プロローグ

 買ったばかりの雑誌に目を通していると、トレイに湯飲みを二つ乗せた神無がキッチンから出て近づいてきた。
「あら、言ってくだされば私が淹れましたのに」
 もえぎが本を置いて立ち上がると、はにかむように神無が笑う。料理の腕もさることながら、神無はお茶を淹れるのもうまい。お茶をもっとも美味しくいれる適温というものを理解し、手本どおりに淹れるからだろう。しかし、葉にあわせて微妙に淹れ方を変えることも知っている。日本茶好きな麗二が認めるのも頷けた。
「ありがとうございます」
 いそいそとテーブルに湯飲みが置かれると、もえぎは腰を落ち着けて軽く頭をさげ手を伸ばした。
 神無はテーブルをはさんだ対面するソファーに腰をおろし、もえぎが広げていた雑誌に視線を落とす。カラフルな紙面にはぬいぐるみや淡い色彩の動物のイラストが踊っていた。
「もうすぐ三ヶ月でしょう? そろそろ買い揃えはじめようかと思って」
 気が早いというのは重々承知しているが、楽しみでしかたがないのも事実。もえぎは暇を見つけてはあれやこれやと本を買いあさり、神無以上に熱心に読みふけっていた。ちなみに、当初かかっていた費用はすべて麗二の口座から引き落とされていた。ここら辺でグダグダと文句を言わないのは彼ら一族の習性らしく、車を購入するときでさえ、事故の心配こそすれ多額の出費に関しては一切の文句が出なかったのである。
 華鬼からカードを手渡されて以降、そこから引き落としされているのだが、興味本位で確認した残高は、いったいなんの間違いなのかと青ざめるほどのものだった。もともと華鬼自身が散財するタイプではないにしろ、鬼たちの金銭感覚の狂いが尋常でないことが嫌というほど理解できた。しかし華鬼の場合、幸か不幸か感覚が狂っているもののそれを発揮する場がない。山中に学園を造った先人は、ある意味、先見の明があったのかもしれなかった。
「お食事、できました?」
 興味津津で雑誌を手にする神無に問うと、彼女の動きがぴたりと止まった。その動きだけで、またまともに食べられなかったのではないかと予想がついた。
「華鬼が果物を凍らせてくれて、シャーベットにしてすこし食べて」
 もえぎの予想を裏付けるように神無がちいさくそう返す。麗二が嘆く姿を思い浮かべ、もえぎは苦笑した。わずか十六歳の少女は、伴侶と決めた鬼との間に大切な命を授かった。――まではよかったのだが、問題はそれからである。
「いろいろ苦労してるみたいですね」
 この場合、苦労しているの神無であり華鬼である。以前から華鬼に食材の調達ばかりを頼まれていたもえぎは、彼がそれなりに調理技術を持っていることを知っていた。神無のつわりがはじまってからというもの積極的に――むしろ、生き生きと台所に立つようになったことは聞き知っている。病人食がもっとも得意という謎の男は、どうやら甲斐甲斐しく花嫁の面倒をみているらしい。
 仏頂面のまま台所に立つ姿を想像すると、過去の陰惨な記憶が薄れていくようだった。一度は華鬼に命を狙われたもえぎだが、幸せそうな神無の姿を見ていると、あれも貴重な体験のひとつなのだと感慨深く納得できた。
 つらつら考えている途中で、もえぎはそういえば、と口を開いた。
「お母様にご報告は?」
 前回会いにいったとき伝えられなかったと神無から聞いて、もえぎはこのことがずっと気になっていたのだ。質問にぱっと神無が顔をあげる。
「電話で、赤ちゃんができたこと伝えて」
「ええ。どうでした?」
「……十分くらい無言になって、……今度、遊びにいらっしゃいって……」
 ああ、さぞ動揺したのだろうなと、そのときの様子を思い描いてもえぎはもう一度苦笑した。何にせよ早すぎるのは確かだ。実際、鬼の花嫁たちは十六歳で強引に鬼ヶ里に連れてこられ婚姻を結ぶが、多くの花嫁は自分の鬼に反感を抱いて恋愛どころの騒ぎではない。なだめすかして愛をささやき、それでも三年間懐柔されず、結局、反感以外の感情を持てずに別の鬼と恋仲になる娘もいるくらいだ。
 神無のケースは稀だろう。むしろ、鬼たちが鬼ヶ里始まって以来だと困惑するのが示すとおり、庇護翼に守られずに育ち、三翼に求愛され、学園を半壊させるほど鬼頭≠怒らせたうえに鬼ヶ里に訪れてわずか三ヶ月で懐妊するという経緯は、他に例を見ない珍事でもあった。
 けれど当の本人は、これといって焦った様子もなくのんびりとしている。
 なかなかどうして頼もしい。たいした器の娘だと、もえぎはひとしきり感心していた。普通なら、もっと取り乱してもいい状況だ。
「神無さんは落ち着いてますねぇ」
 感心して言うと、神無は雑誌から視線をはずして小首を傾げた。
「その年で妊娠したら、きっとパニックでしょうに」
 もえぎは素直な感想を口にする。すると神無はふわりと笑んだ。
「楽しみです」
「不安じゃないですか?」
 問いに、神無は首をふる。嬉しそうにこぼれる笑顔は、あどけなさを残しながらもすでに母親の顔だった。もろさと危うい強さを秘めた少女がこんなにも立派に成長したのかと思うと、なぜだか誇らしさのようなものを覚え、もえぎもつられて笑顔になる。
「伊織さんもいろいろ教えてくれるそうです」
「伊織?」
「華鬼の家にいる、……お父さんの花嫁の」
「ああ、伊織ちゃん? そういえば、赤ちゃんできたって……ああ、どうしましょう。すっかり忘れてたわ。電話しなきゃ」
 額を軽く叩きながら眉をしかめると、それを見た神無が目を丸くする。どうして知っているのかと言いたげな彼女に、もえぎはちいさく笑った。
「あの子と私はライバルだったんですよ。ずーっと前ですけどね」
「……ライバル」
「恋敵です」
 もう二十年以上も前の話だ。訳もわからず鬼ヶ里に連れてこられたもえぎに突っかかってきた少女――それが、伊織。当時彼女は、飛び抜けて可愛らしく、飛び抜けて生意気な少女だった。懐かしく思い出していると、つづきを待っているらしい神無と目があって、もえぎはふと表情を緩めた。
 湯飲みを傾け吐息をつき、
「お茶を淹れなおしましょうか」
 長い昔話をはじめる前に、神無にそう問いかけた。

華鬼〜甘月の刻〜  Top  Next