【六十六 後編】

 襲いくる敵に無意識に応戦しながら、華鬼は思考をめぐらせる。
 まるでスイッチが入るように、何かを境に彼女の存在が苛立ち以外のものを彼に与えた。邪魔でなくなっただけなのだと漠然とそう思っていたが、今では彼女のいる場所は確かに不思議と居心地がよかった。
 彼女に向ける感情が大きく変わったという自覚が彼にはなかった。いやむしろ、向けている感情自体は殺意を抱いていたあの頃となんらかわっていないはずだ。
「悩むな!」
 光晴の鋭い声にはっとする。
「一等簡単なことでそんなにグダグダ悩むな! お前はなんで神無ちゃんに印を刻んだんや!? それが一番はじめの感情だろうが!」
 声に導かれるように目の前の敵を床に沈め、思い出す。母を看取ったあとに出会った、貧相な女を。脆弱でなんの魅力もなく、強い殺意さえ抱かせた身重の女――殺すことなど簡単にできた。たとえどんなに懇願したとしても、その気になれば躊躇いなく殺せたはずだった。
 けれど、彼は泣きすがる女を殺さなかった。直前に見た、淡い笑みが胸の奥で引っかかり、殺す価値さえないのだと己に言い聞かせ生かすことにした。
 しかし真実は。
「……オレは、ただ」
 そう、もっと単純に、あれほど望まれ生まれてくる娘に。
「会いたかったから」
 印は呪縛だ。必ずもう一度、彼女は自分の元にやってくる。それを本能で知っていたからこそ印を刻み――だが同時に、彼は鬼頭という名の重さに辟易していた。花嫁たちは鬼頭の名だけを目印に彼に群がり、同時に彼の存在というものをことごとく踏みにじっていった。
 それなのに、彼はその忌まわしい慣習となるものを女児に刻んだ。
 印を刻んだことを何度後悔したか知れない。あんな思いをするくらいならいっそ花嫁など死んでしまえばいいのだと身勝手に残酷に願いつづけ、苛立ちは日増しに大きくなって神無が十六歳の誕生日の日、それがとうとう限界に達した。
「華鬼! 援護する!」
 水羽の声に現実に引き戻された華鬼は一瞬大きく体を揺らした。
 人垣が崩れ、悲鳴があがる。
「仕方がないですねぇ」
 麗二の声とともに、別の場所でも悲鳴があがる。なぜ嫌っているはずの主人に彼らがここまでしてくれるのか、やはり華鬼には理解できない。
 感謝の言葉も謝罪の言葉もとっさには出てこなかった。ただ言われるまま、崩れ始めた敵の中を出口へと向かって突き進んでいく。
「華鬼」
 この状態でどうやって近づいてきたのか、わずか数歩先に光晴の姿があった。
「捜せ、あの子を。オレには何も聞こえん。けど、必ずお前の名を呼んでるはずや。あの子が三翼を呼ぶんはな――悔しいが、はじめっから」
 どこから入手したのか、その手には雪像づくりに使われた足場のパイプが握られていた。
「お前のためだけや」
 大きくパイプを薙ぎはらうと目の前の道が瞬時にひらける。華鬼は光晴の言葉の意味をはかりかねてちらりと彼を見ると、ひどく苦しげな笑みが返ってきた。
「おかしいやろ。あの子はお前のためだけにしか三翼を呼ばん。そんな子が自分≠フために助けを求めるんなら、それは三翼やない」
 周りを威嚇しながら持ちあげた足は、そのまま職員室のドアを力強く蹴破っていた。鈍い音とくぐもったうめき声が聞こえたが、光晴は容赦なくそれを壁へと押し付ける。
「約束したんや。何があっても必ず守るって。……その言葉、お前に預けた。必ず見つけだせ」
「――わかった」
 殺気にたじろぎ敵の中にわずかな空間ができる。その隙を見逃すことなく、華鬼は驚倒する敵へ単身で身を躍らせ道を作る。背後で威嚇するような怒声が聞こえた。室内がどうなっているのかわからない者たちは、興奮しすぎて逆行しているのが華鬼であることには気付かないらしい。
 顔を伏せ人垣を抜けたが、末端の者はおかしな行動をとっている華鬼に注意さえ払っていなかった。
 異様な熱気を抜けるとふっと冷たい風が頬を撫でた。
 大きく息を吸い込んで、囮となった三人がいる場所に視線を投げてから駆け出した。鼓動が早くなっていく。足を一歩踏み出すたびに、何かが変わっていくような錯覚。
「神無」
 幸い、敵は一ヶ所に集まってくれたらしい。閑散とした廊下をぬけて彼は視線をめぐらせた。
「オレを呼べ」
 相変わらず不快な気配がいたるところから発せられているが、それが神無のものでないことなどわかっている。神経を研ぎ澄まし、彼はいったん足を止めた。
 しかし、望む気配はいまだに掴めない。通常なら捉えやすい花嫁の声も、気味が悪いほど感知できない。
 焦りが胸の奥でとぐろを巻く。
