秒針が真上をむいたとき、教室のドアが音もなく開いた。消灯された教室は外から差し込む雪明かりでぼんやりとほの白く、いつも以上に静まり返っている。
 その中で、衣擦れの音と歩をすすめる音だけが生まれては消えた。まるでそれに呼ばれたかのように、雪景色を眺めていた瞳が室内へと向けられる。
「ずいぶん痛ましいな」
 平然と近づいてきた少女の頬にはガーゼが張りついていた。傷の深さを知る響は眉をひそめ、体を反転させ彼女に向きなおると白く浮かび上がったその一点を注視する。女の顔に傷が残るというのはあまり好ましくない――とくに、鬼の血を継ぐ者は美醜にこだわる傾向があり、無意識に拒絶することも珍しくなかった。
 しかし、そうと知らない桃子はどこか自嘲気味な笑みを浮かべてガーゼに手を当てた。
「傷、残るかもしれないんだって」
 響に近付きながら桃子はどこか楽しげな声音で告げ、ガーゼの上から傷を撫でる。その指先に力がこもっていくのを見て響はとっさに手を伸ばした。
「――よせ」
「傷が残ったほうがいいじゃない。神無、ずっと自分を責めて……」
「いいから、よせ」
 怪訝な顔をする桃子の手をむりやりどけさせて響は溜め息をつく。
「そこまでしなくていい。他に方法はいくらでもある」
 傷ぐらい、と桃子は楽観視しているらしいが、体の中で一番目立つ場所なのだ。効果的なのは認めるが、たとえ手術である程度は消えるとしても、普通の女ならあえて残したいとは思わないだろう。
 妙に割り切ったところがある桃子を響はなかば呆れたように見つめた。
「それより」
 あえて話題をかえるように響が口を開く。
「高槻が動いてるらしいな」
「高槻って……保健室の?」
「ああ。三翼の一人、高槻麗二。お前、探り入れられてるぞ」
「神無の友達だから?」
「怪しいって思われたんだろ」
「それってどういう……」
「これでどう判断されるかな。鬼頭の花嫁の反応見た限りじゃ、悪くなかった――」
 静寂のなか淡々と語っていた響は、突然聞こえてきた鋭い音に口をつぐんで桃子を見、彼女の近くにあった机が隣の机を押して傾いているのを確認して状況を把握する。
 彼女は口で言うより行動でしめす場合が多く、そのほとんどは不満が表面化したものだった。
 そして、それらは子供の駄々と大差ないほど稚拙なもの。しかし、響にはひどく馴染みのある感覚である。
「勝手なことしないでよ。情報は共有して言ってるでしょ」
 苛立つ桃子の声に響が瞳を細めた。もともと大人しい女ではないが、最近は際立って荒れている。おかげで短気なはずの響がいつも拍子抜けして怒るタイミングを外し、どうやら由紀斗たちにはこれがなかなか好評らしい。多少面白くない彼は苛立ちをおさえてわざとらしいほど優しげな微笑みを浮かべた。
「思い上がるなよ。お前とオレは対等じゃない」
「……っ!」
 怒りに満ちた瞳をまっすぐ受けとめ、響は平然と微笑みを返し一歩近づいた。
「あのくらいの情報で図にのるな」
「響!」
 詳細な情報のお陰で身動きがとりやすかったのは確かだが、いつまでも同等の立場だと思われ顎で使われるほどプライドが低いわけではない。自分の命が簡単にひねり潰せるものであることを、彼女はもっと自覚する必要がある。
 でなければ、いつまでも高飛車な態度が続く。
「オレの言ってる意味、わかるよな?」
 じわじわと重圧をかけるように問いかけた。誰もがただよう空気に青ざめて逃げ出すほどの怒気をまっすぐ桃子へと向け――響は、ふと柳眉を寄せた。
 桃子の視線はそらされることなく、響のそれを受け止めている。身がすくむほどの怒気を向けられているはずなのに、彼女の顔からは恐怖ではなく怒りが読み取れる。それは、欲求を満たすためだけに友人を貶めようとする矮小な女にしては予想外の行動だった。
「あんたの言いたい事なんてさっぱりわかんない」
 張り詰めた空気を物ともせずに桃子はきっぱりと言い放った。
「じゃあどうしたら対等になれるわけ? 必要なら木籐先輩にでも近付いてあげるわよ」
「……お前」
「なに」
「……バカか?」
「なんでよ!?」
