目を開けた瞬間、彼女はとっさに隣を確認してちいさくうめいていた。気付かないうちに擦り込まれた一連の動作は、すでに彼女の癖のひとつになっている。
 知らずに肩を落としながら溜め息をついて布団から這い出し、鳴るには幾分早い目覚ましのタイマーを切ってから洗面所へと向かった。
 室内でさえ吐き出す息が白くなっている。カレンダーを見て、一月も半ばに差し掛かっていることを知り、彼女はふたたび溜め息をついた。のろのろと顔を洗い、かろうじて牛乳だけを喉に通してヒーターにスイッチを入れた。つづいてカーテンを開け、ひきっぱなしの布団の上に腰を下ろして膝を抱える。
 しばらくすると、鈍い音とともにすえた臭いがわずかに漂い、ヒーターが稼動をはじめる。どれくらいで室内があたたまるのかなど気にも留めず、彼女は熱を孕んだ風に冷たい指先をさらして、くすんだ機械の奥でちろちろと揺れる青い炎をぼうっと眺めていた。
 室内の空気がほんの少し温まった頃、彼女は無造作に畳んであった服を引き寄せて着替えだした。緩慢な動きで日常を繰り返し、くたびれたカバンを手に立ち上がる。
 ヒーターの電源を切って窓の施錠を確認し、ゆっくりと室内を見渡した。
 以前は、薄暗くちいさなこの部屋にも彼女を見送る者がいた。言葉少なに、それでも懸命に見つめてくれた、たったひとりの身内だった。もうずいぶん前に別れたきり、顔はおろか声すら耳にしてはいない。彼女は何度も電話をかけようと受話器に手を伸ばしたが、結局、ただの一度も暗記するほど眺めていた番号を押すことができなかったのだ。
 コール音が途切れたあと、どう言葉をかけていいかわからなかった。
 そしてなにより、無言のまま拒絶されることを恐れていた。
 彼女は鍵を手に取り玄関で冷たくごわついた靴に足をつっこんだ。時計が八時を指したのを視界の端にとどめながらドアを開け、そこで彼女は、凍り付いたように動きを止めた。
 吐き出した息が真っ白に染まり、大気に溶け込み消えていく。部屋同様に時の流れを感じさせる薄汚れた渡り廊下を凝視し、何とか呼吸を繰り返していると、前方にたたずんでいた少女が彼女の元へと近づいて来た。
 透き通るような白い肌の少女はちいさく息を弾ませ、一歩ずつ大切に踏みしめながら歩いてくる。長い黒髪が白いコートの上で軽く弾み、柔らかな音を奏でた。
 近づいてくる少女を彼女は言葉もなく見つめる。何も考えることなどできなかった。ただ頭の中が真っ白に焼け、思考のすべてがまとまることなく渦を巻く。
 それでも視線は前方の少女を捉えて放さなかった。
 そこにいるのは夢にまで見た、大切な大切な、たったひとりの――。
「神無……?」
 唇から乾いた声が漏れた。彼女の娘は、鬼の生け贄になった。命乞いをしてやっと繋げた大切な命は、永遠に望むことのない満願を経てわずか十六の歳で冷酷な鬼の手に堕ちた。
 ――堕ちて、しまったはずだった。
「お母さん」
 しかし、彼女の前には、手放したはずの娘がいた。もう二度と会えないかもしれないと、そう覚悟したはずの娘が。
「神無?」
 彼女はもう一度娘の名を呼ぶ。信じられないものを見るように娘を凝視し、乾いた唇から声を絞り出して、そして、ふっと息をのんだ。
 子供の成長は著しい。ほんの少しの時間が、ほんのちいさなきっかけが、目まぐるしいほどの変化をもたらすこともある。彼女もまた、娘の変化に気付いて目を見張った。暗く沈みがちだった娘の表情は柔らかく、以前よりはるかに血色もいい。痩せて異常なほど細かった体はコートの上からでもわかるほど女らしく丸みを帯び、線の細さは変わらないながらも、母親である彼女の目から見てもそれとわかるほど年頃の娘らしく変化していた。
 それはまさしく、劇的な、と表現するにふさわしい急転である。
 無言で娘を見入っていると、もともと口下手である娘が必死で言葉を探しているのがわかった。しかし、母である彼女も饒舌な方ではなく、どう言葉をかけていいかもわからないまま口をつぐんだ。
 だが、胸中では言葉があふれていた。
 辛くはなかったか、寂しくはなかったか、恐ろしくはなかったか。あの悪夢が詰まったような山中の巨大な鬼の住み処で、いままでどう暮らしていたのか。
 問いはなにひとつ言葉にならない。それは、陰惨であったに違いない娘の過去を知ることに恐れをなし、無意識に言葉を封じていたためだったのかもしれない。
