ視界が暗いままなのかとしばらく考えた彼女はそろりと手を上げ、綺麗に整えられていたはずのカツラが見事にずれていることに気づく。お陰で頭部に痛みはないが、しかしあまり恰好のいい姿ではないだろう。
「ちょっと待っててください」
 一言を残し、もえぎを降ろして気配が去っていく。もえぎは身じろぎした。今度は背中が痛かった。ベッドの上にいるらしいと気づいたが、起き上がるのが億劫でそのまま体を斜めにしてふたたび婚礼衣装――綿帽子に手をやった。
 とりあえずこれを取って、カツラもはずしたい。もぞもぞ動いているうちに気配が戻ってきて、溜め息をついた。
「脱ぐなら起きなさい。起き上がれますか?」
「んー」
「喉、渇いてます?」
「ん」
 渇くというほどではないが、確かに水分が欲しい状態なので次の質問には素直に頷いた。緩慢に動かしていた手を放して体を起こそうと力をこめると、唇に何か柔らかい感触が。
「んん!?」
 ぎょっとしたのもつかの間だ。目を見開いても視界はカツラと綿帽子で完全に遮断されている。だが、この感触が何であるのかわからないほど鈍くはない。慌てて間近にある体を引き離そうと手に触れたものを引っぱったが、腹が立つことにそれはびくともしなかった。それどころか顎をつかまれ口を開けさせられ、あっさりと液体を嚥下させられた。
 すでにもえぎの意思など完全に無視されている。
 ようやく解放されたもえぎは、体を起こすなりカツラといっしょに綿帽子を投げ捨て、真っ赤になりながらきっと目の前の男――麗二を睨みつけた。
「何をしたんですか!?」
「なにって、お水を、口移しで。もう一口いかがです?」
「そんな恥ずかしいこと恥ずかしげもなく言わないでください!」
「でも、ちゃんと質問には答えないと。ご馳走様でした」
「ご馳走なんて出してません! お水ください、コップごとです!!」
 着物が汚れることもかまわずに口をぬぐいながら手を差し出すと、グラスを持っていた麗二はやや呆気に取られた表情をしながらも素直にそれをもえぎに手渡した。受け取るなり一息にあおって、もえぎは深い溜め息をついてもう一度口をぬぐってグラスを突き出す。
「もう一杯持ってきましょうか?」
 質問に頷きかけたが慌てて首をふり、グラスを麗二に返してからベッドの上では場所が悪すぎると直感してそこから降り、近くにあったソファーに腰かけて姿勢を正した。
 たたずむ和装の男は、女たちが騒ぐのも納得できてしまうほど、相変わらずひどく優しげで秀麗な顔をしている。一瞬見とれかけたもえぎはもう一度首をふって、深呼吸をしてから口を開いた。
「親同士の決めた結婚は無効です」
「……親同士?」
「あなたも反対でしょう?」
「いえ、ちっとも。それに、親同士が決めたわけではなく、私は直接交渉してます。あんな素敵なご両親から生まれる女性です、反対するいわれなど」
 優しげに微笑む男は、しかし存外に強気な声色でそう告げる。
「予想通り――いえ、それ以上に育ってくれた。十六年を待っていたかいがありました」
「……いくつですか」
「え?」
「年齢です。いくつですか」
「さて。もう忘れてしまいました」
 にこやかに告げられたが違和感はぬぐえない。なにか大切なことを見落としているようで、それが妙に引っかかってもえぎは口をつぐんだ。だいたい、さっきのあの出来事だって、感覚からして落ちたのは間違いないのだが、なぜ無事なのかも疑問だ。
 麗二が助けてくれた、というのはわかる。でなければ確実に怪我を負う高さなのだから。
 しかし、ならば彼がまったくの無傷ということは納得できない。レンガ造りの建物は天井が高く、地上までは十メートル以上離れているのだ。女一人を抱きかかえたまま降りられる高度ではないし、ましてや婚礼衣装は非常に重く、重力も加算すればその負荷はかなりのものになるだろう。