 どうやら驚くほど視野が狭いらしい。真性かと内心で呆れながら、そう思うと苛立つ自分が馬鹿らしくなって視線を逸らして窓を見た。桃子が下手に華鬼に近付こうものなら、せっかく今までこつこつ整えてきた舞台がすべて無駄になる可能性も考えられる。
 それくらいなら、このままの状態のほうが都合がいい。
「響!」
 鋭い呼びかけに肩をすくめて見せ、響は雪景色を眺めていた視線を彼女へと戻した。傷つけることなら容易にできる。彼女は鬼の歪んだ遺伝子を取り込んだ花嫁ではあるが、同時にただの人間でもあるのだ。過去に自分がどうして守られてきたのかも知らない女なら、労せず殺すことができる。
 自分がただの女でないことを知らないのであれば。
「ひとつ、頼みがあるんだけど」
 雪明りが彼女の半身を白く浮かび上がらせる。室内を暖める機械音だけが小さく不快な音をたてていた。
 この状態で要望があると口にできるとは思ってもみなかった響は桃子の顔を注視した。
「なんだ?」
「江島四季子、邪魔になっちゃった」
 笑む。
 それは、確かに人であるはずの女が見せる鬼の形相。
 響は瞳を細めた。
「……江島?」
「日本人形みたいな綺麗な子、いたでしょ? この傷の」
「ああ」
 手の内側に凶器をしのばせ神無を狙った浅はかな女――結局は桃子が神無を庇ったことにより、神無自身は傷一つ負わずにいる。美しい顔を醜く歪めたあの様は、妄執に囚われた悪鬼と呼ぶにふさわしかった。
 しかしそれ以上に歪んだ笑顔が響の目の前にあった。
「あの女、利用できるけど動きすぎる。だから、もういらない」
 同情の欠片もなく桃子はそう口にした。その意図を瞬時に悟った響は一瞬だけ目を見開いて失笑する。
「怖い女だな」
「知らなかった?」
 平然と言い放つ彼女の顔を響は正面から捉えた。響にそれだけの力があるとわかっているからこその言葉――それならば、意外に愚者というわけではないのかもしれない。
 今までうまく利用していた女だが、切り捨てる気になったらしい。表立って動かれては面倒だと響自身も納得した。
「桃子」
「なに?」
「お前、意外と面白いな」
「……どういう意味よ」
 響の言葉に途端に不機嫌な顔になったが彼は気にも留めずに笑った。そして携帯電話を取り出してから動きをとめ、少し考えてから口を開いた。
「なにが望みだ」
「学校に来られないようにして。あんなことされたら神無が怯えちゃうでしょ?」
「……わかった。方法は?」
「好きにすればいい。綺麗な子だから、どうとでもできるんじゃない」
 突き放すように口にして桃子の視線も雪景色へと流れた。
 公で制裁されるより裏で処理したほうがいいととっさに判断したらしい。下手に注目をあびたくない現状からすればその選択はあながち間違いではなく、その手段に響を組み入れたことはこの場合得策といえた。
 本当に意外な一面がある。短慮ではあるがそればかりではないのが面白い。
 響は携帯に視線を落とし、逡巡したのちにポケットへ滑り込ませた。女の顔に傷を負わせたのだから相応の報復は覚悟してもらわねばならないだろう。そう思うと笑いがこみ上げてくる。
 しかし、あえてそれを押し殺す。
「桃子」
 小さく呼びかけても、彼女の視線は窓の外。
「ダンス、ちゃんと練習しとけよ」
 笑いを含んだ声で告げたときだけその肩がわずかに揺れた。口を開かなくても苛立っていることがわかる。それが余計におかしかった。
 さて――。
 響は視線を彼女からはずす。
 少しばかり手荒に扱っても壊れないだろう手駒は、予想を裏切って彼を楽しませる動きをしてくれる。
 すげ替えがきくから場合によっては壊れても惜しくないと思っていたが、これはなかなか貴重な逸材かもしれない。何より臆することなく睨みつけてくる気の強さが好ましい。神無に告げた言葉ではないが、少しくらい大切にしてやろうかという良心さえ生まれた。
 けれど同時に、彼は気に入ったものを破壊するときの快楽を知っている。信頼し、受け入れた者にあっけなく裏切られて絶望するその姿は、彼の加虐心をひどく刺激する。
「……どうしようかな」
 ささやきながら、彼は忍び笑いに肩を震わせた。

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