【六十五 中編】

 連れ立つように校門を出て行く生徒の影を目で追って、麗二は小さく息を吐く。
「……外に出てないことを祈るしかないですね」
「あの性格なら校内の確率のほうが高い。昨日のこともあるし、オレは校庭のほう見てくる」
「ボクはクラブハウスから潰す。麗二は校内順当に見ていって」
「ええ。本当に、こういう時は迷惑な広さですね」
「意外に普段使ってる部屋におるかもしれんしな。外終わったらオレも校内捜す」
「ボクも。……連絡手段がないのって、痛いね」
「しゃあない、それが狙いや。運よくぶち当たったらやるしかないやろ」
「水羽さんはくれぐれも無茶は避けてくださいよ」
「そんなこと言ってられないよ。やばかったら病院まで連れてってね? 業者出入りしてるから、道は整備されてるんだろ」
 軽く体をさすって水羽は微苦笑する。そしていったん保健室内に向けた視線を廊下にやって、怪訝な顔をした。
 珍しい男が、珍しい表情をして保健室に向かって歩いてくる。
 ドアにたどり着いた男は水羽の上から室内を確認してくるりと踵を返した。
「華鬼!」
 まるで無頓着なその動きに一瞬呆気にとられた水羽は、去っていく男の腕を慌てて掴んだ。
「もしかして、神無、捜してる?」
 期待をこめた問いに華鬼の表情がわずかに動く。ちらりともう一度保健室を見て、
「いないのか」
 と、独り言のようにつぶやいた。
「気配、探れないの?」
「……いや」
「堀川響が動いてるかもしれないんだ。――華鬼、神無が危ない」
 水羽の言葉にふっと華鬼が息をつく。ぴんと空気が張り詰めるような感覚に内心ひどく驚きながらも、水羽は振り払われた手をゆっくりとおろして遠ざかっていく華鬼を見送った。
 そして、自分の手に視線を落としてきつく拳を握った。
「……驚いた」
「なんや、あいつ?」
「あんなに焦ってるとこはじめて見た」
「は?」
「――華鬼も神無を捜してくれるみたい」
 怪訝な顔をする光晴とは対照的に、麗二は呆れ顔で肩をすくめた。
「……ようやく、ですか」
「まだ全然自覚ないみたいだけどね」
「本当に困った坊やですねぇ」
「あれは根深いから。たぶん、物心ついてからずっとなんだと思うよ」
「どうせ神無さんに印を刻んだ理由もわかってないんでしょ」
「うん。神無を傷つけられない理由も、腹が立つ意味も、本当はすごく簡単なことなのにね」
「ちょお待ち」
 早足で廊下を歩きながら交わされる会話についていけない光晴は、力いっぱい二人の肩を掴んで割り込んできた。
「何の話や?」
「なんのって……だから、最高の悪循環の話?」
「ああ、確かに悪循環ですね。本人が毛ほども気づいてないってのがまったく、なんと言っていいのか」
「で、最近大人しい理由も、それでちゃんと説明付いちゃうんだよね」
「……本当に腹立たしいですけどねぇ」
「だからさっぱり意味がわからんっちゅーんや!」
「え? だから」
 ぽんと告げられた次の言葉に、光晴は耳を疑って二人の顔を凝視した。そうして、そんなアホなと低く呻く。彼にとって、それはまったく予想外の意見だったらしい。
「でもほら、それで全部辻褄が合うじゃない。殴りたくなるでしょ?」
「お……おお、ホンマにあいつは……っ」
 片手で顔面を覆ってから光晴は駆け出した。
「せやかて華鬼に神無ちゃんは渡さんー!! 神無ちゃんと別れたんが一時すぎ、空白は約三時間! 絶対見つける!」
 コートをはおって昇降口に突進していく男に残された二人が苦笑する。
「あきらめの悪い人ですね」
「麗二はいいの?」
「……仕方がないでしょう」
 小さく溜め息をついて麗二が瞳を伏せた。
「花嫁が選べば我々に拒否権はありませんよ。もえぎさんに報告したら、もう華鬼に任せても大丈夫だからお疲れ様でしたとか言われちゃうし……私は用無しのようです。ああ、本当に切ないですよねぇ」
 どうやら、慰めてもらえると思って話したもえぎからは期待した言葉が返ってこなかったらしい麗二は一人で勝手にしょげている。それでもたいしたもので、方々に視線を走らせ気配を呼んでいた。
「じゃ、ボクは外のクラブハウスのドア蹴破ってくるから」
「それは器物損壊……」
「物を壊すのって、嫌いじゃないよ?」
 言うなり、水羽はコートを取りに教室へと向かい、残された麗二はすこしだけ頭痛を感じながら長く広がる廊下を見つめた。まだ校舎内に無関係な人間が残っているのだろう、楽しげな声がちいさく廊下を反響して彼の隣を通り過ぎていった。
 その中に、かすかな機械音が混じる。誰も気にとめることのない、些細な音。それは一定の周波に乗って機械から機械へと音を伝える。
