第一章  ありえない始まり

  【一】

「ところで、もえぎ。お前に良縁があるんだ」
 旧家と言われて久しい佐原家の食卓で、柔和な笑顔を浮かべた父がそう切り出すと、母はナプキンでそっと口を拭いて姿勢を正した。もえぎは朝食の途中である手をいったん止めてきょとんとして父を見る。
「良縁?」
 お家柄なのかこの手の話題はあとを絶たない。その度に父がやんわりと断っているのを知っていたもえぎは、珍しくそんなことを口にする彼を怪訝な顔で凝視した。十六の誕生日を迎えた今日、というのも気にかかる。女子であれば法律ではすでに結婚を許される年齢なのだ。
「急にどうしたんですか」
「もえぎ、これは前々から決まっていたことなのよ。今日、迎えがくる約束でね」
「……なんの話ですか」
 要領を得ず、もえぎは次に母へ視線を投げる。なぜだか顔を赤らめた母は、気もそぞろで窓の外を眺めていた。父はというと、そんな母を見つめたまま複雑な表情で笑っているのみだ。
 不可解な――と思った彼女は、外から聞こえた物音に首を傾げる。玄関を開ける重い音に続いて廊下が騒がしくなったのを耳にし、もえぎは眉をしかめた。しかし、早朝の来客に不快な感情を抱いたのは彼女ひとりだけのようで、父も母も、そして朝食に立ち合う使用人たちも、これといって驚いたり慌てたり、ましてや不快にもならずにドアへと視線をそそぐ。
「どうかしたの?」
 声をひそめじっとドアを凝視する使用人に尋ねると、彼女は少し困ったような表情で笑った。返答はない。本来なら当然返ってくるべき言葉がないことで、もえぎはようやく判断する。この状況を予期できなかったのは、自分ただ一人なのだと。
 すぐにノックがあった。
「お迎えにあがりました、佐原もえぎさん」
 ドアを開けたのは、見慣れない制服を着たすらりとした長身の男と、同じ制服を着た小柄な少年――ともに整った容姿、あるいは美形と呼ばれる部類の人間だった。
「お迎え?」
 もえぎは硬い声で男の言葉を繰り返す。男が頷き口を開くと、言葉を発する前に父が立ち上がり、まるで旧知が訪れたように満面に笑みを浮かべて両手を広げた。
「江村一樹くんと黄逗拓海こうずたくみくんだね? 高槻先生から連絡を受けているよ。遠路はるばる、よく来てくれた」
「いえ、とんでもない」
「今までオレたち、こっちにいるのが主でしたから」
「ああそうだったね、いろいろ苦労をかけた。十六年前の約束、これでようやく果たせそうだ。娘をよろしくと高槻先生に伝えてくれないか」
「はい。かしこまりました」
 状況を把握できないもえぎだけが、丁寧に会釈をする一同に反し、ぽかんとした顔で椅子に腰かけていた。とりあえず、この件に自分が関わっているらしい――ということだけは理解した。そして、父の言葉の中から不穏な単語を抜き出し、あまり芳しくない状況であることに気づいて勢いよく立ち上がる。
「お父さま、なんのお話ですか!?」
「むかし言っただろ? お前には許嫁がいると」
「い――言いましたけど! あれは、他の縁談を断るための口実で……!!」
「わたしはそんなことは一度も言っていないよ。さあもえぎ、支度なさい。許嫁が首を長くしてお待ちだ」
 にこやかな父の言葉に唖然とした。そういえばここ最近、屋敷中が妙に騒がしく、どこか浮き足立っていたような。
「もえぎ、早くしなさい。麗二様がお待ちよ」
 ぽっと頬を染めた母を見て、もえぎの顔がみるみる引きつった。許嫁がいること、そしてその男から迎えが来たこと、さらにそれがもえぎの十六歳の誕生日当日であること――。
 本気だ、と直感した。軽い冗談ではなく、これは絶対本気で言ってるのだ。そう思うと背筋が冷たくなっていった。五つ年上の兄は自らに磨きをかけるため、海外の大手企業に就職し辣腕をふるっているというのに、妹であるもえぎは高校さえ卒業していない年齢でいきなり許嫁の話だ。
 ――否。
 許嫁の元から「迎え」に来たというなら、次の行動は。
「け、結婚は早すぎると思うのですが」
