【六十五 後編】

 神無は状況が確認できないにもかかわらず自分の体が緊張していくのを感じていた。うるさいほどの警笛が、緊張と恐怖を極限まで高めていく。
「それが?」
「ああ、鬼頭の花嫁」
「……大した女じゃないな」
「刻印は最高級だ」
「刻印だけかよ」
 あざける声にせせら笑う声が重なる。すでに聞き飽きたと言ってもいい内容だった。神無が何の反応もしないことに気づいたのか、どこか不満そうな声がつづいた。
「薬か?」
「起きてたほうが面白いのにな」
「それより撮影しとく?」
「デジカメなら持って来たけど」
「動画の方が面白いだろ。映研に行って借りてこいよ」
「そうだな。ちょっと待ってろ」
 足音が遠ざかっていくと、別の方角から複数の足音が近づいてきた。
「おいおい。何人呼んだんだ?」
「暇なヤツは全員、かな。こっちで体力使うのが嫌なら、校内うろついてる奴らをしてもいい」
 響が言うと、笑い声がした。
「どっちも面白そうだけど、奥にいるの、鬼頭の花嫁だろ? じゃあオレはこっちだな」
「当然な」
「この人数じゃ死んじゃわない?」
「殺すなよ、勿体ねぇな」
 あらゆる種類の笑いが押し寄せてきて、神無は総毛だっていた。また遠くから足音が近づいてくる。さらに増える音に警笛は限界を超えて鳴り響き、助けを求める彼女は無意識に胸の奥で同じ名を呼び続けていた。
 声に出すことができたなら、それは絶叫に近い呼びかけだったであろう。
 しかし、言葉は喉の奥に絡まったまま吐き出されることはなかった。
 すこし離れた位置で言葉を交わしていた男たちの中から離脱して近づく気配があった。ゆったりとした歩調で神無の元まで向かい、その顔を覗き込むなりぴたりとその頬に手をそえる。
 瞬時に全身に鳥肌がたった。
「……なんだ、意識はあるのか?」
 ささやく声は響のものだった。
「まあどっちでもいいけどさ。……ねえ、あんたがボロボロにされたら鬼頭はショックだと思う? それとも全然平気なのかな。庇護翼さえつけなかった花嫁でも、多少の愛着くらいあると思う?」
 頬を滑った指先がリボンへと触れる。遠くから不快な笑い声が聞こえ、神無は嫌悪で吐き気さえ覚えた。
「でも、残念。この特別棟の部屋は特殊でね、まだ研究段階だけど自分の印がある花嫁でさえ、ここにいれば見つけることができないっていう代物なんだ。だから、障害をかいくぐってどんなに頑張って捜してもここに来た時には手遅れって寸法。――鬼頭にはもっと生き地獄を味わってもらおうかな」
 ふわりと風が胸元を通り過ぎる。そこでようやく、神無は着衣が乱されていることに気づいた。
「別にあんたが悪いって訳じゃない。だから、恨むなら鬼頭を恨め。バカな男に印を刻まれたばっかりに、人生をムチャクチャにされたんだ」
 吐息が頬に触れ、そこから不快感が広がっていく。すぐにでも押しのけたいのに体がどうしても言うことをきかず、冴え渡る神経だけが悲鳴をあげつづける。それは神無にとってまさに拷問とも呼べる状態だった。
 ゆるりと動いた指が布地をひっかけると、冷たい風が肌を撫で、衣擦れの音が間近で聞こえた。
 遠く近く、悪夢のように下卑た笑いが木霊する。
 助けてとどんなに叫んでも、声にさえならない言葉を聞く者はない。聞いたとしても残酷に笑みだけを繰り返す彼らが助けてなどくれるはずもない。
 絶望が胸の奥から押し寄せてくる。
 鬼ヶ里に来て、もう長いこと忘れていた感覚だった。日常のトラブルは絶えなかったが、以前とは比べ物にならないくらい穏やかな日々をおくっていた彼女は、もうあんな生活に戻ることはないだろうと漠然とそう思い、そう願っていた。
 だが、現実は違う。
 ゆっくりと肌に指が滑っていくたび、皮下が腐敗していくような錯覚がした。
 いっそ肉ごとえぐってくれたほうがどんなに楽か――そう、思った直後。
「待って!」
 鋭く桃子が叫んでいた。辺りをつつむ異様な空気がわずかに揺らぐ。
「……さっきからおかしなヤツだな」
 不愉快そうな響の声に苛立ちが混ざる。神無は必死に重い瞼を開いてかすむ目を凝らし、己のおかれた状況を把握して息を呑んだ。
 室内はこれといった設備もないのに異様に広く、それに反して、通常どの部屋にも設置してあるはずの窓がひとつとしてない。記憶に残る光景は、すぐに過去に何度か利用したことがある部屋へと繋がった。
 放送部が他の部活と共有で使用許可を得ている部屋によく似ている。一度だけ、部長である大田原からそこが完全防音の特別な部室だと聞かされた。視線を動かし遠くにいくつかの机と椅子を認め、神無はそこがその部屋であると確信する。
「桃子、いまごろ良心の呵責とか言い出すなよ?」
「ち、違う、けど……! ちょっと! やめてよ!!」
 悲鳴に近い声に、神無の肌をたどる指が離れる。
「うるさいな、萎えるだろ。見たくないなら出て行けよ」
「その子の傷」
「あ?」
「なによ、その傷……!」
 大勢の男たちはまるでひとつの塊のように輪郭を崩してうごめいて見えるのに、桃子の姿だけははっきりと網膜に飛び込んでくる。
 青ざめたその顔は混乱するように歪んでいた。
 桃子がなにを言っているのかわからなかった神無は、すぐに彼女の視線がはだけた胸元にそそがれていることに気づく。ここに来てから自傷によって新しく傷が増えることはなくなったが、それでも、体中に残された痕は消えることなく肌に刻み込まれている。
