『五十八 前編』

 神無の危惧をよそに、それから桃子はトラブルに巻き込まれる様子もなく過ごしていた。四季子が再び接触してくるだろうと警戒していたが、数日前、あれだけ敵意をむき出しにしてきた少女は急に体調を崩したという理由で帰省し、いつも連れ立っていたユナは何かを恐れるように口をつぐみ、じょじょにクラスの輪から外れていった。
 神無にしてみれば唐突な転機である。しかし、鬼ヶ里祭で盛り上がる校内では、さしたる話題にもならずに彼女たちのことは次第に忘れ去られていった。
 さまざまな事象に安堵と疑問を投げかけながらも、神無は鬼ヶ里祭に追われるように忙しさを増した放送部へ時間を見つけては顔を出し、そして現在、
「助っ人だ」
 突然聞こえてきた、はずむ野太い声に顔をあげる。見れば部長である大田原がいつになく上機嫌で入室してきたところだった。
「遅いですよ、部長!」
 すかさず聞き慣れた声が揶揄するようにかけられる。神無には考えられないことだが、桃子は先輩後輩の垣根を気にせず発言する。むろん反感を買うことも多いが、大田原に関して言えば、これは好意的に受けとめられているようだった。
 文化部というより運動部に籍をおくほうがはるかに似合っている外見から硬派なイメージを抱かせるが、当人はおおざっぱな性格をして時にユーモラスでさえある。そんな大田原を意外に思いながら眺めていた神無は、彼のあとから入室してきた人物を見て無意識に
立ち上がった。
 すらりとした長身に整った容貌は、瞬時に男が鬼の一族であることを神無に伝えてくる。彼はぐるりと部室を見渡すと神無に目をとめ、挑発するような笑みを浮かべた。
 警戒する神無には気付かず、
「入部希望者ですかぁ?」
 脳天気な藤生ふじゅうがそう問いかけると、大田原はどこか呆れたように肩をすくめた。
「副部長のくぬぎ由紀斗だ」
「え。副部長? って、そいつ幽霊部員……」
「決めるときに逃げただろ、お前は」
「そうだっけ?」
「よかったらかわってやる。部長の席はあいてるぞ」
「遠慮しますっ」
 とってつけたような笑顔でそう返し、藤生は椅子に座り直してわざとらしく姿勢をただす。
 副部長、と神無が由紀斗を凝視して口の中で繰り返した。響の庇護翼であるこの男がいったいいつから放送部に在籍していたのか――そう考えただけで、背筋が冷えていくような気がした。
「それと、こんな時期だが入部希望者だ。堀川――おい、堀川? どうした?」
 由紀斗の背後を見ながら大田原が声をかける。聞き覚えのある名に混乱する神無の隣で、桃子が唖然と口を開いた。
「響?」
 まさに予想外といった様子で桃子が椅子から立ち上がると、名を呼ばれた本人がゆっくりとした足取りで姿を現した。由紀斗を目にした時以上の動揺が神無を襲う。華鬼を付け狙う鬼は、同時に彼女をも標的としてその視野に入れている。
「あ、土佐塚さんの彼氏」
 藤生が指をさして断言すると、大田原をふくむ放送部の面々は驚いたように響を凝視した。
「桃子が寂しいって言うから入部しました」
「ちょっと! 嘘言わないでよ! あたし、そんなこと言ってない!!」
「オレにはそう聞こえたけどなぁ」
「バッカじゃないの!?」
 遠慮なく罵声をあびせる桃子に、響から再三嫌がらせをされている神無はひたすら焦った。しかし、さんざんな言われようをされているにもかかわらず、響自身は腹を立てるどころか機嫌がいいようにみえる。それがいっそう不気味な神無は不意にむけられた彼の視線から逃げるように大田原を見た。
 雪像づくりだけでなく部活まで同じとなると、ともにする時間が今までと比べ物にならないほど長くなる。
 動き出した、と判断せざるを得ないだろう。
 知らず刻印のある場所を掴んでいた彼女は、無言のまま着席した。
 ここから離れたほうがいいかもしれない。迷惑がかかるとわかっているならなおさら、ここにい続けるべきではない。
 だが、必ずしもここ以外が安全であるとは断言できない。今までの行動を考えれば執拗に追ってくる可能性のほうがはるかに高いのだ。
「神無ー?」
 手元にあった書類を視界に入れたまま微動だにせず思考をめぐらせていた神無は、桃子の声に正気づいて顔をあげた。
「聞いてた? 資料室行って持ってきて欲しいものがあるんだけど」