 皓皓と光で満たされた部屋にざらつく音が短く鳴った。
「まだ眠らせてある。予想以上に人数が集まったから驚かせたらカワイソウだろ……ん? そうだな、こっちに来てもいい。タイミングがいいから、相性が合えば面白い事になるぞ」
 密やかな笑い声。
「他のヤツにも伝えとけ。獲物は極上で食べごろだってな? こんなチャンス二度とない。鬼頭の花嫁がどういうつもりで来たのか知らないが、お蔭で意外に早く舞台が整ったからな……ああ、またな」
 それは嘲笑に似た、ひどく耳障りな声だった。
 機械音が一度途切れ、また新たにぐぐもった声とともに聞こえてくる。
「ご苦労。そこには誰も近づけるなよ。敵の戦力を散らすのも作戦の内だ。厄介だからな、三翼は」
 不快な機械音とともに遠くで男の声が肯定を告げると、今度は短く会話が切れ、立て続けに新しい機械音がした。
「なんだ? ――そうか、やっと別行動になったか。生徒もだいたい下校したし、いい頃合だ。体力削っていけ。招待状を受け取ったら一気に潰していいぞ」
 幾分楽しげに声が弾む。不穏な会話はそれで終わり、ようやく落ち着いたのか硬い音が遠くから聞こえた。
 そして、溜め息。
「鬼ヶ里も利用するって言ってなかった?」
 少女の声が刺々しく問うと、男は瞬時にまとう空気を変質させた。
「ああ。……鬼ヶ里祭当日までに三老を丸め込んで学園を味方につけるつもりだったが、渡瀬が意外と粘って予定が狂ったからな」
「三老?」
「過去に囚われた亡霊ども」
 自嘲気味な声音がつぶやく。
「なによ、それ……」
「……亡霊のほうが口出ししないぶん可愛げがあるか」
 それ以上の質問を拒絶するかのように冷たく言い放つ。衣擦れの音がして、沈黙を破って少女がふたたび言葉を発した。
「渡瀬って?」
「鬼頭の父親の庇護翼頭」
「それって前に学校に来た?」
「ああ。あんな男によくあそこまでの庇護翼がついたもんだ」
 知った名を、意外な声が言葉にする。
 一つは、華鬼の敵であり彼のアキレスとなるはずの花嫁を狙い続けてきた鬼、堀川響。そしてもう一つは、最近では毎日言葉を交わす、大切な友人だと思っていた少女の――。
 凍てついた、声。
「あんたって口ばっかりなわけ?」
「……結果としては悪くない。三老を使って鬼ヶ里を動かした方が都合がいいってだけで、そっちを失敗しても計画自体に支障はないんだからな」
 いっしょにいた時には一度も感じさせたことのない剣呑とした空気がさらにギスギスしたものへと変わる。わずかな隙さえ見せてはならないとでも言いたげなほどの重圧に、神無は思わず小さな声をあげていた。
「神無? 起きたの?」
「まだ薬が切れるには早い」
 響の声が笑いを含む。眼前が暗くなると、そっと何かが髪に触れた。柔らかく髪をすくような指の動きはどこか繊細で、まるで労わるようで――すぐに、それが桃子のものであると確信した。
「ごめんね? でも、あんたが全部悪いの。――どうしてあたしを信用したの? おかしいと思わなかった?」
 この状況にあってなお不思議と起伏のない、むしろ淡々とした声音で桃子が問いかける。責められているような気持ちになったが、どうしても体が思うように動かず言葉を返すことができなかった。
 訊きたいことが山のようにあった。なぜこんな事になったのか、いまの彼女にはどうしてもその理由がわからなかった。
 神無にとっては何もかもがあまりに唐突すぎたのだ。
 大嫌いだと告げた桃子の声がいまも胸の奥に深く突き刺さる。それがひどく悲しくて寂しくて、涙がこぼれそうになる。
 傷つけられることには慣れているはずなのに、たった一言がこれほど重いのだ。
 不意に桃子の指先が頬に触れた。
「神無?」
 そっと目尻に触れて、指の動きが止まった。戸惑うように息を呑む。
「なんだ? どうかしたのか?」
「……なんでも、ない」
 慌てたように返して桃子の手が離れ、遠ざかっていくのがわかった。呼び止めたいが、やはり体がまったくと言っていいほど反応しなかった。
 警笛はずっと鳴り続けている。
 桃子に声さえかけられない神無は、どことも知れない部屋に寝かされていた。
「響、あの……」
「なんだよ?」
「……」
 息を吸い込むような音を、何かがぶつかる激しい音が打ち消した。いくつもの足音と声が部屋の中に押し寄せてくる。すべてが男であると――すべてが鬼の血族であると瞬時に理解できたのは、身の危険を感じたがゆえであったのかもしれない。

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