 平然としているほうがおかしい。
「あなた、なんなんですか」
「……まったく、困った子たちだ。花嫁の説得を完全に失敗してるなんて」
「花嫁になった覚えはありません。私は、この結婚を取り消してもらうためにここに来たんです」
「それは無理ですよ。もうお披露目は終わってしまったんですから」
「婚姻届も出してません」
「私たちの中ではそんな形式的なものは不用なんです。けれど、それでも敬意をはらって人の法にのっとり結婚が許される年齢までは花嫁を親元へと預けます。あなたは十六歳になった――だから、鬼ヶ里へ来たんです」
「横暴です。犯罪よ」
「そうですね。でも、同意があれば問題ありません」
「同意なんてしてません」
 きつい口調で返すと、麗二はふと瞳を細めた。笑っているのかと思ったがそうではない。今になってようやく、もえぎは目の前にいるのが温和なだけの男でないことを悟った。
 全身が緊張でこわばっていく。どこか遠くで楽しげな声が聞こえてきたが、助けを求めるための声さえ出なかった。
「いいですか、よくお聞きなさい」
 麗二が近づく。ずいっと顔を寄せ、息がかかるほど間近からもえぎの瞳をのぞきこみ、彼は純白の婚礼衣装の胸元に手を這わせて言葉を続けた。
「あなたの肌には――ここには、私の印がある。これは単純に皮膚へ刻まれたものではなく、細胞そのものに作用してできた体の一部なのですよ。あなたが健やかな体をもって生きている限り、血肉と同様に再生し、けっして消えることはない。どんな手段を使ってもこの呪縛からは一生抜け出せません」
 確かにもえぎの胸元には生まれたときから奇妙な痣があった。それは一見すれば華のような、どうにも不自然なものだった。不思議に思って痣のことを両親に何度も尋ねたが、返ってくる言葉はいつも同じ。
「それはお前を幸せにするための目印なんだよ」
 同時に、人には見せてはならないとも言われていた。納得はできなかったが熱心に繰り返されたので、もえぎは痣のことを親しい友人にすら伝えず、修学旅行のときも理由をつけて入浴時間をずらすほど徹底して隠してきた。
 それを、なぜこの男が知っているのか。
 もえぎは息をのんで麗二を見つめた。
「これがある限り、あなたには平穏など訪れません。少なくとも、これから十数年は確実に。それが刻印の呪縛というものです。……いままで庇護翼があらゆる災厄からあなたを守ってきたことをご存知ですか? おや、これには気付きませんでしたか。結構。では、あの子たちもそれなりの働きをしたということですね。これからは庇護翼の守護がなくなる。以降、鬼ヶ里であなたを守るのは私の役目です。だから――」
 連ねられる言葉が理解できないもえぎは艶然たる笑顔をただ見つめた。笑みの形を作る唇がゆっくりと動く。
「素直に私に愛されなさい。いいですね?」
 魂まで蕩けそうな甘い声で囁かれ、アルコールのまわった脳がぐらりと揺れた気がした。意味を理解するのに数秒――気づけば明らかに距離を縮めた顔があり、もえぎは悲鳴をあげるよりも早く、両手で男を押しのけていた。
「おや、色仕掛けは通じませんか。意外と理性的ですね」
 拒絶されたことに気を悪くした様子もなく、けろりと麗二がつぶやく。
「あまり無理強いするのは趣味ではないので、今日はここまでですかねぇ。ではもえぎさん、明日から覚悟してください」
 やはり艶然と微笑んで、突っ張っていたもえぎの手を取りその甲に軽く口づける。
 今度こそ彼女は悲鳴をあげた。
「あ、お風呂は自由に使ってください。クローゼットに服が用意してありますのでお好きなのをどうぞ。――ベッドは、いずれご一緒しましょうね」
 彼女の夫≠ヘ満面に笑みを浮かべたままそんな言葉を残して部屋をあとにした。

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