『五十八 後編』

「保護者気取りか? お前、想像以上に幸せな女だな。……言うこと聞いてやってもいいよ。ただし、オレの条件をのんだら」
「条件?」
「ああ。オレの花嫁になれ。それで桃子からは手をひいてやる」
「い……」
 嫌だ。そう、声が出そうになった。その手が頬に触れているだけで気分が悪くなっていくというのに、これ以上の何を望むというのか。それに、友人と呼んでいる相手と恋人が付き合うなら、直接の害がなくても、彼女を傷つけることには変わりない。
 それが取引の結果だとしても、頷けるはずなどなかった。
「その取引には、応じられません」
 小さく、だがはっきりと返すと、響が心外だといわんばかりに肩をすくめた。
「裏切ったりしない。約束は守る」
「違う。それじゃ、土佐塚さんを、傷つけるから」
「傷つける?」
「私は、友達だから」
 どう説明すべきか悩みながら返すと、そのニュアンスから神無が伝えたかったことを適切に読み取ったらしい響が鼻で笑った。
「……それなら、今日はこっちで許してやる」
 愛撫するように頬をたどっていた指が顎にかかり、強引に上を向けさせられて神無は驚倒した。
「ちゃんと覚えておけよ。オレの――」
 息がかかるのを感じると吐き気がした。どんなに逃げようとしても、背後は棚で、左右を響の腕で阻まれて身動きが取れない。喉の奥に絡み付いて出ない声の代わりに、ただひたすら胸中で助けを求め続ける。
 警笛の合間をぬって、たった一つの名を、繰り返し、繰り返し。
「……き……」
「無駄だ。いろいろ順番に教えてやるよ。オレ好みの女になったら、優しく扱ってやってもいい」
 声色はあざけりを含んでいる。全身に震えが走り、もう言葉さえでなかった。いたぶるための唇が震えるそれに触れる、その直前。
 よく知る気配を感じ、神無が目を見開く。
 急激に息苦しさが増し、明瞭な怒気が冷えた空気からさらに温度を奪っていく。一瞬にして世界が張り詰めていく感覚に安堵し、神無の体から力が抜けた。
「……いいところだったのに」
 小さな舌打ちとともに響の顔が離れていく。彼の体でよく見えないが、ドアが軋む音とともに気温が下がると、彼はあっさりと神無を解放した。
「条件はそろった」
 ずるずるとその場に座り込む神無を一瞥し、楽しげにつぶやく響の瞳は鮮やかな黄金に染まっている。だが、含むような物言いのあと静かに伏せると、それは何事もなかったかのように黒瞳へと転じていた。
「遅かったな、華鬼」
 振り向きざまに響はそう言葉をかける。なぜ華鬼がここにいるのか理解できない神無は、遠ざかる響の背を呆然と見送っていた。
 まともな声にすらなっていない花嫁の思いを――とくに助けを求める言葉を鬼は無意識に拾う生き物だが、花嫁はおろか、それを認識できる鬼自身もあまりに少ない。
 その常識はずれの原理こそが鬼と花嫁を結ぶ絆とも知らず、彼女はわけもわからずその場に座り込んで響が触れた頬を無意識にこすっていた。
「いい加減にしろ」
 強引に呼び寄せられた♂リ鬼はいつも以上に苛立っていたが、響はそんな彼に飄飄とした態度で笑む。まとう空気に殺気が混じっていることに気付いた響は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「いいのか? こんなことでもめて、停学でも喰らいたい?」
「……」
「今は学園を離れたくないだろ、華鬼。三翼は役に立たないよ。理由はわかってる? ああ、わかってなさそうな顔だな」
 挑発的に笑って殺気立つ華鬼の正面に立つ。
「――オレの人脈を甘く見ないことだ」
 勝ち誇ったその一言に華鬼の苛立ちが増したのがわかった。だが、彼はあえて何も言わずに道を譲り、そのまま響がレコード室を出て行くのを待っていた。
 こんなことをする人だっただろうか、と神無はぼんやり考える。華鬼に関しては、後先考えず、すぐに行動に移るイメージがあるのだ。気に入らないものなら、自分が不利になろうともその場で決着をつけようとするような、そんなタイプだと思っていた。
 過去の彼には己の欲求に対し、傲慢とも思える素直さがあった。
「あ、あの」
 神無が礼を言う前に、華鬼は彼女に近づいて目線を合わせるようにしゃがんだ。いったいどんな風の吹き回しだとパニックになる彼女の手を掴み、こすり続けられ真っ赤になる頬から離すと、両手でその頬を包んでから確認するように左右に倒した。
「華鬼?」
 ぎょっとしたが、さらに入念にチェックされて言葉を失う。最後に柳眉をよせながら真っ赤になった神無の頬をさすり、
「別に汚れてないぞ」
 と、訳のわからない意見を述べてきた。一瞬考え込んだ神無は、響が触れたことによって不快感が残っていた場所を必死になってこすっていたことを思い出し、なぜかひどく焦った。まさか誤解されたのではないか、あのまま華鬼が来なければどうなったかと思うと血の気が引く。