「どこだ……? 神無が――堀川響が、隠れそうな――」
 このまま走り回っているだけではいつまでたってもたどり着けないだろう。神無の気配をあきらめ校舎内に残っている鬼の気配を探ったが、それらは職員室に集中していてやはり役に立たなかった。
 校舎の外である可能性は否定できない。華鬼は窓の外に広がる灰色の世界を見つめ瞳を伏せた。
 可能性は否定できないが、おそらく校舎の内部だ。いくつかある棟の中で、花嫁の気配を隠せるだけの設備がある場所など思いつかず、うっすらと瞳を開き、そこで彼は動きをとめた。
「……放送部」
 そこは、神無が所属し、そして響も籍を置く部活だ。響の庇護翼の一人も副部長として在籍していることを思い出した瞬間、彼は廊下を駆けだしていた。
 放送部はいくつかの部室を所有し、その一部は他の部活と共有されている。基本的にそれらは通常どこにでもある設備を有していたが、たった一部屋だけ、他とは違った奇妙な場所があった。
 そこは四方が壁で囲まれ、窓はなく、分厚い扉で閉ざされていた。かろうじて備え付けられた空調も特殊なものだと生徒会副会長の須澤梓から聞いたことがある。たまに気紛れで出席した会議で、使う予定もない無駄な部屋があると彼女は不満げに漏らしていた。
 興味のなかった彼はそのままその話を聞き流した。利用用途も目的も、その時は一切知らされていなかったのだ。
 だが、他に思い当たる節はない。授業中はサボって校内の空き部屋にいたことの多かった彼は、これ以上疑わしい部屋がないことを確認して階段を駆け上がった。
 廊下を駆け抜け、再び階段を駆けあがる。さらに階段をあがり、渡り廊下をすぎて角を折れて突き進み、彼は物物しいアルミのドアの前で立ち止まった。他のドアに比べ一回りも大きいドアのノブを掴むと、内部から鍵がかかっているようで左右にわずかに動くにとどまった。
 どっと心臓が鳴った。
 特別棟にある部屋は、貴重品がなければ施錠されることはない。華鬼はノブから手を離し、数歩さがって勢いをつけた。
 ――その娘は、彼が手ずから死を与えようとした花嫁だった。
 しかしどうしても殺すことができない花嫁でもあった。
 死を願えば心がすさみ、殺そうとすれば苛立ちが増す。軽く首をひねればいとも簡単にこの苦痛から逃れられると思っていたのに、どうしても手を下すことができなかった。
 苛立ちと怒りに、安堵と安息が混じり始めたのは何がきっかけであったのか――やがて彼は、彼女を否定することをやめた。
 すると不思議なことに、これまで続いてきた憤激が嘘のように消えた。
 疑問に思いながらもその空間が心地よく、彼は知らずにそれに溺れていった。安心しきった顔で眠る少女を抱きしめて、彼もまた、平素からは考えられないほど穏やかな時間を手に入れた。
 ゆるりと流れるあの時間が何であったのか。
 蹴破ったドアの向こう、どこか陰惨な空気に満たされた室内を見て、彼はようやく理解する。
 ずっと続いてきた苛立ちは、彼の本能が働いたがゆえに生まれた感情の揺らぎだった。
 求め守り慈しむことを本能が望んだにもかかわらず、愚にもつかない事ですべてをあきらめ拒絶したがために、彼の心は完全にバランスを崩した。しかし過去の彼は、それを神無のせいだと思い込みさらに状況を悪化させた。
 それはひどく単純な話しだった。
 本能はいつでも彼女を守るために動いていたというのに、花嫁を嫌おうとした彼だけがその事実に気づけずにいた。怒りの強さはそのまま愛情の深さへと転化されるものだということも知らないままだった。
「遅かったね、華鬼」
 部屋はやけに明るく、目路を男たちが埋めていた。その一室には報告どおり窓はなく、不快な空気で満たされていた。蹴破られたドアを見てどよめき割れていく人垣の奥で、白々しいほど親しげに秀麗な鬼が笑った。
「なかなか楽しいショーだったろ?」
 つづいた言葉は、華鬼の耳には入らなかった。彼の視線はゆっくりと床をたどり、力なく放り出された白い腕、むき出しの細い肩、乱れる黒髪へと移動する。
 顔は見えない。ぴくりとも動かない娘が生きているのか死んでいるのかもよくわからなかった。
 彼女に覆いかぶさっていた響は華鬼を見つめながら譏笑きしょうし、ゆっくりと体を起こして乱れた着衣を直していた。
 怒りとも嘆きとも、絶望ともつかない唸り声が唇を割った。
 眼裏が赤くそまる。
 理性を手放し、彼は躊躇うことなく敵陣へと身を投じた。

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