『六十七 前編』

 大気を満たすのは血臭と怒号。もみ合う人々は一塊となり、次第に聞き慣れない音と悲鳴が混じりはじめる。
 一人、また一人と乱闘の輪からはずれた男たちは、まるで魂のぬけた人形のように座り込み、部屋の中央――異様な熱気がうずまく中心を呆然と見つめていた。
 黄金の閃光がいくつも走り抜ける。自在に動き回る光は対を成していたが、その数は時間をおうごとに確実に減少していった。
 その中で一つだけ、他のどれよりも目を引くものがあった。鮮やかな金の光は胸を締め付けるような慟哭の色を宿す。それは怒りに満ちながらもひどく悲しげで、気付けば目が離せなくなっていた。
 そうしてそれが最後の一対として残った頃、朧気に霞んでいた世界が暗転する。
 血臭が去り、静寂が辺りをつつむ。霧がかかったように霞んだ意識は次第に鮮明になり、神無は苦しげにあえぎながら目を瞬いた。
 眼界には薄闇が広がっている。
 何度も目を瞬いて、神無はゆっくりとあたりを確認した。窓一つないその部屋からはあれほどひしめき合っていた人影が消え、かわりに奇妙な静けさだけが残されていた。
 神無が訳もわからず薄闇に慣れない瞳を凝らしていると、不意に気を失う前の記憶が蘇ってきて全身が震えた。
 逃げ場がないと悟った時、神無は舌を噛み切ろうとした。昔繰り返していた自傷の続きだ、躊躇いなど微塵もなかった。あの苦痛から逃れられるのならどんな方法でもかまわないとさえ思った。
 そう、躊躇いなどなかったはずだった。たった一人、はじめの印を刻んだあの鬼に出会うまでは。どこか寂しげなその顔を思い浮かべてしまうその直前までは。
 神無の一瞬の迷いは響に気取られ、彼は嘲笑いながらそれを止めた。死ぬなら全部終わってからにしろと残酷にささやいて、布を、口に――。
 ざわり、ざわりと寒気を覚えるような何かが全身を包んでいく。ひどく記憶が曖昧で、感覚すらどこか狂っているような気がして神無は大きく身を震わせた。
 虚空を見つめて途切れた記憶を手繰たぐっていたが、どうにも上手く思い出せない。しかし、ここが不快な場所であることは間違いない。動けばこの均衡が崩れてしまいそうな不安を覚えながらも、恐怖に突き動かされるように体を起こし、慎重に床に足をおろした。
 指先に氷のように冷たい何かが触れる。
 とっさに足をあげ、神無は床を凝視して硬直した。男が倒れている。それも、一人や二人という数ではなく、床一面を埋めるほどの人数だ。床を赤黒く染める液体に目を止めた神無は無意識に口を押さえ、そこから少しでも離れようと体を動かす。
 気付けば全身が激しく震えていた。無残に切り裂かれた制服をかき合わせ、神無は身を丸めてきつく目を瞑った。
 ぴくりとも動かない男たちはとても生きているようには思えなかったが、生死を確認するほどの勇気は出ない。一体この場で何が起きたのか、疑問と混乱だけが渦を巻いて彼女の胸中を占めていった。
 だが、このままここでじっとしていることも恐怖に繋がる。
 気を静めるために神無は大きく息を吸った。その直後、衣擦れの音が彼女の耳へと届く。音は確実に近くなってきているのに、床を歩く独特の音が聞こえてこない。疑問に感じながらそっと目を開けると、人影は倒れこむ男たちを平然と踏みつけながら神無の元へと歩を進めていた。
「お目覚め?」
 楽しげな声は、今一番聞きたくない男のものだった。
 静まっていた警笛が再び狂ったように鳴りはじめる。逃げなければならない。ここではないどこか安全な場所に逃げ込んで、二度と会わないように、会わなくてすむように鍵をかけ――。
「助けなんて来ないよ。残念だったね」
 一歩一歩確実に近づいてくる響は獲物を前にした肉食獣のようだった。鋭い眼光に囚われた神無は身じろぎすらできずに迫ってくる男を凝視した。
「――き……」
「無駄だよ」
「華鬼」
「しつこい女だな」
「――華鬼!!」
 絶叫した瞬間、肩に熱がこもり、体が大きく揺さぶられた。恐怖にあらがい何度も華鬼の名を呼び続けると、ふっと頬があたたかい物に包まれた。
「神無!」
 喉の奥に絡み付いて出ることのなかった悲鳴が、呼び声に応えるように細く唇を割った。
「どうした!?」