 気付けば昔の過ちを繰り返すように、彼女は娘の顔が見られなくなった。きゅっと唇を噛みしめてうつむく。重苦しい空気が訪れることにおびえながら視線を落とすと、細く白い手がそっと持ち上がるところだった。
 その指には見慣れないリングがあった。アクセサリーの類を買い与えられるほど裕福でなかった彼女は、傷一つない指輪がはまっている娘の指をじっと凝視した。左手の薬指――シンプルだが可愛らしいそれが結婚指輪だと気付くのにわずかに時間がかかった。
「お母さん」
 呼ばれてとっさに顔をあげる。
「また来てもいい?」
 控えめな質問に慌てて頷くと、はにかんだように娘が笑う。それは彼女がはじめて目にする、優しく嬉しげな娘の笑顔だった。
「いつか……三人で」
「え? ええ」
 意味もわからず頷くと、娘は名残惜しそうな表情を浮かべたまま踵を返した。ああ、もう行ってしまうのか――ひどく落胆して、彼女は手すりにつかまってゆっくり階段を降りていく娘の姿を目で追う。
 その途中で、彼女はアパートの前に見慣れぬ車が停まっているのを知る。珍しいと思いながら視線を動かし、彼女はかすれるような悲鳴をあげていた。
 車の前には過去に対峙した鬼がいた。娘に印を刻み、命と引き替えに花嫁にすることを誓約させ、殺すために連れ去った冷酷な鬼――彼女にとっては、もはや恐怖と絶望の象徴でしかない男だった。
 全身が震えた。考えるよりも早く、体が逃げろと命令する。
「神無……っ」
 しかし彼女は渡り廊下の錆びた手すりにしがみつき、なんとかその場に踏みとどまった。さらに娘を呼び戻そうと口を開き、言葉を発する直前に目を見開いた。
 ゆるりと男が動く。差し出された大きな手に迷うことなく娘は自分の手を伸ばす。男が何事かをささやくと、娘はかすかに笑って頷き、ふっと顔をあげて彼女を見た。
 そして、ちいさく手を振る。
 彼女はそんな娘を呆然と見つめた。現状すらわからなかった。ただ混乱して娘の動きを注視していると、娘は男に促されて渋々車に乗り込んでいった。
 それは彼女にとって不思議な光景だった。
 残酷なはずの鬼は以前とは違う顔でそこにいた。穏やかでどこか優しげな瞳はただまっすぐに娘へとそそがれ、ほんのわずかな時間にもかかわらず、彼が娘を気遣っているのがはっきりと見て取れた。
 彼は顔をあげ、彼女を見上げる。向けられたのは憎悪や侮蔑ではなく、真冬の湖面のようにひどく静かな瞳だった。
 何を告げる訳でもなく見上げ、やがて視線を外して彼は運転席へと乗り込んでいった。ゆるやかに走り出す車を見送り、彼女は混乱したままよろよろと歩き出す。
 実感がわかない。ついさっき目の前にいて言葉を交わした娘でさえ、都合のいいまぼろしであったのかと考えるほど釈然としない。喉の奥になにかが詰まっているような違和感がある。
 彼女は鈍くなる思考を抱えながら、それでも日常をたどるようにカバンを自転車の前カゴに押し込んでペダルを踏んだ。
 彼女は娘が出て行ってから、勤めていた夜の仕事を辞めた。いまは近所にある小さなパン屋でパートとして働き、なんとか生活していけるだけの給料を稼いで日々を繋いでいた。これと言って趣味もなく、やりたいことすらなかった彼女にとっては、飢えないように暮らしていくことだけが娘を失ってから残された唯一の道だった。
 通い慣れた小道を過ぎ、信号を二つ越え、工事中の分譲マンションの前を通り過ぎてやや広い道へと出る。そこから勤めているパン屋はすぐだった。
 パン屋の前には、すでに掃除をはじめる店長の姿があった。
「あ、おはようございます、朝霧さん」
 ほうきを片手に年若い店長がにこやかな笑顔を向ける。
「どうかしたんですか? 今日はいつもより遅かったですね」
 軽く言葉をかけられ、彼女は駐輪場に自転車を停めてから恐縮して頭をさげた。
「すみません、今朝、娘が――」
 口にした瞬間、胸の奥からなにかがせり上がってきた。
 娘を手放したことを後悔しなかった日などない。恨まれても仕方がないと痛感したあの日の無念が胸を焼き、からっぽの心にじくじくとした痛みだけを抱えて生きてきた。
 けれど、そうではなかったのだ。
「娘が」
 誰の視線からも怯えて暮らし、狭い部屋に閉じ込められるように時間だけを重ねてきた娘が、幸せそうに笑っていた。
 今になってようやく思い出す。鬼の住むあの山を出る途中、娘を迎えに来たのと同じ鬼が真摯な声で言ったのだ。
 神無は必ず幸せになる、誰よりも愛される花嫁になるだろうと。
