【三十六 後編】

「――邪魔よ」
 息をのむ神無の隣を花の香りが通過する。その途中で、それはぴたりと足を止めた。
「出入り口で立ち止まらないで。食事をしに来たんじゃないの?」
 鈴が鳴るような声に神無は四季子から視線を移動させる。その場の空気にはふさわしくない、ジャージの上下を着た女があきれたような顔で立っていた。
「須澤先輩……」
 壇上で一度だけ見たことがある。無造作に縛った髪に加えて華やかさの欠片もない服装だが、生来の美貌にはなんの影響力も持たないのだろう。質素だからこそいっそう目を惹く少女は溜め息をついてから神無を見た。
「寮長の報告で仮入寮がすんでるわ。規律を乱す発言はひかえなさい」
 初めの言葉を神無に、続けた言葉を四季子に向けて、生徒会副会長である須澤梓は何事もなかったかのように歩き出す。多くの視線を受けながら、彼女は皿をひとつ手に持ってから振り返った。
「食べないの?」
 短い質問に四季子は小さく舌打ちしながら歩き出した。その全身から拒絶の意思を感じ取り、神無は萎縮しながら食堂に入る。いくつか重なる話し声はうまく聞き取ることはきないが、向けられる視線は友好的なものなどなかった。
 それを知ってようやく、桃子に言われるまま安易にここに来るべきではなかったのだと悟る。外よりは――学園内よりは、職棟よりは楽に呼吸ができるだろうと考えた、それがあまりに短慮だったのだ。
 桃子はどこに行ったのだろう。入寮手続きはすでに済んでいることを知り、急に不安になった。服を取りに行ったままなのか、それとも別のことで手間取っているのか――
 磨きこまれた皿を恐る恐る手に持って、神無は唇を噛む。とにかく、当初の予定通り彼女が食べられそうなものを皿に乗せたら、多少目立つことはあきらめて、そのまま部屋に帰るべきだ。居心地悪く大皿の前を行ったりきたりしているうちに、囁きが嘲笑を伴ったものに変化していた。
 思わず立ち止まると、その隣に再び梓が立った。
 ちらりと向けられる視線は優しさなど微塵もない。ただ冷徹に、彼女は神無を見詰めてから瞳を伏せて口を開いた。
「出ていってくれない? 本当は仮入寮なんて措置はないの。ここにあなたの居場所はないのよ」
 低く告げた内容に呼吸さえ止まりそうだった。心臓を鷲づかみにされたように、梓の言葉を耳にした神無は身じろぎすらできなかった。
「ここは男子禁制だけど、木籐くんだけは扱いが違うのよ。――彼がここに来ただけでパニックになる。その花嫁がどんなふうに見られているか知ってる? 花嫁たちは誰一人、あなたを歓迎しない。もちろん一般生徒もね」
 警告とも脅しともつかない一言を残し、梓はその場を離れる。立ち尽くすしかなかった神無はきつく唇を噛みしめてから細く息を吐き出した。
 いまさら、と思わないわけではない。敵意も憎悪も慣れすぎるほど慣れている。
 それでも本当の意味では慣れることなどなく、手にした皿が小刻みに揺れるのをとめることができない。
 きっと誰の目から見てもお粗末な花嫁だろう。多くの視線が向けられる中、逃げ出したい衝動をこらえながら平静を装って顔を上げた。
「図々しい」
 目の前で艶やかに少女が笑んでいた。梓が席に着くのを待っていたかのように現れた四季子は、フォークだけを片手に神無の前にいる。
「大嫌い」
 綺麗に磨かれたフォークが持ち上がった。次に彼女が何をするのかを理解しながらも、感覚が麻痺したかのように神無は身じろぎひとつしなかった。
 ふっと、どこかで悲鳴のような声が聞こえた。大きく目を見開いたまま四季子の動きが不自然な形でとまる。
 四季子の暴挙を止めようとしたのか、椅子から中途半端に立ち上がった梓でさえ双眸を見開いていた。
 ざわめきが途絶え、奇妙な沈黙が訪れたことにようやく不審を抱いて、神無が皆の視線が集まる場所――食堂の出入り口を振り返った。
 そして、彼女も唖然と動きを止めた。
 いるはずのない――むしろ、いてはいけない男がポツリと立っている。