 真っ青になる神無をしばらく見つめていた華鬼は室内を見渡しておもむろに口を開いた。
「……放送部か?」
「は、はい!」
「堀川響も?」
 重ねられる問いに躊躇いがちに頷くと、あからさまに嫌な顔をされた。
「神無」
「はい」
「うろちょろするな」
 神無の立場を考えれば短く的確な指示である。詳細を聞かれないのはありがたく、彼女は小さく吐息をついた。
 もっとも、訊かれたところで返答はできないだろう。三翼があれほど警戒する男に単身で会いに行ったのだから、彼を嫌っている華鬼だっていい顔をするはずがない。
 そこまで考え、神無ははたと気付いた。今までの響のやり方を考えれば、彼が簡単に手を引いてくれるような男でないことなど容易に想像がつく。仮に交渉に臨むなら、こちらもそれなりの手札が必要になるのではないか、と。
 目下、彼女は手札になるようなものは何もなく、いいように利用されて切り捨てられるのが関の山だ。
 自分の軽率な行為に恥じて神無は項垂れた。友人を守るどころか、事態を悪化させかねない行動をとっていたのだ。
 神無は考えれば考えるほど落ち込み、そして、そんな彼女をしばらく見ていた華鬼はどこか奇妙な顔をした。呆れたような――いや、困ったと表現したほうが適切な、そんな表情を浮かべて彼は立ち上がった。
 そのまま出て行くのだろうと思って神無がさらに項垂れると、彼は身をかがめて強引に彼女を立たせた。それからじっと、思案するように神無を見おろして再び赤く染まった頬に手を添える。
 無愛想な顔が不意に近づき、神無はぎょっとした。
「さっき、何かされたか?」
 てっきりこのまま言及する気はないだろうと安心していた神無は、彼の問いに息をのんだ。まるで数分前の再現のように身をかがめられ、恐怖ではなく焦りがその胸に押し寄せてきて、彼女はとっさに彼のシャツを掴んだ。
「き、キスを……っ」
「……されたのか」
「されそうになって、それで、華鬼が来て」
「未遂か?」
 単刀直入に確認してくる言葉に神無は何度も頷く。不意に頬を包んでいた手が移動しその指が唇をたどると、片手が彼女の腰に回されやや強引に引き寄せられる。
 心臓が大きく跳ねた。
 就寝時はあきれるほど密着して眠っているが、彼の意識があるうちに抱きしめられたことは片手であまるほどの回数しかない。じっと見おろしてくる瞳がなんとなく怒っているような光を宿しているのもひどく気になる。
 そして、それ以上に気になるのが明らかに距離を縮めてくる彼の顔だった。
 一体全体、なにがどうすればこの状況になるのか。抵抗することも忘れて見事に硬直した彼女は、さらに近付くその顔を直視できなくて瞳を閉ざす。
 彼のシャツを握る手に力を込めた直後、再びレコード室のドアが開いた。
「神無ー……って、わ、ごめん!」
 元気な声が聞こえドアがぱたりと閉じる気配がして、神無ははっと正気づいて慌てて華鬼を押しのけた。
 とっさのことで彼も対処できなかったのか、神無はすんなりとその腕から逃げ出しドアをくぐって廊下へ出て、そそくさと資料室に向かう友人を発見する。
「土佐塚さん!」
「ごめん! 資料多いみたいだから手伝おうと思ったら、神無がレコード室で迷ってるって響のバカが言うから! ああ、続きしてきて。あたし資料集めてくる」
 何の続きをどうしろというのか、後ろめたさにさいなまれる神無の肩を、桃子は遠慮なくぐいぐいと押し戻す。しっかり見られたことが恥ずかしくなって、神無は紅潮した顔を伏せたまま首をふった。
「わかった、じゃ、防音設備の整った特別ルームがあるらしいから、部長に頼んでその部屋のカギ借りてきてあげる。だから続きはそこでしっぽり」
「し、しっぽ――」
 桃子の言葉を繰り返して、神無は慌てて拒絶する。いくら聞き慣れない言葉でも、いかがわしいことだけははっきりわかる言葉だった。
「遠慮しないでよ! お詫びお詫び」
「いらない」
 とんでもない発想にいたった桃子に焦る。確かに女好きで名だたる華鬼だから、あのシーンを見せられたらそう思ってしまうかもしれないが、神無に関し、華鬼の態度は軟化こそすれ、それ以上の感情をもって触れてきたことなどない。
 ――はずだと、機微まで把握しきれない神無は思っている。
 オロオロする神無を見て、
「そっか、続きは家ですればいっか」
 ぽんと手を打ち、桃子は頷く。
 あの状況になるまでの経緯はどうあっても説明できない上に、なぜ華鬼がキスをしようとしたのかもわからない。神無はどこまで誤解を解けばいいのか思い悩み、結局、
「意外と神無も大胆だね」
 そんな風に感心する桃子に言い訳さえできず、項垂れながら資料室についていった。

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