 言われてとっさに立ち上がると、彼女が目を丸くして紙をめくった。
「過去五回分の鬼ヶ里祭に関する書類。……一人で大丈夫? いっしょに行く?」
「平気」
 ぐるぐる考えている間に各自は分担作業に取り掛かっていた。どうやらこれから鬼ヶ里祭で忙しくなることを見越して大田原が幽霊部員に招集をかけ、それで由紀斗が、さらに彼に誘われて響が放送部に入部したという説明になっているらしかった。
 祭事当日の放送部は意外と忙しい。大田原は予想外の入部希望者を歓迎し、部室内はギスギスした空気もなく弾む会話が途切れなく続いていた。
 神無にとっては警戒せざるを得ない者たちだが、他の人間にとってはそうではない。
 部室をあとにし、彼女は体にたまった緊張を吐き出すように重く溜め息をついた。三翼に報告すればさらに心配させてしまうだろう。下手をするなら水羽も入部すると言い出すかもしれない。教室と雪像づくり以外の警護で負担を強いるのはあまりに心苦しく、伝えるには抵抗が大きかった。
 しかし、このままでは相手の思う壺だ。事態が膠着するまえに、何らかの手を――。
 ふっと、背後で気配が動く。
 とっさに振り返った彼女は、人影がドアの向こうに消えるのを目撃して立ち止まった。
 息苦しいほどの緊張につつまれ、彼女は長く続く廊下、その途中にある分厚いアルミのドアを凝視した。
 今はレコード室として利用されているが、そこはもともと防音のほどこされた一室だと耳にしている。
 これは、罠かもしれない。馬鹿な女が飛び込んでくるのを、彼は嗤いながら待っているかもしれない。
 しばらくドアを凝視してから、神無は静かに歩き出した。
 たとえ罠であったとしても、ドア側に立てば逃げ道くらい確保できる。放送部の部室からはさほど離れていないから、声を出せば誰かが気付いてくれるに違いない。
 希望だけを並べて、神無はレコード室のドアノブに触れる。校舎全体に暖房が入っているが、さすがに未使用の部屋のまではそうでないらしく、触れたドアノブは内部の状態を知らせるようにやけに冷たく感じた。
 躊躇いを振り切るようにドアノブをひねり、神無はレコード室へと足を踏み入れ、迫ってくるように立ち並ぶ棚の数々に驚いて思わず顔を上へ向けた。レコード室と言われるその部屋は、アナログレコードなどから最新のものまで多く取り揃えている部屋で、昼の放送に使用する音楽はここから選ばれることが多い。
 音楽にうとい神無はいつも桃子に任せきりにしていたため、足を踏み入れたことがない部屋のひとつでもある。
「思ったより度胸があるな」
 さほど関心もなく耳元でそうささやかれ、驚いた神無が振り向く直前、その細い肩に容赦のない力が込められる。視界が大きく揺れ、息がつまってようやく、彼女は自分の体が棚の一つに叩きつけられたことを知った。
 目の前に秀麗な顔がある。楽しげに歪む顔は、笑顔のようで笑顔でない。たとえようもなく残忍な光を宿した瞳が値踏みするように神無を見おろしていた。
「保身は考えないのか? これじゃ三翼も苦労する」
 響は低く笑っている。突き飛ばして逃げればすむはずなのに、うるさいほど鳴り響く警笛がはっきり聞こえているのに、指一本動かすことができずに神無は響の顔を凝視した。
 圧倒的な存在感は、華鬼のそれとどこか似ている。強い鬼なのだということをひしひしとその身に感じながら、神無はこくりと唾を飲みこんだ。
 いったん口を開けたが、言葉がうまく出てこなかった。それに気付いた響の手が、神無の頬に触れる。
 悪寒が全身に駆け抜けた。まるでそこからただれていくような錯覚に、一瞬だけ気が遠くなりかけ――くっと、歯を噛みしめる。
「なに?」
 息がかかるほど間近で鬼が笑っている。棚に肘をつけて覆いかぶさるようにしている男と、それをまっすぐ見上げる女の姿は、遠くから見れば恋人同士の逢瀬に見えるだろう。
 けれど、そこに甘さは微塵もない。
「聞いてやるよ。言ってごらん」
 からかうような声音に唇を噛みしめ、神無はようやく口を開いた。
「土佐塚さんに」
「……桃子?」
「ひどいこと、しないで。別れてください」
 必死で言葉にした瞬間、響は顔を伏せて肩を震わせた。笑っている。それも、まぎれもない嘲笑だ。

Back  Next(58話後編)