『六十七 後編』

 今日の華鬼は、いつもと違う。態度もそうなのだが、まとう空気がいつもよりずっと穏やかであたたかく――そして、戸惑いを覚えるほど心地いい。
 なんとなく気恥ずかしさのようなものを覚えながら、神無は平静を装って彼に向き直った。
 顔の傷痕は見れば見るほど痛々しい。ちらりと彼の表情をうかがうと、彼は憮然として口を開いた。
「餞別だ」
 短くそう返し、口をつぐむ。どうやらそれ以上は答えたくないらしい。ひとまず怪我を消毒して絆創膏を貼り、続いて治療をしたい彼の体をじっと見つめていると、あきらめたような溜め息とともに服を脱いでくれた。
 現れた身体は多くの傷痕を残してはいるものの、幸い真新しいものはごく少数だった。それがどれほどの意味を持つかなど関知しない神無は、ただ彼の無事に胸を撫で下ろして緊張していた表情を緩める。
 一つ一つ丁寧に治療していると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
「やっと来たか」
 背に触れていた手に振動が直接伝わってきた。
 外の様子を確認しようと視線を窓に目を向けると、そこには相変わらず灰色の世界が広がっていた。その暗く沈んだ闇の中に鳴り響くサイレンの音は、気味が悪いことにいくつも重なって聞こえてくる。
「……華鬼、外に」
 闇の中に赤い光をともした車が何台も走っているのが見え、神無は恐る恐る彼に声をかけた。
「一人一本ずつ折っておいた」
 主語を省いて華鬼が独り言のようにつぶやく。一人、一本、と繰り返し、神無は広い背中から視線をはずしてオモチャのようにちいさな救急車を眺めた。
 一瞬であの学園で起こったことを思い出し、ぞっと背筋が冷えた。嫌悪感が込み上げてきて、全身の皮膚という皮膚を剥ぎ取りたいような衝動にかられる。
「神無」
 窓の外を凝視したまま微動だにしない神無に華鬼は静かに声をかけた。
「あの男は、三本。――肋骨を入れたらそれ以上。もう二度と学園に来ない」
 凛とした声に神無の視線は彷徨いながらも華鬼を捉えた。振り返った彼はまっすぐに神無を見つめ、そして視線を窓へと投げる。
「来たら今度こそ、完全に叩きのめす」
 恐怖で凝り固まった心の奥にちいさな火が灯る。
 闇を貫くような鋭い眼差しは学園へと向けられている。彼は敵対する鬼たちがあふれるあの中を助けに来てくれたのだ。そして、悪夢でしかなかったあの現実を終わらせてくれた。
 黄金の閃光の正体を知って神無は吐息をついた。
「ありがとう」
 最後の傷の治療を終えても、救急車のサイレンはいっこうに鳴り止まない。それどころか、一般車両まで学園にやってきて何かを運んでいるらしい。
「……目につく奴は全員折ったからな」
 華鬼が真剣な顔で洒落にならないことを言うと、神無は慌てて彼に向き直った。
「あの、土佐塚さんは……?」
「土佐塚?」
「私の、友達」
「……ああ、無事だ。手は出してない」
 さすがに分別はあったらしい。よかったとつぶやくと華鬼が奇妙な表情をする。慌ててなんでもないと首をふり、それでも彼女のことが気がかりで窓の外を注視する。
 きっといろいろ、言葉が足りなかったのだ。神無自身も饒舌な方ではなく、桃子が気づかって話しかけてくれたにもかかわらず自分のことをほとんど伝えていないかった。
 恨む気持ちよりも強く、友達だと思っていた相手を信じきれずに口を閉ざしていたことが悔やまれた。
 次に会ったら一番に謝罪しよう。素直にそう思って、次々と到着し、次々と走り去っていく車を見送る。
 同じようにしばらく外を眺めていた華鬼は、思い立ったようにパジャマを手に立ち上がった。その姿を見て、神無はとっさに彼のパジャマを掴む。
「……なんだ?」
「どこに行くの?」
 救急箱をしまうならそれを手にして出て行くはずだが、いまの彼はパジャマの上だけを持って寝室を出ようとしている。予想とは違う行動に驚く彼女に、それ以上に驚いた顔で華鬼は振り返って彼女を見た。
 神無がじっと見つめていると、観念するように重々しく溜め息をつく。
「居間」
 予想外の答えに神無が首を傾げた。
「居間? どうして?」
 問いかけに華鬼の表情が固まる。別におかしな質問ではないはずなのに、華鬼は神無が掴んでいたパジャマを手放して歩き始めた。いつもの彼女なら確実にそれを見送っていただろうが、いつになく迅速に動き、彼女はベッドから身を乗り出して今度は彼のズボンを掴んだ。