 彼はじろじろと室内を見渡して、それから神無に視線をとめた。
「……華鬼?」
 瞬時に緊張する。警戒する彼女をどう思ったのか、しばらくじっと凝視してから彼は踵を返した。数歩歩いて、再び動きが止まる。間をあけて首だけをひねって神無を見詰め、ひどく難しい表情のまま歩き出した。
 あまりにも彼らしくない。疑問に思うと意識するよりも先に体が動いていた。
 神無は手にしていた皿を呆然とする四季子に押し付け、本能的に安全と思える距離だけをあけ、今度は背後も気にせず歩き出した彼のあとを追う。
 奇怪な行動を見送った食堂から、ややあってざわめきがあふれた。
 神無は思わず立ち止まってちらりと食堂を見る。だが、いまさら弁解は無意味だろうと悟って、歩調を落とすことなく前を行く男を追った。
 広い廊下で何人もの女子生徒とすれ違ったが、幸いなことに目立つ男が前を行ってくれるおかげで神無自身はさほど注目されることはなかった。
 どこに行くのかと首をひねる。声をかけようと何度も思ったが、返答がないような気がして口をつぐんだ。
 そのうち立ち止まるだろうと安易に考えていたが、彼は大きな木製のドアの横にある通用口を開けて迷うことなく女子寮を出た。
 女子寮は神無にとって居心地のいい場所ではないし、必ずしも安全と言う訳ではないが、外には確実に彼女に危害をくわえようとする鬼がいる。身を守る術をいまだに持ち得ないならば、せめて生命の保証がされている女子寮にいるべきだ。
 神無は通用口のドアに伸ばした手を慌てて引っ込めた。
 そして、こんなにも長く恐怖の対象である男を追いかけている自分に疑問を抱く。過去にも確かに彼を追って行ったことがある。あの時は殺されかけ、おそらく今もそのときと変わりなく状況が改善されているという事はないだろう。
 でも、と打ち消して、神無はしばらく通用口を見詰めた。
 生家で少し彼の内面に触れることができ、華鬼は出会った頃とは違って恐怖の対象というばかりではなくなった。
 迷いに迷って、彼女はドアノブに触れる。
 闇に飛び込むのは恐ろしい。誰も彼も、彼女にとっては恐怖の対象でしかない。それなのに、不安定に揺れているような彼の事がどうしても気になる。
 緊張しながらドアを開けた。明るい寮内とは違いそこには静寂だけが待っている。すでに華鬼の姿は見えなかったが緊張を解くことなく神無は足を踏み出した。
 背後でドアが閉まった瞬間、腕を強引に引かれた。前方ばかりを気にしていた神無は不意打ちに驚き鈍い痛みに小さくうめく。直後、過去に何度も華鬼から向けられた怒気が訪れた。
 恐怖が全身を包み、自身を守るための警笛が鳴り響こうとする――その、手前で。
 ふわりと思いもよらない感触が唇に触れた。急速に怒気が去り、戸惑いとも驚きともつかない表情の華鬼が目の前にいた。
 何が起こったのか理解できない。神無はされるがまま、抱きすくめられるような形で彼を見上げていた。
 探るように華鬼が見おろしてくる。言葉もなく、ただ穏やかな風だけが通り過ぎた。
「華鬼……?」
 何かが唇に触れた。それがなんであるかを考えるよりも先に、瞳が彼の唇を辿っていた。体温が上がっているのが自分でもはっきりとわかり、彼女は彼以上に動揺して身じろいだ。
 しかし、腕は緩まない。無言で見おろしてくる彼の視線を受け止めきれずに目を逸らし、すっぽりと体を包み込む腕から逃れようと身をよじった。
 抱きしめる腕が少しだけきつくなる。ベッドで抱きしめられたまま眠った感覚に酷似する状況にただ混乱して彼女は顔をあげた。
 背中に回っていた腕が移動した。神無がそう感じた直後、前触れなく再び彼が身をかがめた。
 柔らかく、ついばむように唇が触れる。自分の身に何が起こっているのかもよくわからず、抵抗する事も忘れて目を見開くと困惑しているような華鬼の顔が見えた。