 その時彼女は、男がかけたのは慰めの言葉であると、同情のために口にした言葉であるとそう思っていた。十六年前と変わらぬ憎悪――いやむしろ、彼女はそれ以上のものを華鬼にむけられたのだ。うわべだけの言葉など信じられなかった。
 だが、間違いだった。彼女は娘の表情を見て確信した。あの時に車中で告げられた言葉は、哀れみの中で告げた偽りではなかったのだ。
「神無が、会いに来てくれて」
 言葉にした瞬間、頬が熱く濡れた。近付いた店長がぎょっとしてほうきを投げ出し、慌てて涙をぬぐう彼女に駆け寄りあたふたとしながら顔を覗き込んできた。
「だ、大丈夫ですか!? 朝霧さん!?」
 大丈夫だと返したかったが、唇を割ったのは言葉ではなく嗚咽だった。こらえようとしても抑えることが叶わず、彼女はその場にしゃがみこんで肩を大きくふるわせた。
「神様……っ」
 どんなに必死であらがっても逃げられない運命があるのだと、娘の肌に焼き付く忌まわしい印を見ながら絶望の淵でそう思いつづけた。
 鬼に命を狙われていると言って誰が信じてくれただろう。頭がおかしいと思われれば、せっかく守った娘が取り上げられてしまうとも限らない。彼女は窮地にありながら誰にも相談することができず、確実に迫ってくる時間という名の鎌におびえ、そして人々の視線から逃げ回り、息を殺すように暮らしてきた。
 神などいない。どこにも、そんなモノはいなかった。
 ――ずっとずっと、いないと思っていたのだ。
「神様……神様、あの子が……」
 これから先、愛しいあの子がひとりで泣くことなどありませんように――そう願わずにはいられなかった。
 白くなるほど握りしめた手に涙がはらはらとこぼれ落ちる。子供のように泣きじゃくって、彼女はうまく言葉にすることができない思いを胸の奥でつむぎあげる。
 あの笑顔がずっと続きますように、そして、永久に幸せでありますようにと。
 固く閉ざされたドアは開かれたのだ。ようやく外に飛び出すことを知ったその経緯は考えれば考えるほど理不尽ではあったけれど、それでも愛しい我が子は、過去をふり返ることなく全身で幸せを噛みしめるように笑っていた。
 娘の中にある意外な強さを知り、彼女は安堵した。
 怯えていたのは薄闇で丸くなっていた娘ではなく、虚勢を張りつづけた自分だったのかもしれない。はじめてそう思った。
「朝霧さん、とりあえず店の中に」
 声をかけられ、彼女はようやく店長である男が困り果てた顔で背中をさすってくれていたことに気付く。顔をあげて頷くと、ほっとしたように笑顔を浮かべ、立つように促して店内へと導いてくれた。
「座ってください。いまコーヒー煎れますからねー」
 鼻をすするとすかさずティッシュの箱を差し出され、彼女は泣き濡れた顔のまますこしだけ笑った。
「あれ、はじめてですね」
「え?」
「笑ったの。お店開けるのちょっと遅らせましょうか」
 カウンターの奥に引っ込んだ店長は気のいい声で言葉をつづけた。挽きたての豆の香りとパンの甘い匂いが店内に満ち、高ぶった気持ちが落ち着いていくのがわかった。
 こぢんまりとした店は、おおらかで気さくな店長の性格を反映してか、不思議なほど居心地がいい空間になっている。
 吐息をつくと、カップを用意しながら店長が人なつっこい笑みを浮かべて彼女を見た。
「もしよろしければ聞かせてください」
 強要するのではないごく自然にかけられた言葉――内心驚きながら、彼女はテーブルのすみに落としていた視線をカウンターに向けた。しかし、すでに彼は彼女に背を向け、コーヒーを煎れる準備をはじめている。
 彼女は目を瞬いた。答えなくてもいいのかと首を傾げていると、彼のそのマイペースぶりが妙におかしくなって、彼女はもう一度ちいさく笑った。
 そしてその日を境に、ときどき思い出したように彼女の家の電話が鳴るようになった。
 かけてくるのはたったひとり、第一声はいつも同じ。ひかえめな声は、決まって「お母さん」と呼びかけてから困ったように沈黙する。呼び声が耳に優しく響くものだと気付いた彼女は、相変わらずたどたどしく、これといって楽しい話題を口にすることができないにもかかわらず、娘からのその電話を心待ちにするようになった。
 そうして春が来て夏が過ぎ、世界が美しく色づきはじめた頃――。
 愛娘が、生涯の伴侶と決めた鬼といっしょに古ぼけたアパートを訪れる。ちいさな命を大切そうに抱きかかえて、いっぱいの笑顔とともに。

=終=

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