 続けられた言葉に彼女は双眸を大きく見開く。いつの間にか泣いていたらしい。白く崩れる世界が目の前に広がり、その中央には見慣れた男が狼狽えながら立っていた。
「華、鬼?」
 なにがどうなっているのか理解できず神無は小さく喘いだ。顔を覗き込んでくる彼の顔に震える手をそっとのばすと、彼はほんの少しだけ動転しながらも大人しくされるがままになっている。
 指先が頬に触れる。あたたかく柔らかな感触に緊張が緩む。だが、まだ夢と現実の区別がつかない神無は、これが現実なのかを確認するように指先に力を込めて華鬼の頬をつねっていた。
「……おい」
 やや崩れた顔のまま柳眉をしかめた華鬼は、神無がするように彼女の頬を軽くつねってから、
「なんの真似だ?」
 と、間抜けな光景に似合わないほど真面目な表情で問いかけてきた。神無の中で緩みかけた緊張が瞬時に崩れ、頬をつねっていた手を離して彼女はその腕を華鬼の首へとのばしてしがみ付いた。
 確かに感じることのできる温もりは夢ではない。これは現実≠ネのだ。
「……嫌な、夢を見て」
「……」
「それで……」
「その夢はもう二度と見ない」
 静かに断言する声に神無は濡れた睫毛を上げた。力強く全身をくるむ腕に吐息をついて、神無もしがみ付く腕に力を込める。
「うん」
 華鬼のたった一言に気が楽になる。なだめるように背中をさすられた神無はそれに安心してさらに腕に力を込めると、顔に鋭い痛みを感じて小さく声をあげた。
 華鬼は瞬時に抱擁をとき、きょとんとする神無の顔を覗き込んで再度、頬に触れた。
 先刻と同じ痛みに彼女が顔をしかめると、
「待ってろ」
 短く残してあっさりと部屋を出ていってしまう。心地よい腕を失った神無は名残惜しそうにドアを見つめ、そして涙を拭いている途中で今更ながらぼっと頬を染めた。
 最近の華鬼は、周りが不思議がるほど変わった。人を寄せ付けない雰囲気はそのままなのに、以前ほど激しく人を拒絶したり軽蔑することがなくなり、女遊びもピタリとやめた。苛立っていることも少ない。二人でいるときはなおさら、穏やかと言っていいくらい大人しかった。
 だが、あそこまで優しくされたのははじめてだ。あんな風に労わるように抱きしめられたことも、当然ながら今まで一度もなかった。
 神無は思わず首を傾げた。そして、やっと自分が見慣れた部屋のベッドの上にいるのを確認し、さらに無残に引き裂かれた制服ではなくパジャマを着ていることに気付く。
 着替えた記憶はない。じっと考え込みながらパジャマを見ていると、長い黒髪がさらりと流れた。それは、わずかに水気を含んでいる。
「……?」
 指を髪にからめて確かめたが、やはり少しだけ湿っている。今晩は雪も降っていないから外を歩いただけでは濡れたりしないだろう。心なしか体もしっとりしているような気が――。
 悶々と考え込んでいると寝室のドアが開き、救急箱を片手にした華鬼が入ってくる。
 よく見れば彼もパジャマを着ている。髪はタオルで拭いたきりなのか、明らかに濡れていた。
 疑問符を浮かべている神無に気付かず、華鬼は救急箱をサイドテーブルの上に置くと消毒薬と綿、それにピンセットを取り出してからついっと神無の顎を掴んだ。
「切れてるな」
 少し不機嫌そうに口にする。
「これは?」
「あ……あの、殴られて」
 口に布を押し込まれ、それから殴られたのだ。本気で殴っていればこんな軽症ではすまなかっただろうから、多少はあの鬼も手加減したに違いない。
 しかし、華鬼の機嫌はさらに悪くなった。
「もう一本折っておけばよかった」
 ボソリとつづけ、華鬼は不思議がる神無を無視して手早く治療する。
「気分は?」
「平気」
「……そうか」
 治療を終えた華鬼が一つ頷きさっさと救急箱の蓋を閉めるのを見て、神無は焦って手をのばした。
 彼の顔にも派手に殴られた痕がある。この分では体にだって傷があるに違いない。彼の手から救急箱を奪うと、すぐに彼女の意思を察した彼は、大仰に溜め息をついてから彼女の隣に腰をおろした。
 ベッドが少しだけ上下したのを体感し、何故だか心臓が大きく跳ねた。

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