 見た者を不快に、あるいは残忍にする醜い傷痕を、神無は誰の目からも隠し続けていた。
 桃子が知らないのも無理はない。
 反射的に傷痕を隠そうとしたが、やはり体がうまく動かなかった。きっと気持ちが悪いと思われたに違いない。そう考えると、こんな状況なのにひどく悲しかった。
「どうしてそんな傷があるの? その子は、守られて」
「バカじゃないのか、お前」
 冷ややかな声は心底呆れたように桃子に向けられた。かすむ目で響を見上げると彼は冷笑して桃子をめつけている。空調の管理されている部屋が冷えていくような錯覚に、近づいてきた男たちさえ思わず足を止め息をのんでいた。
「十六年間、庇護翼に守られなかった花嫁が無事なわけないだろ。刻印の呪縛がどれだけ男を呼んだと思う? 生きてるなんて誰も思わないさ」
「そんな……」
「お前が鬼に捨てられても庇護翼はお前を守るためにそばにいただろ? お前程度の花嫁でも鬼はそれだけ気をつかう。鬼頭の花嫁ともなれば守りは鉄壁じゃなきゃいけなかった。それなのに鬼頭の名を持つほどの男が一番心を砕くべきことをないがしろにした。――これがその結果さ」
 手が、強引に衣類を裂く。
「なあ、悲惨だと思わないか? 誰よりも大切に愛されて育つはずの女が、欲望と嫉妬に狂った人間たちの間でどう自分を守ってきたか。それを考えれば、同情こそすれうらやむなんてお門違いもいいところだ」
 はっきりとわかるほど桃子の顔色が変わる。それは、侮蔑した態度をむけられることに対する怒りではなく、告げられた内容に驚愕しての転化であった。
「そんなの、あたし知らない……!」
「頭の悪い女だな」
 響は嘲笑して言葉をつづけた。
「三翼はずっと学園にいただろ? どうして守るべき花嫁のそばにいなかった? お前、一度もおかしいとは思わなかったのか」
 蔑みの言葉はどこか楽しげで、それが余計に不快感を増長させていく。
「だって、それじゃあたし」
「――ひどい女だ。くだらない嫉妬で真実に目をむけず、やっとまともな生活がおくれるようになった友人を裏切るんだからな」
「なにも教えてくれなかったじゃない!」
「当たり前だ。手駒は多いほうがいいに決まってる。使えなきゃ捨てればいいんだからな」
「あ、あんた最低!」
「お前に言われる筋合いはない」
「響!!」
 響の手が明らかな意思をもって神無の肌に触れると桃子は狼狽して足を踏み出す。その腕を周りにいた男たちが掴むと、彼女はいっそう狼狽して周りにいる男たちを睨みつけた。
「放してよ!」
 彼らにとってみれば響は鬼頭に並ぶ実力者で、下手をするなら畏怖の念で接するような相手である。その彼と対等な口をきく桃子の存在は不可思議で、鬼の花嫁としての格を考えればこの光景自体があまりに奇異だった。
「さっきからなんだよ、この女」
「お前の花嫁じゃないよな?」
 確認する男たちに響は肩をすくめた。
「そんなわけないだろ」
「放してったら!! 響、やめてよ!」
「……おい、桃子を――その女、押さえておけ」
 顎をしゃくる響に桃子は信じられない物を見るように目を見開く。ドアの前にたむろしていた男たちは暴れる彼女の動きを封じて要領を得ずに響に疑問の視線を投げかけた。
「なに? こいつも獲物?」
「……そいつはギャラリーだ。手は出すな」
「ふぅん? まあこんな女、こっちから願い下げだけどな」
 沸き起こる嘲笑を無視して響は桃子に微笑みかけた。
「オレはお前を被害者ヅラさせるほど親切じゃないんでね」
「響……!!」
「うるさいから口でも塞いでおけ」
 桃子に向けられた冷酷な笑みは、上手く働かない頭で懸命に現状を整理していた神無へとむけられる。重なり近づいてくる足音に恐怖しながらも、神無は鮮やかな黄金の瞳から視線がはずせずにいた。
 それは過去に何度も目にした残忍な狂気の色。
「泣き叫んでも誰にも届かない。まあ、明日の朝には自由にしてやるけど」
「……、は」
 神無の声を聞き、響は瞳を細めた。
「さあね。よくよく嫌われ者だからな、あの男は。いくら鬼頭でもあれだけの鬼を相手に無傷じゃいられないだろう。……もっとも、殺してもいいって伝えてあるから、軽傷ってこともないだろうけど」
 指先が頬をたどる。告げられた言葉にきゅっと唇を噛むと、それを見た響は苦笑をもらした。
「他人を心配してる暇はないだろ? 悪夢も地獄も人間が作り出すものだ。これだけの人数ですむなんて甘いこと考えるなよ」
 ささやきと同時に再度ドアが開く。増える足音とざわめきに総毛立ちながら神無は抗うように響を見つめた。
 名を、繰り返す。
 胸の奥で、呪文のように同じ言葉を何度も何度も。
 室内を埋める空気が大きく揺らめき押し寄せてくるのを感じると、恐怖で狂ったように鳴り響いていた警笛がふっと音を消した。
 次に目を開けたとき、もう一度笑うことができるだろうか。
 もしかしたら、二度と目を開けないほうが幸せなのかもしれない。
 身を守るために自傷を続けてきた少女は唯一この凶夢から逃れる術を知っていた。
 絶望すら恐怖で凍りついていく中、歯節はぶしに弾力のある肉を挟み、彼女はゆっくりと目を閉じた。

Back(65話中編)  Next(66話前編)