 繰り返される軽い口づけに反応も反発もできずにいると、確認するようにもう一度だけキスをして、やはり柳眉を寄せたまま彼の腕がはずされた。
 ようやく解放されて後退った神無は女子寮の壁にぶつかり、そのままへろへろと足元から崩れていく。そして、真っ赤になって口元を押さえ華鬼を見上げた。
 彼は口を引き結んだままほんの少しだけ逡巡して歩き出した。混乱しすぎて言葉が出ない神無は、彼が職棟ではなく、生い茂る森に向かったことに驚いて慌てて立ち上がろうとした。
 しかし、うまく立てない。下半身にさっぱり力が入らないのだ。しかも、極度の緊張のためか、腕にも力が入らない始末だ。
 小さくなっていく華鬼の姿に焦りながら何度も立ち上がろうと苦心したが、結局、彼が木々の中に消えたあともしばらく立つことができなかった。
 森を見つめたまま、熱い唇にそっと触れる。
 口づけは一方的だったが、ひどい事をされたわけでも怖かったというのでもない。逆に、その感触が心地よいと感じた自分がいることに、彼女は混乱した。
「……れ?」
 通用口の脇で座り込んだまま悶々としていた神無の耳に、寮内と風以外の音が聞こえたのは、たぶん華鬼が去ってからずいぶんしてからだったろう。
 大きな紙袋をひっさげた光晴と、嫌そうな顔でその後ろをついて歩く水羽が闇の中から現れた。
 妙なところで座り込む神無にたくさんの疑問符を投げながら駆け寄ってきて膝を折った。
「どないしたん!?」
 無論、理由などとても説明できる状態ではない。真っ赤になりながら首を左右に振っていると、水羽が安堵したように溜め息をついた。
「笑い取りに行かなくてよかったじゃない、光晴」
「や、せやから、侵入は水羽の仕事で?」
「一蓮托生」
「……後生やな……ホンマ助かった、神無ちゃん」
 紙袋をそっと脇に押しやって光晴が深々と頷いた。話しの流れがよくわからない神無は熱を冷ましながら二人を見詰める。
 種族で言えば襲ってきた鬼と彼らは同系だった。恐ろしいものだと、そう思わずにはいられない相手だった。
 だが、身を案じてくれていたのだとわかる。露呈されない部分はやはり断言できないが、昼間は不安で仕方がなかった真摯な眼差しが、不思議と今は受け止められる。
「平気?」
 いまだに立とうとしない神無に少し控えめに水羽が問いかけてきた。
「ボクたちは大丈夫だから、信じて」
「花嫁守るんが庇護翼の仕事やし、自分の花嫁守るんは当然や」
 何も聞かずにそう言ってくれる。その優しさが心にしみる。一呼吸あけてから二人に向かって頷くと、嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「じゃ、帰ろか?」
 光晴の問いに慌てて女子寮を見た。桃子に断りなく出てきてしまったから心配しているかもしれない。どうするにせよ、色々と世話を焼いてくれた彼女には相談する必要がある。
「花嫁奪還はボクたちの仕事だけど、連絡程度ならもえぎが動いてくれるよ」
「簡単なことならなんとかなるかもしれんし、一応はそういう手筈にしたんや」
「だからひとまず、家に帰ろう」
 差し出された手を神無は戸惑いながら掴む。引き起こされる途中で、神無はいまだに腰が抜けたままであることを思い出した。
「……何かあったんか?」
 真っ赤になる神無を光晴がまじまじと見詰める。キスの余韻はとうに消えたが、免疫のない彼女は何も答えることができずに真っ赤な顔を伏せた。
 答えようとしない神無に微苦笑して光晴がその細い体を軽々と抱き上げる。
「水羽、荷物よろしゅう」
「ズル……!!」
「腕力はオレのほうが上」
 ちょっと得意げに返して、さらに赤くなった神無を見て機嫌よく笑った。さっきとは違う腕の中で、神無はわずかに身をこわばらせた。視線が知らずに森に向く。
 たった一人、闇の中に吸い込まれていった鬼は――
 それからしばらく、姿を消した。

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