「十六歳なら法的に問題ないよ」
 探りを入れるための言葉ににこやかな返答がくると、ざっと血の気が引いた。やっぱりその気なのかと思った瞬間、もえぎは椅子から一歩横にずれた。
 生まれる前に決められた許嫁は「先生」と呼ばれる立場の男――では、確実に年上だ。懐かしい友を思い浮かべるような父と母の反応と、この件にまったく不安や不満を抱いていない点から察して、相手に絶大な信用をよせていることがわかる。
 父は中小企業とはいえ、会社を任された男だ。ときどき見かける来賓で、もえぎは父のめがねにかなった男たちのタイプを知っている。彼女の頭の中には、気難しい仏頂面の男と、恰幅のいい初老の男、痩せて神経質な男の顔がぐるぐると回っていた。
「い、嫌です!」
 遠路という言葉を胸の中で反芻し、もえぎは勢いよく首をふった。仕事となれば平気で一週間以上も家をあけ、海外にも出向く父がいう「遠路」が、けっして近い距離でないことなどわざわざ問うまでもない。こんな理不尽な理由で未来が勝手に決められ、レールが敷かれていくのかと自覚した瞬間、ひどく不快で惨めな気さえした。
 高校には、友人がいる。気の合う大切な友だ。通学に使うバスには気になる男の子もいた。それに何より、この家が――家族が、好きだったから。
「絶対に嫌です!!」
「大丈夫よ、もえぎ。絶対に気に入るわ。とっても素敵な方なのよ。もえぎが羨ましいわ」
「お母さま、なに言ってるんですか!? そういう問題じゃありません! 私、どう言われても行きませんから!!」
「まあ落ち着け。ものは試しだ、ちょっと転校するだけだと思って行ってみなさい」
「ちょっとじゃありません! 勝手なこと言わないで」
 叫ぶなりもえぎは父を睨み付けた。
「絶対に結婚なんてしません! 私のことは私が決めます。学校に遅れるので失礼します」
 訴えは悲鳴になり、気付けば涙声に変化していた。困惑するように向けられた視線に紅潮した頬はさらに赤くなり、もえぎは居たたまれなくなって視線を落とし逃げるように歩き出す。そして、ドアの前に立つ男たちに気付いて足を止め、涙で潤んだ瞳をつり上げた。
「そこ、どいてください」
 情けないことに感情が高ぶりすぎて声が震えた。これ以上の醜態はさらすまいと口を引き結んで睨むと、彼らは当惑の体で立ちつくし、お互いの顔を見合わせてから意を決して深々と頭をさげた。
「いっしょに来てください」
「行かないって、何度も――」
「来てください。ずっとあなたを待っているひとがいるんです」
「そんなこと私に関係ありません。私は行かないって言ってるんです。結婚する気もありません。帰ってその人にそう伝えてください」
 苛立ちに語調がきつくなる。声を荒げるとこらえていた涙がこぼれ落ち、もえぎは慌ててそれをぬぐった。
「あの……本当に……本当に嫌なら、オレたちが必ず守ります」
 じっと黙っていた少年が、躊躇いがちに口を開く。
「あなたが望むなら、責任を持ってここへ連れて帰ります」
「拓海」
「でも、花嫁を悲しませるわけにはいかないよ」
「……それは……けど、麗二が」
「う……うん。説得、大変そうだよね。今からめげそう」
 もごもごと語り、拓海と呼ばれた少年はうつむいた。もえぎはもう一度濡れた目をこすり、背後から自分を加勢する気配が一切伝わってこないのを確認してきゅっと唇を噛んだ。両親ですら、この馬鹿げた話を甘受――いやむしろ、黙諾しているのだ。
 ここにいても助けなどなく、その上、迎えとしてやってきた二人は生真面目そうでとてもこのまま素直に帰ってくれるとは思えなかった。だったら、ここで子供のようにだだをこねてもなんの解決にもならないだろう。
 この場合、もっとも有効な方法は――。
「その人はどちらに?」
 もえぎは二人を押しのけて廊下へ出ると、震える声を必死で押さえてそう尋ねた。

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