 ピタリと彼の動きが止まる。
「どうして居間に行くの?」
 しかも、手ぶらだ。救急箱をしまいに行くならまだしも、すでに時計は木籐家では深夜とも言うべき十時を示している。普段の彼ならとっくに就寝準備に入っている時刻だ。
「……」
 小首を傾げる神無に、華鬼はどうにも奇妙な表情をする。
「わかった。ミルクを入れてくる」
 ひどく要領を得ない答えを出して、華鬼は神無の手を外して寝室を出た。たまに訳のわからない行動を取るが、今日は格別に何かおかしい。あの争いの際にどこかぶつけたのではないかと心配しながらドアを見ていると、しばらくしてからマグカップを一つだけ持って華鬼が帰ってきた。
 甘い香りにはじめて空腹に気付き、神無は手渡されたカップに口をつける。ほんのりとひかえめな甘さが口腔に広がり、それを味わいながら笑顔を浮かべると、再び華鬼がくるりと背を向けた。
 ほぼ条件反射である。
 またしても神無は華鬼のズボンを掴み、寝室から退散しようとする彼を引き止める。
「どこに行くの?」
 同じ質問を繰り返すと、明らかに華鬼の肩が落ちた。
「居間」
 言ってから、華鬼は振り返った。
「あそこに、ソファーベッドがある。オレはそこで寝る」
 いつもは寝室でいっしょに寝ているにもかかわらず、毛布すらないのに、なぜ今日に限ってそんなことを言い出すのか――神無には、華鬼の行動がどうにも腑に落ちなかった。
 神無はサイドテーブルにマグカップを置くとしっかりと両手で華鬼のズボンを掴んで彼を見上げた。
 彼は珍しく、困惑を通り越して困り果てた顔になっている。
「放せ」
「でも、華鬼が」
「……さっきあんな目にあっただろ。いいから放せ」
「あんな目?」
「学校で」
 その先は言いたくないらしく、彼は押し黙ったまま神無を見つめた。学校での一件に華鬼が気を遣っているなら、それは余計な心配だった。華鬼に恨みを抱くことも、彼を嫌うことも考えられない。
「華鬼なら平気」
 素直な一言を告げる。そばにいる事も触れられる事も、ほんの小さな心の動きですべて不快なものから至福のものへと変わる。それに、過去を何度思い出しても、神無は彼に恐怖を覚えこそすれ嫌悪したことはなかった。
 はじめから、一度として嫌ったことなどないのだ。
 そう思って押し黙ったままの彼を見つめる。動きをとめた彼は、わずかに天井を見上げてから細く息を吐き出して腰をかがめ、不思議そうな顔をしている神無に軽く口づけた。
 予測不能な彼の行動に驚き、神無はしっかり握っていた手を外し、声にならない悲鳴をあげながら彼が触れた唇を押さえていた。
 解放された華鬼はサイドテーブルの引き出しを開け、鍵束を取り出すと寝室を出てまっすぐ玄関へ向かう。パニックを起こした神無の耳に聞きなれない金属音が届き、次にドアを開ける音、さらに閉める音が続いた。
 戻ってきた華鬼は鍵束をマグカップの隣に置いて、窓まで歩き、いきなり開け放つなり握り締めていたものを躊躇いなく闇の中へ落とす。
 落ちていくものを確認した神無の口からちいさな声が漏れた。絡まりながら落ちていくのは、以前、三翼ともえぎ、さらに桃子から手渡された鍵だった。一瞬しか見ることはできなかったが、それぞれについているキーホルダーは個性的で見間違うようなものではなかった。
 いつでも来ていいと言われて受け取った大切な鍵だ。慌てて拾いにいこうと立ち上がった神無は、華鬼に手を取られてバランスを崩し、もう一度ベッドに座り込んでいた。
「行くな」
 低い声は命令のようでいて、懇願のようでもあった。
 変化した空気に気付き、神無はまっすぐに華鬼の視線を受け止めて息をのんだ。戸惑うように揺れる瞳の奥に、柔らかな光が見える。
「華鬼」
 それは、多分ずっと欲しかったもの。焦がれて望んで、何度も欲しいと願い続けただろう感情の欠片。
 通り過ぎていった過去を思い出しながら神無は口を開いた。
「私、華鬼だけの花嫁になってもいい?」
 はじめから、鬼頭≠フ花嫁になりたかったわけではない。迷いながら悩みながらも結局は、たった一人の鬼のための、たった一人の花嫁になりたかった。
「――ああ」
 柔らかく広がる笑みとともに、望む答えが降ってくる。
 のばされた腕がゆっくりと神無を抱きしめると、彼女は安心したように双眸を閉じた。

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